施しか、商いか
鉄の匂いが、風に乗ってきた。
草だけの世界を半日進んだ先で、青い地平が途切れていた。黒い岩肌の丘が幾重にも連なり、その裾から煙が立っている。鍛冶の煙だ。一つや二つではない。谷という谷から、細い煙が幾筋も空へ昇っていた。
「あんた」馬を並べたボルツが、低く言った。「あれが、牙の国か」
渋沢は手綱を引いて、しばらくその煙を眺めた。
(ずいぶんと、鉄を打っているものだ)
あれだけの煙が立つなら、鉄は掘るそばから余っているに違いない。都では、北を「攻めの支度を整えた獣の国」と読んだ。だが渋沢の目に映ったのは、鍛えた鉄を置く場所に困り果てた国の姿だった。掘るそばから鉄を持て余す、そういう国だ。
*
丘の裾の集落に近づくと、道の脇に鉄が積まれていた。
まだ形を得ぬ、鈍く光る鉄の塊だった。武具に打つ前の、素のままの鉄だ。それが荷を待つように、幾つも幾つも並んでいる。運び出す先のない荷だと、渋沢にはすぐ分かった。売れる物なら、こうは積まない。
集落の獣人たちが、こちらを見ていた。角を戴いた大柄な体。だが、その頬は削げている。痩せた腕で子を抱いた女がいた。子もまた、痩せていた。
渋沢は馬を降りた。
女の前まで歩き、荷から乾いた麦の袋を一つ、そっと差し出した。言葉は通じない。それでも、飢えた子には何より先に、と思った。
女は袋を見た。それから渋沢を見た。そして静かに首を横に振った。手を伸ばさなかった。痩せた背が、まっすぐに伸びている。
(……受け取らないのか)
渋沢は袋を下ろした。差し出した手が、宙で軽くなる。
女の目に、物欲しさはなかった。痩せた頬が、飢えを隠しきれずにいる。それでも、施しの手を取らぬと決めた目だった。渋沢はその誇りの重さに、静かに頭を下げた。
「あんた」背後でボルツが囁いた。「あの子は、腹を空かせてるぞ。それでも受け取らんとはな」
「ええ」渋沢は袋を荷へ戻した。「これは、私のやり方が違ったのです」
*
集落の奥から、一人の老いた獣人が歩み出てきた。
角は根元から白く、片方が半ばで折れている。年を経た者だ。彼は渋沢の一団の前に立ち、慣れぬ舌でゆっくりと、南の言葉を継いだ。
「南の……者、か。文を……寄越したのは、貴様らの、国か」
片言だった。一語ごとに、正しい音を探すような間がある。だが確かに、南の言葉だった。渋沢は、この老人が王とともにあの書状を綴った者だと察した。南の言葉を知る数少ない一人として、王の意を一字ずつ紙に写したのは、この舌だろう。
「はい」渋沢は胸に手を当てた。「その文に、返事を持ってまいりました。あなたの王に、お会いしたい」
老人は、しばらく渋沢を見つめた。剣を提げていない相手を、値踏みする目だった。やがて彼は、丘の上の砦を顎で示した。
「王が……会うと、言えば。会える」
*
砦は、石を積んだだけの武骨な造りだった。
玉座はない。豪奢な壁掛けもない。奥の広間には、削り出したままの長い石の卓が据えられ、その向こうに、一人の巨躯が立っていた。
二メートルを超える偉丈夫だった。灰銀のたてがみのような髪。頭の左右に、内へ湾曲した黒い角。琥珀色の獣の目が、静かにこちらを見下ろしている。纏っているのは擦り切れた古い外套だ。だが幾度も繕われ、丁寧に手入れされていた。窮乏と矜持が、その一枚に同居していた。
王だ、と一目で分かった。誰かに教えられずとも分かる、背負う者の重さがあった。
「我は、フェンリル」王は、低い声で言った。「スヴァルトの、王だ」
人間の言葉だった。老人よりは滑らかだが、やはり一語ずつを選ぶ間がある。
渋沢は、深く礼をした。
「ヴァルド・フォン・ブルーメンタールと申します。南の、ヴェルダン王国から。——鉄を、買いにまいりました」
広間の空気が、わずかに動いた。壁際に控えた獣人たちが、目を見交わす。老人が、渋沢の言葉をたどたどしく王へ継いだ。
