夏、或る日の昼。小さな恋の花。
また消しゴムが割れた。
文字を消す際に紙を力強く擦ってしまうのは幼少の頃からの癖であったが、最近はそれが悪化している。
「愛理、消しゴム返せ」
強烈な焦燥感が私の体を駆け抜けた。隣の席では友人の日向真綾ちゃんがこちらをじっとりと見つめている。私は舌を出しながら、彼女に割れた消しゴムを差し出した。
「ごめん。つい癖でやっちゃった」
真綾ちゃんが無残な姿になった自分の消しゴムを凝視する。校則違反の金髪が揺れ、その眦に怒りが満ちている様子が見て取れた。私は気まずい空気に耐えかね、深々と頭を垂れた。それを一瞥した真綾ちゃんが、そっと口を開く。
「ねえ、なんでこうなったの」
「普通に消してたつもりが」
「そんなことは聞いてねえんだよ!」
授業中だというのに、彼女は大声で叫んだ。本来であれば周囲の人間が注意を促すところであるが、私のクラスではこれが日常茶飯事であった。故にそれを止める者はおらず、授業は淡々と執り行われた。
「本当に割るつもりは無かったの、ごめんね」
「嘘つくなよ、くっきり割れてんじゃねえか」
私が謝罪してもなお、彼女は高圧的な口調で私を責め立てる。私は泣きたくなって、顔をほんの僅かに歪めた。ただ、私は何度も真綾から「割るな」と言われていたし、それなのに割ってしまったのは間違いなく私の責任だ。だがここまで一方的に叱られると、謝るのもなんだか面倒になってきた。
「どうしてくれんの、これで今月三十九個目なんだけど」
「もういいじゃん。真綾ちゃん好きでしょ?」
「何が」
「何がってこれ――金剛力士像だよ」
そう言いながら、私は消しゴムを指先でそっと撫でた。見事に割れた腹筋が、その力強さを物語っている。その逞しい四肢に私は思わず見惚れてしまった。
「別に嫌いじゃねえよ、金剛力士像」
「じゃあいいでしょ」
「駄目に決まってんだろ。大体、三十九個全部が吽形じゃねえか」
これには私も反論の言葉を失った。確かに私が今までに割ってしまった腹筋、もとい消しゴムは三十九個で、その中に阿形の金剛力士像は存在しない。だがそれがどうしたというのだ。私は吽形の威圧感をこよなく愛しているのだから。
それに、三十九個の消しゴム全てが吽形になるというのは、ある種の運命でもある。
「これは私のせいじゃないんだな」
「いや愛理のせいだろ」
「私が運良く真綾ちゃんの消しゴムから吽形を掘り当てただけで」
「……あれ、ウチもしかして夢見てんのか」
私は偉大な彫刻家になったような感覚に陥った。胸を張って威張る私の横では、彼女が頭を抱えている。その顔には、絶望にも似た色が浮かび上がっていた。
「なんでウチは自分の消しゴムに半跏思惟像を見いだせないんだろうな」
「技術の問題だと思う」
「そこはせめて運の悪さって言えよ」
他愛もないやりとりを重ねていると、それを遮るかのようにチャイムが鳴った。授業終了の合図である。私は弁当が入った巾着袋と真綾ちゃんの手を引き、二年三組の教室を勢いよく飛び出した。それから屋上へ続く階段を駆け上がり、目の前に現れた鉄扉を開けた。
「やった、今日は屋上一番乗り!」
「いつもウチらしかいないけどな」
私が通う楠降高校の校舎は三階建てで、屋上だからといって特段珍しい景色はない。よくある菜園だったり、よくある温室だったり、はたまたよくあるイタリアンレストランだったり。
「綺麗な三段オチだなおい」
「ちなみにフェンスはありません」
「危険すぎるわ!」
私と真綾ちゃんは毎日、この屋上の隅っこで昼食を摂っている。先ほども言ったように背もたれとなるフェンスがないから、気を抜けば即死である。だがそれがどうしたというのだ。私の中のサムライスピリットが声高にそう叫んだ。
さて、今時の女子高生二人が屋上で弁当を食べるとなると、会話の内容は必然的に決まってくる。
「やっぱり今の時代は陰陽系男子だよね」
「何百年前だよ」
「あー、でも地球外生命系男子も捨てがたい」
