二十、幻燈会
「棗。起きているか」
ハーツイーズの声で目が覚めた。空を見る限りまだ太陽は昇っていない夜明け前だ。木材を踏み台にして顔を出すと、連結部分で隔てた向こう側にある貨車からハーツイーズが身を乗り出していた。顔色はある程度よくなっている。
「もうそろそろ着くみたいだ。ほら」
彼が指差す方向には海に面した駅舎らしき建物が見えている。列車のスピードも緩やかに落ち始めた。
「完全に停車する前に飛び降りた方がいいですね」
「ああ」
列車が駅舎に入る前にスピードが落ちた頃合いを見計らい、私達は貨車の上から梯子に移動した。砂利が敷きつめられた線路脇に飛び降りる。重力から解放された感覚の後、全身に衝撃が返ってきた。砂利に突いた掌の皮が少しだけ剥けたが血は出ていない。人目がつかない場所から線路沿いの道に出る。私達が住む市よりもまだ田舎のようだ。水銀灯が辺りを明るく照らしているが、まだ夜明け前だからか人の姿はない。
「ハーツイーズ。この街を知っていますか?」
「幼い頃に二回ほど来た覚えがあるだけだ」
私は駅名を見て、セージからもらったチラシを取り出した。いつの間にか私達はこの幻燈会が開かれる埠頭のある街に来てしまったらしい。
「なんだ、それは」
「昨日の放課後、セージからもらった幻燈会のチラシです。夜の八時からここの埠頭で開かれるんですよ」
私はチラシをハーツイーズに見せた。
「セージは冬期休暇でのことをちゃんと謝るため、あなたをこの幻燈会に誘おうと思っていました。でも、ハーツイーズは自分と一緒に行かないだろうと考えた彼は私にこれをくれたんです。せっかくこんなところまで来たんですから、今夜一緒に行きませんか?」
すると怪訝そうに眉を寄せていたハーツイーズは、艶然とした微笑を浮かべた。
「やっぱりセージは愚かだけれど、頭は悪くないな。確かに俺はセージに誘われたなら行かなかった。でも、仲良しの棗なら別だ」
言い終えて、自分がかぶっていた黒い帽子を投げ渡す。
「かぶっていろよ。瞳はどうしようもないが、その黒髪は隠せるだろ」
「そうですね」
ここは私にとって見知らぬ土地だ。当然、黒髪に黒い瞳は好奇の視線に晒されることだろう。私は短い髪をほとんど帽子の中に隠すようにして深くかぶった。それから私達は駅前の公園に向かい、ベンチでもう一眠りすることにした。クロークの中で肩に下げていた鞄から厚手の毛布を取り出すと、ハーツイーズは黙って私と密着して毛布を纏い、早々に寝息を立て始める。彼の体温は久しぶりで、改めて密着すると他の人よりもよほど温かい。
次に起きたときは正午近くだった。公園の中では幼い子供が六人、見慣れない私達を気にしながらも元気に遊んでいた。恐らくこの子達の歓声で目覚めたのだろう。
「ハーツイーズ、起きましょう。何か食べたいものはありますか?」
声をかけても彼はなかなか目覚めようとしない。私が何度か身体を揺すっていると不機嫌そうに唸るような声を出し、目蓋をゆっくりと持ち上げた。もしかしたら彼は私が貨車の中で眠っているとき、ずっと起きていたのかもしれない。まだ半分近く眠っているようだ。
「空腹でしょう。食べるものを買ってきますから、希望があれば言ってください」
「…………林檎」
「わかりました」
私が公園を出る直前にベンチを振り返ると、ハーツイーズはすでに寝息を立てているようだった。帽子がずれていないことを手探りで確認し、私は急ぎ足で公園を出た。
小規模な青果市場の中、果物を扱う店で色艶のいい林檎を探すがあまりいいものがない。どうしようかと悩みながら歩き続けていると、市場から出たところにシナモンの匂いを漂わせる露天商を見つけた。十人近くの列を成しているその露店で売っているのは、焼き林檎だった。列に並んだ私は順番が来ると、ホイップクリームを添えた焼き林檎を二つ注文した。アルミカップの中に入れた焼き林檎をさらに箱の中に入れて手渡される。飲み物も必要だろうと思い、湯の中で温められていた牛乳壜も二本買う。ついでに店主が読んでいたのか客が忘れていったのかわからないが、店先に置かれていた今朝の新聞を懐へ入れてから公園に戻った。ちょうど出入り口のところで、同年代くらいの少年三人が慌てた様子で私の横を駆け抜けていった。不思議に思いながらもベンチのある方へ向かうと、ハーツイーズが少年の襟首を掴み、顔面をベンチに何度も打ちつけていた。少年の頬や額は腫れ上がり、鼻血を流している。幼い子供はいなくなっていた。
「ようやく目が覚めましたか、ハーツイーズ」
「ああ。……それは」
「焼き林檎ですよ。生の林檎はあまりよさそうなものがなかったので、こちらの方が温かくて美味しそうな気がしました。飲み物は一緒に売られていた牛乳です」
私が箱を差し出すと、ハーツイーズは少年の襟首を離した。少年は引き攣った悲鳴を上げながら逃げていく。
