前編 おまけ 藤原秋葉の独白
「出て行け!?」
般若の仮面のような表情を浮かべている藤原良房に文字通り家から叩き出された女性、藤原秋葉は職も家も何もかもを失い、無一文となったが、その顔に悲壮感はない。鬱々としたこの世界、でも、あの方がどこかで幸せに暮らしていてくれると思えば、それだけで満ち足りた気分になれた。
藤原秋葉は、藤原総継の末の娘として生まれた。母は藤原家に仕える侍女だったため、家の中での地位は決して高くはなかったが、それでも一応は貴族の娘として何不自由なく育てられた。
この時代にはよくある話で、母の違う兄弟姉妹は多いが、親しくしていた兄弟姉妹はいなかった。親しくするには母の身分が違いすぎたのだ。のちに藤原長良に嫁いだ乙春はその親しくない姉の一人だった。
秋葉は、父の命令で父親ほど歳が離れた受領の元に嫁いだ。夫が地方にいることが多いことと、母が亡かったため実家にいることも許されなかったので、通い婚ではなかった。それが災いしたのだろう。子供ができずに夫が亡くなると、戻る場所をなくした。夫には子がいたが、父親の後妻でしかなく、彼らからすればほとんど会ったことがない赤の他人の面倒を見てくれるはずもなく、実家にも帰る場所がない。庶子であろうとも、貴族の姫。平民と同じように働いて生きていくこともできず、かと言って貴族女性がつくような職に就くには後見人がいなかった。もはや死を選ぶしかないか、とまで思い詰めていた秋葉の前に『藤原長良の使い』だという男が現れたのはそんな時だった。
「藤原……長良、様、でございますか?」
彼は実際の歳の何倍も老け込んで見える秋葉を前にしても決して表情を変えなかった。そして、彼が告げたその名前に覚えはなかった。藤原姓といっても、藤原は貴族の中に多い。親戚かどうかもわからなかった。
「はい。奥方様の妹である貴方様を是非生まれたばかりのお子様の乳母としたい、と」
その言葉にサッと頰に熱が集まった。乳母とは文字通り貴族女性である母親の代わりに子に乳を与える存在。生まれてきた子からすると第二の母だ。だが、乳を与える存在である以上乳母自身も乳飲子が必要だった。
「私には、子は、おりません」
子がいれば追い出されることなんてなかった。そんな屈辱に唇を噛み締めた。だが、それに男は軽く首を振った。
「貴方様にになっていただきたいのは、お子様の教育係でございます」
目を見張る。乳を与える乳母はすでにいる、とのことで、この話は途方に暮れ生きる術を失った秋葉を助けるために用意された蜘蛛の糸だった。
秋葉の姉がどの姉なのかはわからない。それでも、その糸を掴む以外に年若い世間知らずな秋葉が生きていく術はなかった。
それから十八年、秋葉が養育することになった姫、高子は十八歳の年頃の女性になっていた。高子は素養があり、聡明で、時に頑固な姫だった。
そんな姫は、彼女の父親である長良の死後、女御に、後には国母になることを望まれている。絶望の時を知っている秋葉から見ると高子は恵まれている。たとえ、嫁ぐ先が未だ十歳の子供であったとしても。それでも、憂鬱そうな高子を見ると、人の幸せは裕福であることとは繋がらないのだと、実感した。
「……あの方が生きていらしたら……」
長良であればきっともっと良い未来を用意してくれただろう、でも良房が望むのは高子の幸せではなく、外祖父という地位が続くことだ。
秋葉の元に彼、在原業平が訪ねてきたのはそんな時だった。彼は、「姫に会いたい」と言った。そんな大胆なことは許されるはずもない。だが、恋も知らずに八歳も年下の幼帝に嫁ぐ高子のことを考えるとその申し出を無碍にすることはできなかった。
毎夜毎夜訪ねてくるようになった業平のことが話題にならないはずもなく、二人のことは大きな噂となり、良房の耳にも入った。
手引きを疑われたのは長良の元に仕えていて、良房よりも高子を優先する秋葉だった、当然見張りがつく。そんなことはわかっていた。それでも、業平が望んだ二人で生きていく道を、応援したかった。
だから見張りの目を盗んで高子の衣装を着て正門前で騒ぎを起こすことに躊躇いはなかった。
しばらく騒ぎを起こして、捕まった秋葉を見た使用人たちは騒然とした。
「姫様の部屋を!」
「いない!」
怒号が響く中、秋葉は口元に笑みを浮かべた。きっと、秋葉は追い出される。それでも、大切な子が幸せのなってくれるのなら、後悔はない。母とはそういうものなのだ。秋葉は正確には母ではなく叔母だが、それでも、かの姫は秋葉にとって子にも等しい。
その後、追い出された藤原高子の元乳母の姿を見たものは一人もいなかった。
「姫様……今、幸せですか?」
遠い空に向けてこぼされた老女の呟きは誰の耳にも届かなかった。




