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恋の余白に咲く唄 〜和歌に纏わる小噺集〜  作者: 白雪
第一章 花は咲き、月は沈みむ(藤原高子、陽成院、元良親王 親子三代記)

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前編 高子の袖に触れた風(藤原高子&在原業平)

 時は平安、第五十六代天皇である清和天皇の御代みよ。多くの歌人を招き、幾度となく歌会を開いていた女御にょうごがいた。


 藤原高子ふじわらのたかいこは清和天皇よりも八歳も年上の姉さん女房だったが、母の愛情を知らぬ清和天皇は年上で頼れる女性でもある高子を寵愛していた。


 秋の紅葉が茂るある日、高子は多くの歌会を催す中で、最も目をかけていると言われている歌人、在原業平ありわらのなりひらに紹介された素性そせい法師を招いていた。


 部屋の中には秋の季節にぴったりな鮮やかな紅色の紅葉を描いた屏風が飾られていた。しばらくその屏風を見ていた素性法師が若々しい声音で一句詠んだ。


「もみぢ葉の流れてとまる水門には紅深き波や立つらむ」

川に散り落ちたもみぢ葉が流れて行きつく湊には、深い紅色の波が立つのだろうか。


 それは、若い彼らしい力強い未来を感じられる句だった。さまざまとした情景が思い浮かび、高子は口元に笑みを浮かべた。


「良い、句であるな……業平、そなたも詠んでみよ」


 高子が業平に話を振ったことに深い意味はなかった。最近彼を招く時の多くは、句を詠み合う歌会だったこともあり、あの色鮮やかな屏風を業平がどのように表現するか見てみたかったのだ。


「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」

不思議なことが多かったという神代の時代にもこんなことは聞いたことはない。竜田川に散っている紅葉が、流れゆく水を真っ赤に染めるだなんて


 御簾の内側で静かな微笑みを浮かべていた高子の目が大きく見開かれた。


 その句は高子の幸せを寿ぐようでいて、同時にどうか忘れないで、と二度目の告白をされているかのようでもあった。


 明確に何かを言われたわけではない。それでも、あの日々を今も忘れていないのは高子だけではないと言われているみたいだった。


 あの日々が……高子の人生の中で最も鮮やかに色づいていた日々が脳裏に蘇る。



◆◆◆



 あれは、まだ高子が十八歳という若い年の頃だった。父が亡くなり、ほとんど交流がなかった親戚の家に引き取られていた高子はひどくやさぐれていた。


「姫様!?」


 部屋の中でだらしなく寝そべっている高子に乳母の藤原秋葉ふじわらのあきはが目を釣り上げているが、高子はどこ吹く風、と表情一つ変えない。


「いいじゃない、誰もいないんだもの」


「そういう問題ではございません!! 姫様はいずれ入内なさる身。そのようなお姿を見られでもしたら……」


「入内って……相手は、八歳も年下で、今年十歳になるのよ? そんな子どもが相手なんて嫌だわ」


 この時代、女の行き先など男の意思で変わる。自分に選択肢がないと分かっていても嫌なものは嫌だった。


「それに、叔父様は、いくら権力が欲しくても、そもそも清和天皇を産んだのは叔父様の娘の明子あきらけいこ様じゃない。すでに外祖父の地位についているのに、次の代もなんて強欲にも程があるわ」


「そうはおっしゃいますが、では姫様は、荒屋で荒れた暮らしをなさりたいのですか? 良房様が、引き取り、世話をしてくださるのは全て妃がねとするためでございますよ」


 乳母の言葉は確かに正しい。父が亡く、後見人がいなくなった高子には、叔父の手に縋る以外にまともに生きていく術はなかった。貴族の姫として生きてきた高子には今更一人で生きていく術など見つけられない。一人で動く勇気なんてないのに、それでも、一度くらい自由に生きてみたいと願う、高子はそんな甘ったれた、お姫様だった。



◆◆◆



 時は少しだけ遡る。高子が広い部屋の中でやさぐれているよりも約半年ほど前のこと、一人男が舞台の上で舞を踊る若い女性に見入っていた。


「ほぉ……」


 八五九年、第五十五代天皇である文徳天皇が崩御し、わずか九歳だった清和天皇が即位した。


 職にさほど忠実ではなく、プレイボーイとして多くの浮き名を流していた在原業平ありわらのなりひらが、噂に聞いていた女性、藤原高子を初めて目にしたのは清和天皇即位の際に行われた大嘗祭おおなめさいで五節の舞姫として現れた時だった。


 藤原高子の名前は知らずとも噂話だけは聞いていた。彼女はかつて業平の友であった藤原長良ふじわらのながらの娘で、彼の死後、叔父である良房よしふさに引き取られた。


 良房のことを考えるだけで、業平の中にある黒い感情が表に出てくる。良房は、父である阿保あぼ親王の仇だ。直接手を下したわけではないが、裏で画策をし、罠に嵌め、謀反の疑いをきせた。父は失意の中で亡くなり、業平もまた、その煽りを受けて不遇の時を過ごしきた。いくら、時が経とうともあの時感じた絶望も、憎しみも忘れることはできない。


