エピソード31:青い光の底
最初に感じたのは、温度だった。
扉を越えた瞬間、空気が変わった。
冷たい。
地下の冷たさとも違う。
もっと、静かな冷たさだった。
肌ではなく、骨の芯に触れてくるような。
「灯りを」
シオンの声は低かった。
私は右手に小さな火を灯した。
師匠も左手に風の魔力を薄く纏わせ、空気の流れを読んでいる。
発光石がない。
廊下は暗く、奥から青みがかった光が滲んでいた。
近づいているのに、光源が見えない。
「床を見ろ」
足元に視線を落とす。
石の継ぎ目に、細い線が走っていた。
魔力の導管だった。
床の中に埋め込まれており、うっすらと青白く光っている。
「これが……光源ですか」
「そうだ。天井ではなく、床から照らしている」
見上げると、天井は暗いままだった。
足元から滲む光が、壁の下半分だけを照らしている。
影が上に伸びる。
見慣れた光の向きとは逆で、少し気持ちが悪かった。
廊下は真っ直ぐに続いていた。
幅は広い。
二人並んでも、まだ余裕がある。
でも、どこか息が詰まるような感じがした。
音がない。
魔物の気配もない。
静かすぎて、自分の足音だけが聞こえそうだった。
私は耳を澄ませた。
遠くで、何かが低く唸っているような気がした。
風ではない。
導管の中を、魔力が流れる音かもしれなかった。
「匂いがします」
「ああ」
薬品の匂いだった。
鼻の奥が少しだけ痛くなる種類の、鋭い匂い。
それと、鉄の匂いが混ざっている。
古い血の匂いに似ていた。
でも、もっと乾いていた。
私はつま先で歩いた。
音を立てないように。
それはもう、意識してやることではなかった。
気がついたら、体がそうしていた。
壁を見る。
導管が走っている。
第一実験区画の廊下よりも、さらに太い。
等間隔ではなく、束になっている部分があった。
指の腹で軽く触れると、わずかに振動があった。
「動いています」
「まだ、何かが生きているな」
師匠の声に感情はなかった。
でも私には、その言葉の重さがわかった。
廊下の左側に扉があった。
鉄製で、取っ手はない。
中央に魔法陣が刻まれている。
第一実験区画で見た扉よりも、紋様が細かかった。
シオンが扉に手を当てた。
数秒、じっとしていた。
「開かない。内側から閉じてある」
「中に何かいますか」
「気配はない。だが、閉じ込めるためではなく、封じるための作りだ」
封じる。
その言葉が、胸の中で重くなった。
閉じ込めると封じるは、違う。
何かを、外に出ないようにしたかったということだ。
今もその「何か」が、この扉の向こうにあるかもしれない。
右側にも扉があった。
こちらは木製で、蝶番が錆びている。
押すと、きしみながら開いた。
中は狭かった。
棚が三つ。
空ではなかった。
「師匠」
棚の上に、瓶が並んでいた。
形は三番の部屋で見たものと同じだった。
でも色が違う。
黒ではなく、濁った緑だった。
「触るな」
私はすでに手を引いていた。
師匠が一本を手に取り、灯りにかざした。
液体がゆっくりと揺れた。
底に何かが沈んでいた。
シオンは何も言わなかった。
私も聞かなかった。
でも、底に沈んでいたものの形は、見えた。
小さな骨のようなものだった。
細く、折れた断面が白かった。
師匠は瓶を元の場所に戻した。
丁寧に。
音を立てずに。
「記録だけして、今は置いていく」
「はい」
私は頭の中に刻んだ。
棚の位置、瓶の数、色、底に沈んでいたもの。
忘れてはいけない、と思った。
理由は、うまく言葉にできなかったけれど。
ただ、誰かがここで何かをしていた。
その事実を、なかったことにしてはいけない気がした。
部屋を出た。
廊下に戻ると、青い光がまだ床を照らしていた。
「師匠、ここは何をしていた場所だと思いますか」
シオンは少し歩いてから答えた。
「第四の部屋の壁に、『個体』という言葉があった」
「それは……魔物のことですか」
「わからない」
わからない。
師匠がそう言う時、本当にわからないのではなく、まだ断言できないだけだと、私は知っていた。
だから私も、それ以上は聞かなかった。
でも、瓶の底に沈んでいたものを思い出すと、胸の奥がざわついた。
廊下の奥に、また扉があった。
今度は両開きだった。
左右の扉に、それぞれ半分ずつの紋様が刻まれている。
合わせると一つになる形だった。
近づくにつれて、冷たさが増した。
足元の導管の光が、ここだけ少し明るい。
ここに、何かが集まっている。
「開けますか」
「今日はここまでだ」
私は扉から目を離した。
師匠の判断は正しい。
焦って踏み込むべき場所ではないと、私も感じていた。
「わかりました」
「戻るぞ」
「はい」
廊下を引き返しながら、私は一度だけ振り返った。
扉は静かに立っていた。
紋様が、青い光を受けてうっすらと光っていた。
何かが、向こうにいる。
そう思った時、背筋に走ったものは恐怖ではなかった。
確認したい、という気持ちだった。
──それが、自分でも少し、怖かった。
怖さに慣れることと、怖くなくなることは、違う。
ガーネット師の言葉を思い出した。
進むことと、怖くないことは、別の話だ。
私はそれを、また少し、理解した気がした。




