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二十一、ナイトウォーカーの終わり

 やがて人々は散り散りに倉庫から出ていく。私はもう何も映っていない壁を見つめ続けているハーツイーズの隣で、あの慈善活動をしている男に促されるまで座っていた。後片付けを終えた彼らも去っていくと、埠頭は静かな波の音と潮の匂いがするだけになった。

「ハーツイーズ。もう少し、私に付き合ってください」

 私が言うと彼は何も言わずに頷いた。きっと自分に残された時間が少ないことを私以上に理解しているのだろう。美しい顔は普段あまり見せない無表情を浮かべていて、精巧に作られた人形のようだ。

 追い風に背中を押されるようにして、私達は海の方へ近づく。満潮らしく、夜の海は水面がすぐそこまで迫っている。ふと《男爵ホテル》の庭にあるプールが脳裏に浮かんだ。今目の前に広がっているのは、あんなプールよりも途方もないほどに広大な海だ。冷たい空気で澄んだ空の星が真っ黒な海水に映り、本当の宇宙を見つめている気分になる。

「おい」

 突然の声をかけられてハーツイーズと向き合う。同時に唇が触れ合った。舌を絡ませ、時折噛みつき、かと思えば啄むように――それを繰り返す今までにないほど長いキスが終わると、飲み込み切れなかった唾液でお互い口元が濡れていた。口の中はラズベリーのリキュールがまだ残っていて、今のキスで酸欠になりかけていたこともあり軽く眩暈がした。私が飲んだものは炭酸で薄められていて度数がそれほど高くなかったのかもしれないが、やはりアルコールだ。冷たい風が心地いいくらいには身体が火照っている。

「抱けよ、棗」

「………………」

 さらり、と。特に媚びるようでも誘うようでも脅すようでもなく――まるでなんでもないことのように言ったハーツイーズの言葉に、私は黙って彼を見つめる。すると彼はクロークを脱ぎ捨て、鞄を投げ捨て、霜降りのセーターも脱ぐとドレスシャツの襟元を掴んで乱暴に貝釦を引き千切った。ぱらぱらと地面に落ち、そのうちの一つが海に転がり落ちて沈んでいった。

「俺をお前のものにしろ」

 白く浮かび上がる鎖骨の上、彫られた黒い薔薇が目に飛び込む。私はハーツイーズを正面から抱きしめた。目の前にある一輪の黒い薔薇に、唇で軽く触れてから口を開く。

「私は夜を歩くのが好きです。夜空が映った水面を見るのが好きです。誰かと素手で喧嘩をするのが好きです。ハーツイーズの首に彫られたこの黒い薔薇が好きです。水葬が、好きです」

 ハーツイーズは身動ぎせずに私の話を聞いている。どんな表情をしているのかはわからない。想像もつかない。

「あなたは誰のものでもありません。それは、誰もあなたのものではないということと同じくらいに当たり前のことです。今までも、これからも」

 左手でハーツイーズの頭を引き寄せてキスをする。先ほど彼がしてきたように相手の口腔に舌を入れて絡ませ、時折噛みついたり啄んだりしてやった。終わってから、初めて自分からキスをしたということに気づいた。

「これで終わりか」

 抗議するような目で見下ろされ、私は頷いた。

「続けろよ」

「言ったでしょう。あなたは誰のものにもなりません」

「本当に何を考えているのかわからないな、棗は」

 そう言うと突然ハーツイーズは冷たい表情を浮かべ、私の肩を押し退けるようにした。

「もう消えろ。お前は今すぐ一人で最後の列車に乗って帰るんだ」

「あなたはどうするんですか」

「そのときが来るまで、ここにいる」

「蝶が薔薇から離れるなと言ったのはハーツイーズでしょう」

「何」

 海に目をやっていたハーツイーズは私に突き飛ばされ、そのまま地面に倒れた。両肘を地面で擦ったが、そのおかげで後頭部を強く打ちつけることはなかった。すぐに私は彼の上へ馬乗りになり、コートを脱いでポケットからナイフを取り出した。ハーツイーズの持ち物ではなく、今日彼と一緒にひやかしていた店から掠め取ったものだ。右手にナイフを持ったまま左手でハーツイーズの胸骨に触れ、下にある窪んだところを見つける。

