欠損の共鳴
正面。排気口から溢れ出した漆黒の質量―11区の記憶すべてを飲み込んだ女王蜂が、鎌首をもたげている。
僕は、ひび割れた灰白色の爪を前方の空間へと突き立て、格子状の重結晶壁を強引に固定し続けていた。キィ、高周波が鼓膜を劈く。女王の繰り出す「死のエラー」が、僕の展開した防護壁に物理的な質量となって衝突し、不快な火花を散らせた。
背後から、ハンスの呻きとニコの悲鳴が、粘度を増した熱気と共に伝わってくる。視界の端でハンスの右腕が見る間に黒い蜜に侵食され、ぐらりとその体が傾ぐ。崩れ落ちた彼の瞳からは徐々に光が消えていく。
「ノア…!」
『…分かっています、ハンスの個体定義、残存率15%を切りました。ですが、マスター。あなたが手を離せば、今抑えている「群れ」が離散します。そうなれば、11区は文字通り「絶叫」に呑み込まれるでしょう』
ノアの非情な宣告が、焼けるような脊髄の痛みに重なる。
ハンスの口端から、どろりと熱い瀝甘露が溢れた。その指先―強引に受肉させた「偽造爪」の棘が、神経系を焼きながら不気味に脈動している。
「ハンス、先輩…」
ニコの声が、羽音に掻き消されそうに響いた。
彼は、震える足で一歩前へ踏み出す。その視線は、自身の「半分透けた右腕」に注がれていた。それはかつて教団の攻撃で、存在することさえ危うくなった「空白」である。
「僕、ずっと怖かった。この腕がいつか全部消えてしまうんじゃないかって…でも!」
ニコが、その半透明の右腕を、ハンスを蝕む漆黒の熱へと差し伸ばした。淡い火花を散らす指先がハンスの首筋に押し当てられる。
「あなたに消えてほしくない」
ニコが震える指先で綴った術式がハンスの首から流し込まれ、脳へと這い進もうとする黒い蜜の侵食をかろうじて食い止める。その瞬間、弾けるような高周波と共にノイズが爆ぜた。
「ニコ…!」
僕の叫びは、正面の煤蜂の羽音にかき消された。僕の支えている防護壁が青い火花を散らして煤蜂の殺意を受け止める。
かろうじて視線だけを動かすと、ニコの半透明の右腕が、ハンスの右腕から溢れ出す漆黒のバグを真っ向から受け止めていた。だが、予想していた「ニコへの侵食」は起こらない。ハンスを焼き潰そうとしていた黒い蜜は、ニコの皮膚に触れた瞬間、抵抗を失ったかのように吸い込まれていく。
『マスター、解析を修正。 ニコは自身の右腕を強引な「迂回路」として定義し、ハンスの致死負荷を自分の方へ引き込んでいます』
ノアの驚愕に満ちた声。
ニコの腕は、教団の攻撃によって存在の定義を削られ、「実体」を失いかけていた。それが今、この極限状態でどんな高度な術式でも成し得ない「抵抗器」へと反転している。
「…消えちゃ嫌だ、ハンス先輩…!」
ニコの顔が涙に歪む。ハンスの脳へと向かっていた黒い絶叫は、ニコの腕という迂回路を通る際、激しい火花を散らしてその勢いを減衰させていく。ニコは自身の消えかけた存在そのものを「抵抗」として燃やし、ハンスの神経系が焼き切れるのを文字通り命懸けで食い止めていた。ニコの腕を通り抜けた黒いノイズは、勢いを失ったまま黒褐色の結晶へと重結晶化され、ボタリと地面に零れ落ちる。
「…ッ」
ニコの顔から血の気が失せていく。ハンスの毒を肩代わりし、自身の存在を「迂回路」として燃やす代償は、彼の輪郭そのものを掻き消そうとしていた。半透明だった右腕が、激しいノイズと共に光の粒子となって剥落し始める。ノイズの群れが彼の細い神経を逆流し、内側から焼き切ろうとする。ニコの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
「ノア…!」
『却下。あなたの両手は今、女王の「殺意」を抑えるためだけに全演算リソースを消費しています。ここで手を離せば、結晶壁は一瞬で粉砕され、全員が質量の汚泥に呑み込まれるでしょう』
「…おう、若造。一人で背負うにゃあ、そいつは重すぎだ」
分厚い防護手袋を嵌めた手が、背後からニコの肩を掴んだ。膝をついていた採取人らが、過負荷で橙色の火花を噴く「共振型燻蒸器」を抱えて立ち上がる。
「ハニー・ダイバーを舐めるなよ。」