「派手な行動は控えてくださいよ」
「最初に因縁をつけてきたのはあいつらだぜ。ああいう弱くて群れている奴は嫌いだ」
「弱いから群れるんでしょう」
「……それは正論だな」
私達は血糊を避けてベンチに腰掛けると焼き林檎を食べ始めた。シナモンとラム酒の香りがする甘酸っぱい焼き林檎にホイップクリームがよく合っていて美味しい。まだ温かい牛乳を半分飲み干したところで、私は新聞を広げた。市長夫妻――ハーツイーズの両親が横領したという事件が書かれている。発覚したのはつい昨日のことで、夕方になって官庁の人間が訪問した際すでに家は蛻の空。市長夫妻と彼らの息子であるハーツイーズがそれよりも前から姿を見せていなかったことから、発覚することを察知して早くから夜逃げをしていたのではないかと思われている。そして依然、彼ら三人は見つかっていない。
「…………」
私はハーツイーズの横顔を見た。すでに中身がなくなった牛乳壜の飲み口を行儀悪く舐めている。恐らく彼は、自分の両親がしていることについて何も知らず、気づいていなかったのだろう。
「どうかしたか」
「いいえ」
新聞を畳み、ベンチの下に放り投げる。ハーツイーズは特に気にした様子もなく、牛乳壜をベンチの上に置くと毛布を畳んで鞄の中にしまった。
「ところであなたの鞄には何が入っているんですか?」
「毛布と折り畳みナイフ、マッチ、ドロップ、二日分の着替え、財布。金はホテルに数泊できる程度だな。お前はどうだ」
「あと一日くらいなら食べていける程度のお金を入れた財布と幻燈会のチラシだけですよ」
しばらく私達は人々が行き交う姿をベンチに座って眺めていた。多分、私達が一緒にいられる時間は残り少ない。
夜の八時前まで市街の店をひやかすことで時間を潰し、私とハーツイーズは埠頭を訪れた。鋼鉄の梁と柱に支えられたいくつかの倉庫のうち一ヵ所が開いてわずかな明かりが漏れている。入口に立っていた男にチラシを渡して中に入ると、すで三十人近くの人が座っていた。
幻燈会の会場と言っても、倉庫の中でそれぞれに好きなところへ腰を下ろしているだけだった。映写幕もない。乳白色の壁にそのまま映すらしい。私とハーツイーズは二人並んで腰を下ろすことのできる場所を探しながら、奥の方――飲み物を配っている円卓を見た。そこで人々が受け取った透明な杯から透け、赤い紅玉のような光があちこちに散らばっていた。
「チラシに書いてあった通りだ。ラズベリーのリキュールを振る舞っているんだな」
「ええ。……子供も、受け取っていますね」
酒ならハーツイーズの分だけでいいかと考えていたが、小さな子供までが大人達と同様に杯を受け取るのを見て、私もハーツイーズと一緒に行ってみた。飲み物の円卓は二つあり、どちらも行列ができていてなかなか近づけない。大人達はリキュールに少量のシロップを入れたものを飲んでいる。子供達はどうやら炭酸で薄めたものを受け取っているようで、一匙の砂糖を入れている。ようやく順番になって、私達は円卓の正面へ顔を出した。
「こんばんは」
手際よく杯を配っていた若い女が愛想よく微笑む。その顔立ちと腰まで伸びた髪がどことなく桃葉に似ているような気がした。ハーツイーズはシロップ入りのリキュールをさっさと受け取り、円卓から離れていく。
「あなたもシロップ入り?」
「炭酸入りでお願いします」
「わかった。飲み方は知っているかしら」
私は首を横に振った。すると女からリキュールの入った杯とスプーンを渡される。
「そこに砂糖のポットがあるでしょう。スプーン一杯を取って、そっと杯の底へ沈めてみて。砂糖が少しずつ溶けてくる甘さが美味しいのよ。飲み干した後は、底に残っている砂糖をすくって舐めておしまい。一人一杯だけだから、大切に飲んでね」
「わかりました」
私がハーツイーズの姿を見つけて彼の隣に座ると、壁の前に初老の男が立って挨拶を始めた。慈善活動をしている者らしく、この幻燈会を各地で開いているとのことだった。男が壁から離れると同時に照明は消え、幻燈が開始した。
真っ暗な闇の中、音楽が流れるとともに冬のおうし座、ふたご座、春のおとめ座、からす座が順番に紹介される。そしてそれぞれの星座にまつわる神話が映し出されていった。それから一時間、倉庫内ではその幻想的な雰囲気に圧倒されたのか誰一人として声を上げず、時折スプーンが杯に触れる音以外の物音を立てなかった。やがて幻燈が終わって照明が点いてからも、誰しもしばらくはそのまま目を擦ってぼんやりとしていた。
いつの間にか自分が炭酸入りの甘いリキュールを飲み干していたことに気づき、残っていた砂糖を舐めると少しだけくらっとする。けれどもルイボスのところで飲んだ果実酒よりもずっと飲みやすくて美味しかった。