 だから、長良の死後、彼らの弟である良相よしみから初めて高子の話を聞いた時から、ずっとこの時を待っていた。良房の絶望に染まるその顔を心待ちにしていたのだ。


 そう思いつつ高子の姿を見た業平の目は、その優雅な所作とまるで天女のような舞に引き寄せられた。今まで形がない道具でしかなかった高子が血の通った一人の人間になったのは、この時だった。


 『復讐』のふた文字は容易く消えていた。残ったのは、女性に興味を持つ、好色な思いだけだった。


 高子に近づくことは難しい。それでも、業平の頭に一人の年老いた女性の顔が浮かぶ。目的の一部は変わろうとも下調べは終わっているのだ。


「藤原、秋葉……」


 高子に近づくのにいちばんの壁であり、同時に唯一味方に引き込めそうな女性。業平の頭には屋敷へ忍び込む算段が出来上がっていた。



◆◆◆



「どうか、ここを開けて、私を入れてくださいませんか?」


 御簾の向こうから聞こえる懇願するような声に高子がぎゅっと手を握りしめた。高子は深層の姫と言っても過言ではなく、殿方と深い関わりを持ったことはない。男とは高子にとって未知の存在だった。その未知の存在が今、目と鼻の先にいる。


「……秋……」


 乳母の名を呼ぼうとして口を噤む。呼んでも意味がないだろう。ここは、先代の天皇、仁明天皇の女御である藤原順子ふじわらののぶこの里内裏となっていた屋敷だ。無関係の人間が何の手引きもなく入り込める場所ではない。そんな場所へ誰が手引きをしたのかは明白だ。


「知らない殿方を中に入れるつもりはございませんわ」


 普通の姫は直接答えない。こんな風に直接答えたことを知られたらきっと叔父は烈火の如く怒り狂うだろう。でも、今ここには誰もいないのだからしょうがないではないか。


「ああ、そんなことを言わないでください。……私はずっと、貴方様に恋焦がれていたのです」


 訥々と語る切実な声音にどきりとする。本当に焦がれてくれたのか、そう思ってしまうが、そんなはずはない。今ここにいる在原業平は外の情報なんてほとんど入らない高子のような姫でも知っているプレイボーイなのだ。きっと多くの人間にその言葉を告げているに違いない。


 ふぅとため息をついている高子を知ってか知らずか、業平は訥々とせつなげな声で訴えかけてくる。その声は低く、落ち着いていた。子供とは違う、大人の男の声だ。


 ふと、頭にまだみぬ子供の姿が浮かぶ。その姿は高子の想像でしかないが、はっきりわかるのは、十八歳の高子にとって十歳の子供など、元服前の稚児でしかない。そんな子供に嫁ぐ運命、それを打ち砕く唯一の糸がこの場に垂らされた気がした。


「……もし、本気なら、明日……同じ時間に来てください」


 その言葉だけを投げかけて、奥へ戻る。業平が何かを言っていたがなんと言っていたかはわからない。そして、明日も来る保証なんてない。それでも、もし、来たならば、その手を掴むつもりだった。この、決められた運命を打ち砕くために。






 在原業平は、高子よりも十歳以上も年上で、下手したら自分よりも父に近いのではないか、と思うが、不思議と馬があった、宮中の様々な話を面白おかしく語ってくれるので、気がついたら彼の訪れを日毎に待ち望むようになっていた。


 だが毎日のように通ってくるのが話題にならないはずもなく、世間では大きな噂になっているらしい。それもあり、この屋敷の警備が日に日に厳しくなってきた。


 話題になることは待ち望んでいたことのはずだったのに、生まれると思っていた爽快感を感じることはなかった。感じるのは会える機会が減ったことによる暗澹とした思いだった。


「はぁ」


 ため息をついた高子だったが、話しかけてくる声はない。乳母の秋葉は高子と業平の密会を咎められ、見張られていて、自由に動くことができずにいた。そして、それは高子も同じだ。


「はぁ」


 再び深いため息をついた高子の耳に小さく笑う声が聞こえた。くすくすと楽しげに笑うその低い声は、最近では聞き慣れたもので、ずっと聞いていたいと思うものでもあった。


「業……」


 大声で名前を呼びそうになって慌てて口を噤む。御簾の内側、ここだけは高子が自由になれる場所。秋葉が居なくなってから、ここへの入室を誰にも許さなかった。わがままで癇癪持ちだと言われても、最後の砦を譲り渡すことはできない。でも、その声が届く位置には多くの見張りがいる。


