後編
数日後。
気持ちのいい天気だった。約束通りフィルは、リディアをビュードワーの森へ乗馬の誘いにやってきた。木々の間からは、気持ちのよい光が刺しこみ、頬を撫でる乾いた風は、秋の気配を感じられた。
しぶしぶ出かけたはず。しかし、じんわりと乗馬服に汗がにじむ頃には、楽しくなっていた。馬で思いっきり駆ける気持ちよさに。
黒毛の馬を操るフィルは、さすがに手慣れている。最初は、馬に乗るリディアを心配そうに見ていたが、手綱を操る姿を見たら、肩をすくめた。心配不要と思ったようだ。それから、徐々にスピードを上げた。リディアが付いてこられるか確認しながら。
リディアが息が上がる頃、フィルは馬を止めた。
「そろそろ、休憩しましょう」
くやしいが、フィルは息ひとつ乱れていない。仕事を考えれば当たり前のことだが。リディアはありがたく、休むことにする。木に馬をくくりつけ、二人は木陰に腰を下ろした。
「あなたが、これほどの腕前だったとは驚きです」
「フィル様には及びませんが」
フィルは声を上げて笑った。
「私は騎士ですよ。女性に敵わないようでは、お役御免になってしまいますよ」
そうよね。何を言っているのかしら私ったら。
今日は、隣に座っているせいか、フィルの笑顔があまりにも近くに感じられる。端正な顔だと思っていたが、近くで顔を見ていると、うっすらとそばかすが散っているのが見える。落ち着いていて大人な振る舞いばかりみていたが、その顔はまるで子供見たい。くっつきそうな肩は、細身だと思っていたのに、ごつごつしていて大きかった。男性だ。しばらく、身近に男性を感じることがなかったので忘れていた。女性のリディアとは比べものにならないほど、強く逞しい。
「ところで、私の求婚の返事についてはお考えいただけたでしょうか?」
リディアの返事は決まっている。もう、男性に振り回されるのはまっぴらだ。しかし、なぜ自分をフィルのような男性が見初めたのか気になっていた。
「私はいい返答しか聞きませんよ」
「それって、ご自分にとっても自信がおありなのね」
「もちろん。それでなくては、婚礼の申し込みなどできませんね」
余裕を見せて微笑むフィルは、自信に溢れていた。それは、仕事の評価に裏打ちされたものなのだろう。
リディアは余裕があるように見せて微笑んだ。
「それにはまず、なぜあなたが、私を選ばれたのか聞かせていただきたいわ。それはそうでしょう。だって、あなたほどの男性なら、どこのご令嬢だって、求婚を受け入れられるでしょう。それが、なぜわざわざ、行き遅れの私に白羽の矢を立てたのか教えていただきたいわ」
唇に拳を当ててフィルは微笑んだ。
「それは、あなたもはい、と返答してくれるという解釈でよろしいですかな?」
「そ、それは……!」
リディアが返答に困っていると、背中から声がかかった。聞き覚えのある声。一生、聞くことはないと思っていた。その声にリディアは背筋が冷たくなる。
「これは、レイモンド様。ご乗馬ですか。奇遇ですね。しかも……、え? これはご婦人とご一緒ですか!」
親しげに声をかけた男性は、背を向けていてもリディアを若い女性と認め、驚いた様子だ。
「これは、どうも。野暮なことは言わないでくれよ」
フィルの穏やかな顔は変わらない。こちらには、構わぬようにと暗に伝えるだけだ。その顔とは対照的に、リディアは自分でも血の気が引いていくのが分かった。
「あなたともあろうお方が、ご婦人と乗馬とは。ぜひ、ご紹介いただきたいものです」
揶揄うような声音。馬を下りる音がする。他にも聞こえるということは、供もつれているのだろう。声の主は、乗馬をするはしたない娘が、どこの娘なのか顔を見る気のようだ。元婚約者は、またリディアを傷つける気なのか。
二度と会いたくない顔に、こんな姿では会いたくない。また、何を噂されるのか、と思うとリディアはゾッとした。
「失礼。少々、我慢してください」
耳元で囁かれる。吐息がかかり、くすぐったいと思った瞬間に、抱き寄せられた。リディアの鼻腔に男性の匂いが広がる。女性の体とは違う。硬い胸板。守られている、という安心感がリディアの胸に広がった。
「これから、良いところなんだ」
愛おしそうに、リディアの髪を梳く。それだけのことなのに、リディアはどぎまぎしてしまう。さらにフィルは耳元に唇を寄せた。息がかかるほどの近さに、リディアの息が止まってしまいそうだ。
「いつまで、見ているんだ。はやく行ってくれないか」
元婚約者に向けた声色は、嫌を含んでいた。
「こ、これは失礼」
その声音に驚いたのか、慌てて馬に乗る気配がする。もしくは、恐れたか。それを見て、フィルは喉を震わせる。
「たわいもない。あなたが、気にかけるような男ではありませんよ」
その言葉に勇気を得て、フィルの胸元から視線を移し、男性を盗み見る。
あら、こんなのだったかしら。
六年ぶりに見る元婚約者。こんなに卑屈な顔をしていたかしら。同じ年のはずなのに、髪には白髪が見える。着ているものは上等なのに、みすぼらしく見える。婚約破棄を申し出た自信満々な青年とは、別人のようだ。