「それは先取りしすぎだな」
そう、恋愛話。いわゆるコイバナである。私はこの手の話が大好きであるから、真綾ちゃんに次々と話題を振った。
「新井選手のホームランがさ」
「それラブの恋じゃなくてカープの鯉だね」
「あれ、真綾ちゃんは近鉄ファンだっけ?」
「今は近鉄じゃなくてオリックスだし、ウチは鷹女子だわ!」
彼女は教室での一件と同様に頭を抱えた。全く、この人間は何に悶え苦しんでいるのか。私はそれを知り得ないし、解き明かそうとも思わない。私は人の感情に肩入れしない性格なのだ。
「そういや愛理、あんた好きな人いるでしょ」
「えっ」
「無駄無駄、隠したってバレバレだから」
真綾ちゃんは下劣な笑みを湛えた。此奴は心に受けたダメージを、倍と言わず二乗三乗と重ねて叩き込んでくる。私の耳は瞬く間に赤くなった。
「おいおい、顔色で分かるぞ」
「フシュー……」
「うわっ、耳から湯気出てるって!なんかごめん!」
「大丈夫だよ、焼きたてのベーコンだから」
「なぁんでぇ?」
私は耳元に吊り下げていたベーコンを箸でつまみ、ひょいと口の中へ放り込んだ。本来であれば、弁当のおかずはベーコンより砂肝の方が良かったのだが、朝食で砂肝二キログラム全てを平らげてしまったのだ。
それを思い出したと同時に、現在はコイバナ真っ最中であることを思い出す。
「私、実は一組の田中君のことが好きで」
「田中は一組に十五人いるぞ」
「私が好きな田中君って言ったら、実篤君しかいないでしょ!」
私が若干の憤怒をちらつかせた口調で言うと、真綾ちゃんは「知らねえよ」といったような顔で私を睨んだ。何たる無礼であるか。
まあそれはいい。私は今、田中実篤君のことで頭がいっぱいなのだ。
「実篤君は運動能力抜群で、優しくて、イケメンで、お金持ちなの!」
「へえ、結婚すれば超玉の輿じゃん。優良物件だな」
ニヤニヤしながら話す私を見ても、彼女は笑顔で頷いてくれる。身だしなみの点で校則を木っ端微塵にする彼女だが、内面は非常に寛大で、俗に言うギャップ萌えを体得しているのだ。
だが、悪人面の彼女がその裏に存在していた。
「そんな優良物件なら、さぞかし学力も高いんだろうね」
「テストも常に平均九十九点を超える、学年二位の秀才なのです」
「なんだ、ウチより頭悪いじゃん」
そう、日向真綾という女は正真正銘の天才なのだ。金髪ミニスカにルーズソックスを履くギャルの分際で、いけしゃあしゃあと学年一位をもぎ取っていきやがる。私はそんな彼女を尊敬しているのだが。
「まあでも良かったじゃん。ウチみたいに誰も見つからないよりマシだわな」
「ふふ、ありがとう。いつか彼と結婚したいなぁ」
「愛理の変に長ったらしい苗字ともおさらばだ」
「そうだね、なんか不思議な感じ」
私の苗字は、少し変わっている。私は人生十六年と六ヶ月の間に、同じ苗字の人間と出くわしたことがない。故に自分の苗字がちょっと嫌いで、授業で先生に苗字呼びされた日にはヘブライ語で回答するようにしている。
「でも、婿入りしてもらって一緒に家業を継ぎたいな」
「愛理のパパとママって何やってるんだっけ」
「小説家だよ」
「家業とは言わないだろ……」
いつも苗字に文句を言っている私がこんなことを言ったので、真綾ちゃんも微かに狼狽していた。
私の家は代々小説を書いていて、ご先祖様の中には有名な人もいたらしい。そのせいか、私も幼少期から本を読むことが大好きで、将来は売れっ子小説家になりたいという夢があったりする。
困った様子の真綾ちゃんが、そっと眉を顰めて言った。
「別に小説は嫁にいっても書けるんだし、あいつを婿に貰うんならやめとけ」
「えー、駄目かな」
「駄目ではないと思うけど、愛理の家業継ぐなら名前負けだろ」
「名前負け?」
私がよく分からず首を傾げてみると、彼女は大きな溜息をついた。
「――あんたに婿入りしたら、あいつの本名は武者小路実篤になっちまうよ」
響き渡る鐘の音が、昼休みの終わりを告げる。