「迎えにきました」


 囁くような声音。それが泣きたくなるほど懐かしく、そして、再び聞けたことがとても嬉しかった。


 かたり、と御簾の向こうから人影が現れた。見張りがいるはずなのに、なぜか今は誰の気配も感じない。


 いつもの貴公子としての装いとは違う、ぱっと見、裕福な平民にも見える、貴族男性として最も大切な烏帽子さえ身につけていない姿に口を注ぐんだ。烏帽子をつけないこと、それは貴族男性にとって裸でいるのと同じくらい恥ずかしいことで、でも、それを受け入れてでも高子と共にいたいと言ってくれている。その強い気持ちを感じられて思わず涙が溢れそうになった。


 業平の差し出してきた手を握る。


 一人で飛び出す勇気なんてなかった。この手を取ったところで貴族としての生活なんてできるはずがない。きっと貧しく惨めな生活が待っているだろう。でも、不思議と、彼と一緒なら乗り越えられるような気がした。




 業平に与えられた平民の女性が着るような衣服に着替えた高子は業平に連れ出されて裏門から外に出た。表で騒ぎがあったらしく、屋敷の内側や裏側はびっくりするほど人影がなかった。


 業平とともに馬に乗って駆ける逃避行は大変だったが不思議と楽しかった。

 途中で紅葉が生い茂っている、大きな川を通った。


 水面がキラキラと輝き、そこに、紅葉の葉が映り込み赤く染め上げている。その綺麗で荘厳な様子にしばらく見入っていた。


 でも、楽しかったのは初めの二日だけだった。二日後、天気が荒れた。


 ビュービューと大きな音を立て、嵐が吹き荒れる。一度崩れた天気はそう簡単には戻らない。馬も進めず、二人はようやく見つけた粗末な小屋に身を寄せた。


 カタカタと壁が音を鳴らすたびに肩が震えや。まるで魔物が入り込もうとしてきているかのようだ。


 不安げな表情で外を見る高子の肩を業平がそっと抱き寄せた。


「姫、大丈夫。何物も貴方を私から攫うことなんてできませんよ。見ていなさい、私が、この魔を祓って見せましょう」


 さっと立ち上がった業平の手には小さな弓が握られていた。粗末な身なりの粗末な弓。それでも、ああ、大丈夫だと、安心できた。彼といればこれから先恐ろしいことなんて起こらない、と。


「どうぞ、お気をつけて」


「必ず戻ります」


 力強い声音で強い言葉を残して業平が外に出ていった。大嵐の吹き荒れる音の中、微かに弓のツルを鳴らす音が聞こえてくる。魔除けのツル。その音を聞いているうちに体の力が抜けていくのがわかった。安心して、意識がスーーっと抜けていく。


 それが、あの時業平と交わす最後の会話になるなんて思っても見なかった。もし、それを知っていたら、絶対に眠ったりなんて、しなかったのに。





 次に目を覚ました時、高子は見知った綺麗な部屋の中にいた。


「お目覚めになりましたか、姫様」


 淡々とした能面のような声。名前は知らない。でも、見覚えはある。叔父に仕えている侍女だった。


 そう、高子は眠っている間に連れ戻されてしまったのだ。慣れない逃避行に疲れ果てていた高子は、移動させられる間、目を覚ますことはなかった。


 自由になる、最初で最後の機会はこうして消えてしまった。しかも、唯一の心の支えだった乳母はすでに屋敷から追い出されていた。もう、これから先、高子は決して一人の時間を持つことはできないだろう。ガラガラと目の前の景色が崩れていく。そんな気がした。




 数年後、清和天皇が元服し、添臥……初めての妃に選ばれたのは、高子ではなかった。あの業平との出奔騒ぎが尾を引いたらしい。


 初めの望み通りになったのに、高子の気持ちは晴れなかった。初めて愛したひとには会えなくなり、母のようにと信頼していた乳母は解雇された。


 見張るためか兄の基経や叔父の良房は定期的に顔を出すようになったが、それは孤独を埋めるのではなく、ただただ窮屈なだけだった。全てを失った高子はもう、なにもかも、全てがどうでもよかった。


 その数年後、再び入内に話が持ち上がり、今度は話がまとまってしまったが、もう、抵抗する気力すらもなかった。


 業平と引き離されたあの日から、まるで世界の色が消えてしまったかのような気がしていた。




◆◆◆



「女御様?」


 句を聞いて、黙り込んでしまった高子の耳に、昔よりも低くなった声が届いた。あの頃と、自分も、そして、業平も変わってしまった。それは仕方がないことだろう。


 だが、この歌は過去を懐かしむと同時に、これから先の未来を、祝福する、そんなメッセージが込められているような気がした。


「よき、歌です」


 声が震えないようにするのが精一杯だった。溢れてくる涙を止めることはできない。


 キュッと口を引き結び、ただ静かに涙を流している高子の様子を見た女房が小さく息を呑んだ。今ここには、あの頃の高子を知る人はいない。でも、あの大騒ぎを知る人は多い。彼女もまたそれに気がついたのかもしれないが、何も聞かずにいてくれる優しさが今は嬉しかった。


 初恋の人。決して忘れることはないだろう。だがこれからは、今までとは違う、信頼できる友として関わることができる。それだけで、これから先の人生を生きていける、そんな気がした。

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