掃き溜めの生存証明
管理庁舎の回廊を埋め尽くしていた純白の静寂が、内側から爆ぜるように崩壊した。
「が、はっ…」
僕の喉から漏れたのは、言葉ですらない、引き攣れた空気の摩擦音だった。
心臓炉の「真核」から溢れ出した混沌のノイズが、教団が築き上げた「神聖な空白」を、文字通り灰色に塗り潰していく。
それは、11区が積み上げてきた、誰にも顧みられない「生」の質量だ。
住民の怒り、錆びた配管の軋み、泥を啜るような日々の執着。それら不純物のすべてが、ノアの「青白い手」を介して純粋なエネルギーへと変換され、この空間の定義を強制的に書き換えていく。
「馬鹿な…神聖なる無が、このような不浄に…!」
最前列にいた信徒の影が、情報の津波に呑み込まれた。
彼らが築き上げてきた「空白」という名の論理が、11区の濁々たるノイズによって強制的に「上書き」される。白く浮かび上がっていた人型が、鈍い色彩と肉の重みを伴って復元され、次の瞬間、過負荷に耐えきれずその五体ごと通路の奥へと弾き飛ばされる。
―『領域完全固定』
僕は、血の混じった唾を吐き出し、最後の一行をコンソールに叩き込む。
第3層によって石像のように固まっていたハンスとニコの身体に、強引に「色」が流れ込んだ。
心臓炉が重々しい最終和音を響かせ、管理庁舎全域の定義を「11区の不純なる実在」として固定した。白煙は霧散し、教団の影たちは、「11区の全実在」の圧力に耐えかね、夜の闇へと敗走していく。
静寂が去った後には、炉が立てる、低く、噛み合わないギアの不協和音だけが残った。
「ハンスさん! ニコ!」
モニターを見ると、通路に漂っていた廃霊の霧が徐々に晴れていく。
「戻った…僕、まだここに…『ここ』にいます!」
透けかけていた指先を凝視し、自分の頬を叩いて実在を確かめているニコが涙声で叫んでいる。
「…は、ぁ」
僕はコンソールに沈めた指をゆっくりと引き抜く。
剥がれた灰白爪の隙間から、どろりとした赤黒い血が溢れ、過熱した基盤の上で不快な音を立てて凝固した。
「ッ」
肺の奥が、焼き切られたように熱い。心臓炉の「真核」に直接触れた代償は、僕の神経系をひどく磨耗させていた。視界の端で現実の風景にノイズがちらつき、不規則な文字列が火花のようにチカチカと爆ぜている。
「…終わった、のか」
コンソールに突っ伏した僕の視界で、ノアの「青白い手」が、砂のように静かに崩れ、元の実体のないホログラムへと戻っていく。
『……ええ、マスター。システム、正常…といっても、いつもの11区品質ですが…に復旧。…お疲れ様でした。不格好な、最高の生存証明です』
「イレブン、さん…大丈夫、ですか?」
その声に顔を上げると、そこには透けかけた右腕を伸ばして、僕の肩を支えるニコの姿があった。彼の腕は、かろうじて霧散を免れ半ば色を取り戻したものの、肘から先が古い磨りガラスのように不自然に透け、血管の代わりのように青白いノイズの走査線が明滅している。
「…あぁ。なんとかね。君の腕、後で僕がパッチを当てておくよ。完全に元の色には戻らないかもしれないけど、…崩れることはないはずだ」
「…ありがとうございます。でも、僕より…ハンス先輩が、」
ニコの視線の先。
炉心室の入り口、ハンスは壁に肩を預け、ゆらりと立っていた。
彼の右腕は粉を被ったように、まだらに白く染まっている。白化したネイルガンからの再霊揮だ。そしてそれを握っていた彼の右手。
五本の指の爪が、根元から完全に消失していた。
出血はない。ただ、爪があった場所が、教団の自爆跡と同じ、滑らかな「空白」に置き換わっている。
「…ハンスさん」
「…見るな、イレブン。命があっただけで儲けものだ。」
ハンスは、生体端子としての感覚を失ったであろう右手を左手で隠すように握りしめた。
(……勝ったんじゃない。削り取られて、それでも残っただけだ)
爪は僕ら術師やCMR兵にとって術式を綴るためだけのものではなく、外部と同期するための生体端子だ。それを失うことは、技術者として、あるいは兵士として、この世界との接点を物理的に奪われることに等しい。
「ハンス先輩、僕…」
ニコが震える手で、ハンスの白化した右手を支えようとする。
かつて「消えそうになったら繋ぎ止めてやる」と嘯いた男の右腕は、今や後輩の透けかけた右腕よりも、ずっと頼りなく「存在」を欠損させていた。
ハンスはその助けを拒むように短く息を吐くと、爪を失った指先を見つめた。
「…新人の前で、繋ぎ止められる側に回るとはな。…無様すぎて、笑いも出ねえよ」
ハンスは左手で右の拳を包み、それを強く握りしめたが、その手に力が入っているのかどうかさえ、彼自身にはもう分かっていないようだった。
『マスター。……あまり感傷に浸る余裕はありませんよ』
ノアの声。
だが、その響きにはいつもの鋭さがない。
携帯端末の上に浮かび上がる彼女の姿は、以前のような、網膜を染める青い火花を失っていた。僕の爪と同じ、「灰白色」へと退色し、その輪郭は絶えず砂嵐のようなノイズに侵食されている。そしてその左目も、11区の空のような鈍い灰白色へと色を変えていた。
「ノア、お前…」
『全演算リソースを物理質量へ転換した副作用です。…本機の構成OSの一部が、一時的に「未定義領域」へ脱落しました。…復旧には、膨大な「実在」の再収集が必要です』
ノアは青と灰の瞳で瞬きし、自分の指先を見つめる。先ほどまで僕の手に重ねられていたはずの彼女の青い爪は、今や僕と同期するように、灰白色に変質していた。
ノアは僕を救うために、自らの「青」を捨て、この「灰色」に染まったのだ。
「…ごめん。僕のせいで」
『謝罪は非論理的です。…それより、この「残骸」を片付けてください。…不快な血の臭いと、焦げた回路の死臭が、私のセンサーを汚染しています』
毒舌は健在だったが、その声は以前よりもずっと小さく、掠れていた。
僕はふらつく足取りで、ハンスの元へ歩み寄る。
足元で、剥がれ落ちた僕自身の「爪の残骸」が、パキリと乾いた音を立てて砕けた。
「ハンスさん。…新しいネイルガンの支給を申請するよ。11区はまだ、消えちゃいない。守る人間が必要だ」
ハンスは答えず、ただ窓の外を見つめた。
11区の空には、再び「白い雨」が降り始めていた。それは先ほどのような教団の「意志」を持った白ではない。
ただの、救いようもなく退屈で、泥臭い、11区の日常という名の廃霊だった。
僕の指先は、もう何も感じないほどに冷え切っている。
それでも、血の臭いと焦げた臭いが混じり合う空気が、鼻腔を浸すように炉心室全体に満ちていた。