一人のダイバーが、燻蒸器の安全弁を力任せに引き抜いた。本来、蜂を鎮めるための「バグ・ノイズ」を放つその装置が、規定値を超えた過負荷によって断末魔のような異音を上げ始める。彼らが一斉に噴射レバーを叩き折ると、燻蒸器から吐き出されたのは、鎮静の調べなどではなかった。それは、11区が垂れ流し続けてきた「意味のない絶叫」を、ニコのバイパス回路に干渉させることで物理的なノイズへと変換した「論理ジャマー」の奔流だ。
ニコ一人に集中していた侵食の圧力が、ダイバーたちの放つノイズの汚泥と衝突し、激しく相殺されていく。
『マスター。 ダイバーたちがバグ・ノイズを広帯域ジャミングへと転用。ハンスを侵食していたバグの指向性を乱し、ニコの負担を40%肩代わりしました』
ノアの声が、泥を切り裂く一閃の刃のように響く。採取人たちの防護服の継ぎ目がバグ・ノイズの橙の火花でパチパチと弾け、焼けた配線の臭いが熱気と共に立ち込める。
ニコの右腕の明滅が、一瞬だけ安定した。彼らが作り出したジャミングの嵐は、ハンスの神経系を焼いていた「黒い蜜」を物理的に圧殺し、戦場に数秒間の不透明な空白を作り出す。
「ハンス先輩…!」
ニコが絞り出すように呼んだ。ハンスの口元がピクリと動き、瞬きした瞳が僅かに光を取り戻す。
「…」
ハンスの左手が動いた。震える手で自身の顔を覆い、強引に意識を繋ぎ止める。ニコがバイパスとなって毒を引き受け、ダイバーたちが作り出した、わずか数秒の「空白」。それは、この11区という場所で生を積み上げてきたハンスという男にとって、十分な数秒だった。
「…はっ」
ハンスが口に溜まった瀝甘露を吐き捨てる。彼は自らの顔を覆っていた左手を振り払うと、侵食され、煤蜂の毒で真っ黒に染まった皮膚に左手の爪を突き立てた。
「…定義を、右だけで焼き切れ…ッ!」
ハンスが吠える。左手の爪から無理やり搾り出された火花が、侵食の境界線—右肩の付け根へと叩き込まれた。
『 ハンスが自身の右肩に「論理的な断絶」を強制コンパイルしています。 脳へ向かうはずのバグの侵食を、全て右腕という「器」の中だけで循環させている』
ノアの声が告げる。
ハンスはニコが作ってくれたバイパスを起点に、自分自身の右腕を巨大な「過負荷の溜まり場」へと書き換えたのだ。ニコから流れ込む高密度バグ、そして周囲のダイバーたちが放つジャミングの余波。その全てを、自身の「右腕」という不純物の塊に集約し、肩より先へは一歩も通さないという強固な意志でせき止める。
ハンスの右腕から、パキパキと不気味に硬質な音が響く。暴れ回る黒い蜜はハンスの右腕を内側から食い破り、黒い血管のように肉を蝕んでいく。ハンスは歯を食い縛り、さらに左の爪を深く肉に食い込ませる。だが、その瞳に宿る灰色の光は、かつてないほどに鋭く、意志を取り戻していた。
「…いい顔してんじゃねえか、ニコ。…死ぬにはまだ早いだろ。あとは俺が引き受ける」
ハンスの掠れた声が、重く響く。
彼が自身の右腕を「盾」にして侵食をせき止めたことで、ニコへの負荷が目に見えて減衰していく。ハンスの腕でのたうつ黒い絶叫は次第に鎮まり、わずかなノイズを散らして沈黙した。
『マスター、背後の危機、一時的に収束。ニコによるバイパスと、ダイバー達の広帯域ジャミング、そしてハンス自身が「個体定義」を保持しました』
ノアの冷静な報告。
ニコは明滅する右腕を抱え、荒い息をつきながらも、ハンスの背中に守られてその場に繋ぎ止められている。背後の危機が、彼らの泥臭いあがきによって「一時停止」された。
その確信が、僕の両腕に力を取り戻させる。
「ノア。背後の監視はもういい…僕の全リソースを、正面の演算に回せ」
『了解。論理層完全解放。マスター、心拍数190…網膜、焼き切れても知りませんよ』
僕は自分の正面に意識を戻した。視線の先。排気口から溢れ出した漆黒の質量が、結晶壁を叩き続ける。11区のノイズを飲み込んで「殺意の塊」と化した女王蜂の複眼がこちらを見つめ返す。
「網膜が焼けても構わない、出力を上げてくれ。…この『黒い熱』、僕が全部食ってやる」
僕は、心臓炉の鼓動と僕の鼓動が重なるのを感じながら、爪の先から青い火花を散らせた。




