黒い蜜に、神経は爛れ
管理庁舎の休憩室。換気扇は死にかけ、排気口からはまだ薄まりきっていない廃霊が逆流している。
ハンスは、利き腕ではない左手で琥珀珈琲のカップを掴んでいた。彼は古びたソファに背を預け、左手でぎこちなくカップを口元へ運ぶ。琥珀珈琲の薄い灰茶色が、その灰色の瞳に濁った光を反射させていた。
「…しけた面すんな、ニコ。腕が透けたぐらいで、世界が終わるわけじゃねえ」
ハンスが睨みつけた先、ニコは僕のパッチで繋ぎ止められた自身の半透明な右腕を抱え、痛々しい沈黙を守っている。
ハンスの右手指先には、灰色の爪があったはずの場所が、滑らかな皮膚の空白として残されている。もはや火花を散らすための生体端子はない。
ハンスは懐から、煤けた小瓶を取り出した。中身は、泥のように重く黒い液体だ。蓋を開ければ、11区の地下に渦巻く廃霊を煮詰めたような、暴力的な芳香が鼻腔を突く。―これは「瀝甘露」だ。
左手で不器用に瓶を傾けると、焦げ茶色の重粘体が、一滴、糸を引いてコーヒーの濁った水面に落ちる。コーヒーの表面に落ちた焦げ茶色の雫は、瞬時に熱を放ち、水面を重く乱した。
瀝甘露は「煤蜂」が廃樹の樹液から作る高級甘味だ。0区で流通するそれは、11区の普通の住民では一生口にすることができないと言ってもいい。ハンスはどうやって手に入れたのだろうか。
「脊髄が、熱を帯びてやがる…」
一口啜ったハンスの顔に、苦痛と安堵が混ざった歪な笑みが浮かぶ。彼の消失した爪の残響が、空間で脈動している。僕は爪先でそれを感じ取り、思わず指先をこすり合わせた。
「イレブン。今夜、ダイバーの連中が地下から上がってくる。…0区への『貢ぎ物』を抱えてな。お前も、あの蜂の羽音を聴きに来るか?」
ハンスが机に置いた空のカップの底には、泥のように重く黒い蜜の残滓が、微かにこびりついていた。
夕暮れ、廃霊を発火させる太陽が沈むころ、僕たちは廃ビル群の足元に立っていた。
煤星灯の重々しい橙色と夕日の残光がどろりと溶け合い、空気が粘度を増しているようだった。
「そろそろだ」
ハンスが左腕の時計をちらりと見て呟いた。
「…あれが」
ニコが、掠れた声で呟く。
彼が抱える半透明の右腕が、周囲のノイズに同期して細かく明滅していた。
廃ビルの地下へと続く巨大な排気ダクト。そこから、湿った熱気が吐き出される。
直後、空気を切り裂くような、硬質な駆動音が響いた。
それは羽音だった。
金属が高速で擦れ合うような、神経を逆撫でする高周波のうなり。
「…おい、ニコ。腰を抜かすなよ。こいつらは『廃霊』に近い。隙を晒せば、中身を全部吸い出されるぞ」
ハンスの言葉通り、ダクトの暗がりに、無数の「黒いノイズ」が躍った。
煤蜂だ。
体長10センチほど、鈍い金属光沢を放つ黒い甲殻に包まれた地蜂。彼らは、11区の地下深く、あるいは廃ビルの隙間に根を張る変質した樹木―廃樹から微量の瀝星成分を含んだ重い樹液を吸い上げている。煤蜂は廃霊を代謝し、この世界のバグを「質量」へと変換する異能の生物だ。
その群れを割るようにして、地底の泥に塗れた「影」が這い出してきた。
その群れを割るようにして、地底の泥に塗れた「影」が這い出してきた。
「―全量、確保。不純物混入率、0.03%以下。…上出来だ」
くぐもった声の主は、全身を、継ぎの当たった奇妙な防護服で包んでいた。術式が損壊していない再生防護布の部分を組み合わせているのだろう。
ハニー・ダイバー。それは11区の「毒」を、0区の「熱」へと変える採取人たちだ。
彼らが背負った冷却タンクからは、先ほどハンスがコーヒーに垂らしたものよりも、さらに濃密で、心臓を直接掴むような甘い匂いが漏れ出している。
「よう、ハンス。生きてたか」
採取人の一人が、煤けたゴーグルを額に上げた。その顔には、煤蜂の針によるものか、黒い結晶が皮膚を食い破ったような痕が刻まれている。
「…ああ。おかげさまで『右端子』を全損したがな。代わりに、アンタらに譲る約束のブツを持ってきた」
