いち
「虫けらのくせに態度がでけぇんだよ」
久方ぶりに公爵家である実家へ帰ってきたロハンネは、邸宅に入って一歩、目の前で使用人を踏みつけている弟の姿を見て、咄嗟に声を上げていた。
「くそガキ、伏せ」
「あ?」
そぞろにふり向くネルゼラの声は低く、それだけで如何に彼が不機嫌が分かる。
犬のように命令されたネルゼラは、ロハンネに気づくと深緑の瞳を尖らせて睨めつけてきた。殺意すら漂う剣幕に、踏まれていた使用人が白目を剥く。
それを正面から浴びたロハンネは、聞こえなかったのかと方眉を上げて繰り返した。
「くそガキ、伏せ」
「殺す」
矢のような速さでロハンネとの距離を詰めたネルゼラは、ロハンネの首を鷲掴もうとして、しかし逆に自分が床に叩きつけられた。
むせ返りそうになった体が強張る。その強張りを見逃すほど、ロハンネは寛容ではなかった。ネルゼラの胸を踏みつけ、わざと息が整うのを邪魔しながら、紅茶を飲む時と同じ笑顔で告げる。
「私は伏せと言ったぞ。何故仰向けなんだ? ただ腹を見せたかっただけか?」
払い除けられる前に足を退かしながら、ロハンネは気が遠くなるような思いでふふっと笑い声を溢した。
両親が、このままじゃ家が滅亡するだなんて大層な手紙を送ってくるから、何事だと早急に帰ってきてみればこれか。
十年と少し。暫く会わない間に、弟が随分な暴君に成り果ててしまっていた。
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ロハンネの苦労は、幼少期から始まった。ふわふわしたプラチナプロンドの髪を掻き毟り、全身の鳥肌を少しでも宥めようと両腕をさすって、露骨に表情にも出さないよう気をつけることからだった。
病死した母親の面影を色濃く継いだロハンネは、性別を超えた華美な少年で、後妻が金切り声をあげて悶えるくらいだった。苛烈な性格だった実母と違い、朗らかで優しい彼女は、気弱な父を安心感で包み込むような性格で、なるほどこれはお似合いだと、ロハンネも好感を持っていた。
仲が良いのはいいことだ。実母も、もっと可愛げのある性格だったら、少しはまともな関係を父と築けていたかもしれない。実母は躾に厳しい人で、よく叱咤されていたロハンネの頬は、赤く腫れているのが常だった。心配させまいと父親に隠し通していたのだが、露呈した時、普段からは考えられない雄々しさでロハンネを実母から引っ剥がし、子供ながらトラウマになりそうな形相で、実母に別邸での生涯幽閉を言い渡したのである。あの瞬間から、ロハンネの中で父は英雄になった。頼りない姿ばかり見ていて、この人に言っても無駄だと、どこかで諦めていた自分が恥ずかしかった。
継母を紹介されたロハンネは、彼女の背にそっと手を添える父を見て、今度こそ幸せになって欲しいと思った。
思ったのだ。思ったけども。
これは度が過ぎないかと、邸宅の中でも外でもずっと手を繋ぎ、花を飛ばす二人に、次第に気後れするようになった。彼等は歯が浮くような台詞を互いに交わし、ロハンネにも告げるようになったのだ。
元々大人びていたロハンネは、あまりのロマンチストっぷりに耐えきれず、薔薇を見ただけで「うわ」と顔を顰めるようになった。弟が生まれてからの二人は更に拍車がかかり、むしろ除け者にしてほしいとロハンネが燃え尽きていた。
そんな時、ロハンネに魔力があることが分かったのだ。きっかけは、知るはずもない古代語を、現代語と同じようにスラスラと読み書きしたことだった気がする。
魔力を持つ者は少なくないが、魔法を使える者は限られている。国からの保護をはじめとし、魔塔での暮らしを推奨されるくらいには貴重で、魔力を多く持ち、攻撃的な魔法に適正があったロハンネは、王国にとって是が非でも欲しい人材だった。
ロハンネにとっても、家を出るには、これ以上ない口実だった。
「魔塔に行ったら親でもおいそれと会えなくなるんだよ! 」