見つめていたせいか、目が合ってしまった。彼は、驚愕している。まさか、自分が捨てた元婚約者だったとは思わなかったようだ。
リディアと目があうと、嘲るような笑みを見せた。しかし、すぐにおろおろとして、下を向く。隣のフィルを見たら、見たことのないような鋭い瞳で睨みつけていた。そして、彼は踵を返すと二度と振り返ることはなかった。
あの頃は、女性たちにも人気で、婚約をした時には友人たちから羨ましがられたほどだ。今の彼では、女性に見向きもされないだろう。数年のうちに一体何があったのだろうか。そして、フィルは何もかも知っているようだ。
「すべてご存知でしたのね。私に求婚されるということは、もしかしたら元婚約者の噂はお知りにならないのかと思いましたわ」
「社交界で、あなたたちの噂を知らぬものはおりませんよ」
リディアは、フィルの腕から抜け出し、がっくりと肩を落とした。年数が経っても噂にのぼるほどなのか。
「なぜ、わたしが、あなたに求婚したのか知りたいと言われましたね。申し上げますと、あの当時、あなたの醜聞は社交界で知らぬものはおりませんでした」
夜な夜な男をとっかえひっかえする。はしたない男好き。元婚約者が流した噂を皆が信じた。
「あなたの聞くに堪えない噂はすべて彼から発せられていました。そして、当然のように婚約を解消された。そして、その後彼はすぐに結婚をしました」
リディアは頷く。その通りだ。
「世間の目は節穴ではありません。嘘はいずれ白日の元にさらされます。彼の挙動のおかしなところを不思議に思うものが、一人、二人と現れました。第一おかしいでしょう。あなたと婚約解消した数日後に新たな婚約をするなどと。その時期を見計らうかのように、コートネイ伯爵は彼を糾弾しました」
「お父様が?」
あの温厚な。一人娘に甘い父親は、そんな話をリディアには一切していなかった。まさか、彼のあの若白髪は父が原因かしら。
「さすがは名家であるコートネイ伯爵です。敵とみなしたものには容赦がない。彼の居場所は社交界にはなくなりました」
そんなことがあったなどとはちっとも知らなかった。拗ねて、自分の殻に閉じこもっていたリディアには。
「あなたは、そんな彼を一切悪く言わなかった。そんなあなたの凜とした姿に私は惹かれたのです」
優しく微笑まれるが、違うのだ!
「買い被りです」
リディアは現実から目を背けたのだ。決して、信念があって彼のことを悪く言わなかったわけではない。
「そうおっしゃるかとは思っていました。ですが、私は、それをきっかけにあなたを見つめてきました。実は、私は少々女性不信なところがありまして、」
いぶかしそうにリディアが見つめると、フィルは照れくさそうに頭をかいた。
「私は、女性に囲まれて育ったと言ったでしょう。我が家が、嫁に出た姉たちや叔母の集まり場所でした。そこで、話されることはとうてい男性には聞かせられないようなものです。夫の愚痴や、親戚の愚痴。今となれば、実家で発散をして家庭円満に勤めていたのでしょう。しかし、年頃の私が、それを聞いたら……。外の顔を内の顔が違う女性を恐れてもおかしくないでしょう。むしろ被害者だと私は思っています」
フィルは戯けるように、肩をすくめて見せた。
「まあ! あなたにそんな可愛らしいところがおありだったのね!」
潔癖な少年時代には、女性不信になっても仕方がないのかもしれない。だが、笑いがこみ上げてくる。
「虫も殺さないような、大人しいと言われている姉は、狩りが趣味ですよ。しかも、なかなかの腕前です。淑女の鏡だと友人たちは崇めておりました。紹介してくれ、と散々言われて私は困り果てましたよ。まあ、今では夫である義兄を伴って狩りに出ているようですがね。仲がよくて羨ましいことです」
フィルは眉を下げた。くすくす。リディアは笑いが止まらない。
「いつ、その女性不信は解消されましたの?」
「年とともに、ですかね」
女性と付き合うようになって、ということだろうか。リディアの思ったことが伝わったようで、フィルは、コホン、と咳払いをした。
「それ以来、見つめてきたと言ったでしょう。そんな私が、あなたの裏表のない性格に惹かれたのは自然なことかもしれません」
「ちっとも、気づかなかったわ」
「あなたは、随分傷ついておられましたからね」
自分の視野はよほど狭くなっていたのだろう。人の目が恐ろしくて、誰にも会いたくなどなかった。
それに……、とリディアの耳元に唇を寄せる。
「先ほど抱き寄せたときの反応は、男性に慣れているなどとは到底思えません」
カッと頬が熱くなり、フィルから離れた。
「な、なにを……!」
狼狽えているリディアを見て、フィルは楽しそうに笑っている。
「一度、私のことを真剣に考えてもらえませんか?」
あくまでも穏やかで優しいフィルの瞳。彼なら、いいかも知れない。もっとよく彼の人となりを知りたい。こんな気分になったのは、六年ぶりだ。
リディアは、くるりとフィルに背を向けた。
「では、お約束ください。求婚の際には何か素敵な言葉を私に下さいますと」