ハンスが左手で差し出したのは、使い古されたネイルガンの高圧ワイヤーの束だった。
「助かる。地下の配管は、腐食が進んでまともな足場がないからな。…これが、今回の『配分』だ」
採取人が手渡したのは、革袋に入った重い何か。
ハンスはそれを左手で受け取り、中身を確認することなく僕へ投げ越した。
「イレブン、開けてみろ。それが、0区の連中が涎を垂らして待っている、この街の『血液』だ」
革袋の中には、焦げ茶色の、不透明な重粘体の塊が入っていた。
それは単なる甘味ではない。手の中に伝わってくるのは、異常なまでの「質量」と、微かな脈動。
僕のひび割れた爪が、その熱に反応してチリチリと焼き付くような感覚を覚える。
「…これ、生きてるんですか?」
その熱量に反応したかのように、透けかけたニコの右手の爪が淡い火花を散らした。その指先を恐る恐る伸ばそうとする。
「触るな。…それは、11区が流した『血』を煮詰めたものだ。ここじゃゴミ扱いされる廃霊のカスも、0区の綺麗なシステムの中じゃ、唯一の『本物の刺激』になる」
採取人は、瀝甘露が詰まったケースを、手慣れた手つきでCMR規格のコンテナへと詰め替えていく。
そのコンテナには、10区行きの公式な輸送ラベルが貼られていた。
「10区行き?」
ニコが怪訝そうな声を上げた。
ハンスが片眉を上げてそれに応じる。
「ハンス、瀝甘露は0区が管理しているはずじゃ?今回だって0区への物資輸送の護衛だろう? なんで10区なんだ?」
僕の問いにハンスは夕闇の中で、自嘲気味に口の端を吊り上げた。
「いいや。こいつの行き先はもっと上だ。0区の『真っ白』な連中さ。あいつらは、自分たちのシステムが完璧であればあるほど、こういう『汚れ』を脊髄に流し込まないと、自分が存在してる実感すら持てないらしい」
「要は、0区の上級市民が配給品以外の蜜を啜ってるのか」
「そういうことだ。一回10区の『廃棄物処理場』を中継するのさ。あそこでラベルを貼り替えて、正規の『不要データ』として0区へ送る。検閲官も、11区の泥臭いゴミデータなんかに興味はねえ。せいぜい不快なバグの塊だと思って鼻をつまんで見逃す」
ハンスは、不自由な左手で煙草を口に運び、火をつけようとし、自分の指先が震えていることに気づき、舌打ちしてそれをポケットにねじ込んだ。
「イレブン、0区のシステムは綺麗すぎるんだ。余計なノイズを一掃しちまったから、あいつらの神経は飢えてる。だから、こういう11区の『生』に混じった、喉を焼くような不純物を欲しがる」
CMRの管理網の「穴」を、黒い蜜が滑り落ちていく。
ハンスは、存在しない右手の爪で火花を散らすかのように指先をすり合わせ、遠く黒灰色の雲に覆われた中央区を指差した。
「…汚職、ですか」
ニコが声を震わせながら呟いた。
「汚職じゃねえ。これは『代謝』だ。毒を食らわなきゃ、あの黒灰の街は維持できねえのさ」
その時、地下のダクトから、先ほどよりも巨大な羽音が轟いた。採取人たちの顔から、一瞬にして色が失われる。
「…違う。この周波数は、いつもの採取ノイズじゃねえ」
一人が、震える手で検知器をダクトへ向けた。針が限界を超えて振り切れ、火花を散らす。
「おい。逃げろ! 『女王』のコードが書き換わった! バグ・ノイズの逆流だ!」
排気口から、黒い泥のような煙が噴き出す。
それは煙ではない。数万、数十万の煤蜂が、高濃度の廃霊を核にして凝集し、一つの巨大な「黒い腕」となって這い出してきたのだ。
「構えろ! ニコ、イレブンの後ろに隠れてろ!」
ハンスが叫び、左手で無理やりネイルガンを引き抜き、右手を構える。だが、彼の右手―生体端子を失った五指は、空間の霊子を掴むことができず、ただ虚しく空を切った。
黒い羽音の奔流が、僕たちの網膜を焼き、脊髄の神経を軋ませる。
11区の「生の極致」が、今、牙を剥いて僕たちを食らいにきた。