「うん」
「手紙だって専用の紙を使うんだからね?! 一枚で城が買えるんだよ! 書けるわけないじゃん破産しちゃう!!」
「うん」
「なにより危ないんだよ! とってもとても危ないんだからね?! 寂しいよ! 国のためなんて忘れようよ! ロハンネは僕と会えなくて寂しくないの?!」
「うん」
「なんでそんなこと言うのおぉ!」
「…だる」
「嫌になったら直ぐに帰ってきて下さいね、ロハンネ。どうか、帰ってこなくても家にいて下さい。そうね、それがいいわ。やっぱりお家にいましょう?」
「母上、どうか正気に戻って下さい」
「にーた!」
「どうした、ネルゼラ」
「にーた! にーた!」
「ああ、抱っこか。…君と離れ離れになることだけは寂しいな」
散々国王に抗議文を送った両親は、おいおい泣きながらロハンネを魔塔に送り出した。抗議文を送るなんて、罰を受けたらどうするんだと背中に冷や汗が流れたが、ここまで大切にされていることに、悪い気はしない。二人の顔に泥を塗らないよう、どうせなら一花咲かせてくるかとやる気を灯したロハンネは、見事にその才能を開花させ、天才という称号を欲しいままにした。
頑張った。頑張り過ぎて、十八歳という史上最年少で役職に就いてしまった。
魔法使いの主な仕事は二つある。魔物退治と、魔法の研究だ。そのため前線にでることも多く、攻撃性の高い魔法を使えるロハンネは、魔塔に属したその時から、戦場に立つ人間として育てられ、その期待に応え続けた。
研究でも成果を残した。古代語を組み合わせ、新たな魔法を次々と作り、生活魔法など未開拓の分野を確立させた。
自分で思った。天才にもほどがある。
時々、両親から手紙が届くが、なかなか会うことは難しかった。魔物退治は遠征もするため、年単位で長引くことがあり、帰ってきたら溜まった研究の課題を片付け、部下からの報告も受け、その成果を元に研究してと、忙殺な日々を送っていたのである。
今回帰ってこられたのは、国王の許可の元、特別休暇申請を上司に叩きつけてきたからだ。居ないと困ると喚く上司を足蹴りにして、家の一大事だからとらしくない怒号まであげてしまった。
そうやって帰ってきたロハンネが最初に見たのが、使用人を踏みつける弟であった。
気性の荒さがそのまま漂う剣呑な雰囲気に、目を合わせてはいけない猛獣さを感じる。鼻筋の延長線をえがく形のいい眉、口角が上がった薄い唇は負けん気が強そうで、厚い瞼の下にあるナイフような切れ長な瞳が、どこか退廃的な光を滲ませて、その存在を主張していた。目力が強く、凄みのある整った顔立ちなため、この顔で睨まれたら腰が引けるのも頷ける。まだ十四歳でこの迫力なのだ。成長したらどうなるか。楽しみである。
胸元まであるプラチナブロンドの髪を揺らし、前髪をかきあげながら立ち上がったネルゼラは、舌打ちとともに悪態ついた。
「てめえ、」
「お兄様と言え」
もう一度、足払いをしてネルゼラを転がす。今度は受け身をとったネルゼラが、逆にロハンネの足を狙ってきた。ネルゼラの横蹴りをつま先で弾いたロハンネは、けぶる睫毛に覆われた紺色の瞳をすぅっと細め、垂れ目に圧力をのせると、ぽってりした唇を湿らせ、高すぎない小さな鼻でせせら笑った。
「おお、こわい。口が悪ければ足癖も最悪じゃないか」
「人のこと言えた義理かよ」
貴族とは思えない荒々しい言動。これで賢いというのだから、両親が手を焼くわけである。
今もそうだ。感情的に見えて、冷静に自分とロハンネの実力を測ると、叶わないと悟ったのかその爪を引っ込めた。
実力主義。ロハンネの中に、新たな印象が生まれた。
ネルゼラは白目を剥いて倒れていた使用人を一瞥すると、わざわざ頭を踏みながら、まるで石や塵を退けるかの如く蹴り、部屋の隅に滑らせた。勢いよく壁にぶつかった使用人から、鼻の骨が心配になる鈍い音が聞こえた。
それは雑巾じゃないと、教えた方がいいだろうか。