「今からここを突き刺します」

「本気か」

「ええ。痛みがどれほどのものになるかは知りませんし、私には想像することもできません。ただ、横隔膜が麻痺するから悲鳴は上がらず即死すると思います」

 私は離れていたところにあったハーツイーズの鞄を引き寄せ、中から折り畳みナイフを取り出した。私のものと比べると若干小さくて繊細な印象だ。それをハーツイーズの右手に握らせる。直後に彼の腕は動いた。どんっ、と拳で強く殴られたような衝撃を感じた胸を見ると、そこに突き刺さったナイフが深々と柄の手前まで沈み込んでいた。骨にはぶつからなかったようだ。肺を貫いて心臓に到達したかどうかはわからないが、呼吸が苦しく何かが喉にせり上がってくる。咳き込むと、口の中は血の金臭さでいっぱいになった。ハーツイーズは笑みを浮かべてナイフを抜き取った。

「これでいいんだろ」

 私は彼の言葉を聞き流し、先ほど宣言したところをナイフで全体重かけるようにして突き刺した。目が大きく見開いて引き攣ったが、悲鳴は上がらない。ナイフを引き抜くと泉水が湧き出るように鮮血が溢れてきた。ハーツイーズの身体を抱き起こすと密着したところから二人分の血が混ざり合うのを感じる。そこだけとても温かく、指先やつま先は逆にどんどん冷えて感覚を失っていくようだった。

「ハーツイーズは薔薇です。私は蝶です。あなたが言ったように、私は離れません」

 一緒に停滞し、沈殿すればいい。

 お互いを支え合うようにゆっくりと立ち上がり、私達は真っ暗な海の中へ飛び込んだ。派手な水音が大きく上がる。目を開けると、血液が煙のように身体から水面へと昇っていく様子がはっきりと見えた。この調子だと私は溺死するよりも先に出血多量で死ぬことだろう。そしてハーツイーズと一緒に沈んでいくのだ。

 水葬。

 これが、私の求めていたものだ。

「棗」

 不意に名前を呼ばれた気がして首を動かすとハーツイーズと目が合った。ヘリオトロープの瞳は確かに私の顔を映している。私と彼はどちらからともなく唇を重ね、抱き合い、目蓋を下ろした。


 

《水葬ナイトウォーカー》完結致しました!

 なんだか他の作品を見ていると新しい小説ほど話数が少なくなっていますね。まさか内容も薄っぺらくなってはいないだろうかと不安になる日々です。


 この作品は、棗とハーツイーズのような殺伐とした男女関係にある少女と少年を書きたいと思い、執筆しました。元々のきっかけは米津玄帥さんの『MAD HEAD LOVE』を初めて聴いて夢中になったことです。あの素敵な歌詞に描かれているような所謂ケンカップルを小説に登場させたいと思って、結果こんな感じになりました。反省はしていますが後悔はしていません。


 棗は不感症で性の快楽どころか痛みも感じません。作中では珍しいとされる黒髪に黒い瞳で女性と言うより少年っぽい彼女に好意を寄せる男が何気に多く存在しますが、本人が彼らに決して絆されることがないのはこの体質が原因かもしれませんね(あと赤ん坊の頃から孤児ですし)。読者の皆さんも気づいていたかと思われますが、棗は相手にどんなことをされようがどんなこと言われようがそれに絆されることも乱されることもありませんでした。「好き」とか「愛してる」とか誰かから言われることはあっても本人は一言も言ってません。流されているようなところもありますが、基本的に棗は自分自身の意志で動いている子です。

 最期、ハーツイーズという薔薇と一緒に存在する蝶として心中したことも彼に情が湧いたからというのではありません。夜が好きで、夜空が映った水面が好きで、喧嘩が好きで、ハーツイーズに彫られた刺青の黒い薔薇が好きで、そして水葬が好きだからというこれ以上ないくらい自分のためを思った心中でした。きっとハーツイーズはそのことを理解しています。


 今回は本当に暴力表現やノーマルだけでなくボーイズラブありの性的な場面が多い作品になりました。読んでいて――いやたった今読み終えて気分を悪くした方々も少なからずいるんじゃないかなあと心配しながらもとにかく書きたいことを書きまくりました。はい、満足です。


 最後に、本作を読んでくださった方に両手いっぱいの感謝を捧げます。ありがとうございました!


 

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