フェンリルは、しばらく何も言わなかった。琥珀の目が、渋沢の全身を検分していく。剣のない腰。荷の中身。連れの数。
「南は」やがて王は口を開いた。「我らを、獣と呼ぶ。攻めてくる、と。……なぜ、貴様一人、鉄を買うと言う」
「私は、あなたの文をそう読みました」渋沢は懐から、返書を納めた筒を取り出した。「鉄を、買え。買わぬなら、南へ下る。——あれを、私は売り先を探す声だと読みました」
筒を卓に置き、蓋を開けた。中の紙を広げる。文字は、王には読めまい。だから渋沢は、数字と品物を並べて書いていた。鉄の絵、麦の絵、束ねた俵の数。綴りは違っても、物と数なら通じる。
「鉄を、十車。こちらの麦を、二十俵。まずは、これだけを交わしましょう」渋沢は紙の上を指でなぞった。「約束が守られたら、次はその倍を」
*
フェンリルは、卓に手をついて、その紙を見下ろした。
長い沈黙だった。獣の目が、鉄の絵と麦の絵のあいだを、幾度も行き来する。飢えた民を背負う王が、その絵に何を見ているのか。渋沢は、急かさずに待った。
やがて王は、顔を上げた。琥珀の目が、まっすぐに渋沢を射た。
「算盤の、男」フェンリルは言った。「一つ、問う。——それは、施しか。商いか」
広間が、静まった。
その一問の重さを、渋沢はさっき集落で知ったばかりだった。麦の袋を突き返した、痩せた女の背。飢えていてなお伸びていた、あの背筋。この国が拒むのは、恵まれるという形そのものだ。
「商いです」渋沢は、はっきりと言った。「私は、麦を差し上げに来たのではありません。あなたの鉄を、買いに来たのです。麦は、その代金の一部にすぎません」
「代金」王が、その言葉を口の中で確かめた。
「はい。私は、あなたから必ず鉄を受け取ります」渋沢は王の目を見返した。「ただでは、いただきません。ただでいただけば、それは施しになる。あなたは施しを受ける方ではないと、門の前で拝見しました」
フェンリルの角が、わずかに動いた。
「先に、麦を渡しましょう。鉄は、後でいい」渋沢は続けた。「飢えは、待ってはくれません。ですから食い物を先に。鉄は、あなたの都合のつく時に。——その間の貸しは、私が背負います」
「貸し」フェンリルの目が、鋭くなった。「貸したものは、返せと言う。返せぬ時、貴様は……我らに、何を差し出させる」
鎖を疑う目だった。過去に、何かがあった目だ。渋沢は、そう感じた。
「鉄です」渋沢は言った。「鉄のほかは、何も。土地も、民も、頭を垂れることも、頂きません。返すのは、掘った鉄で。それきりです」
*
その時、広間の奥で、石の擦れる音がした。
一人の獣人が、大股で入ってきた。フェンリルより頭一つ低いが、体は鋼のように締まっている。角は王のそれより鋭く、前へ突き出していた。全身に古い傷。片耳が、根元から裂けている。人間の武具を鹵獲したと分かる、継ぎ接ぎの鎧を纏っていた。
男は渋沢を一瞥した。狼の目だった。凝り固まって、もう解けなくなった古い不信の色がそこにある。
「王よ」男は、フェンリルへ向かって言った。人間の言葉だ。将軍らしく、この男は南の言葉を、老人よりも流暢に操った。「南の口車に、耳を貸すのか」
「スコル」王が、静かに名を呼んだ。
スコル、と渋沢は胸のうちで繰り返した。
男は卓へ歩み寄り、渋沢の広げた紙を見下ろした。鉄の絵。麦の絵。その数字を、忌々しげに睨む。
「甘い言葉だ」スコルは吐き捨てた。「先に、食い物をくれてやる。鉄は後でいい。貸しは背負う。——聞き覚えがある。一度、それで我らは飢えた」
「一度」渋沢は、その言葉を拾った。
「南の商人が、来た」スコルの声が低くなった。「同じ顔で、同じことを言った。交わそう、と。信じた。……その裏で、我らの鉄を買う道は、一つ残らず断たれていた。売れぬ鉄が谷に積み上がり、その冬、子が幾人も死んだ」
渋沢は、言葉を失った。道の脇に積まれていた、あの鉄の山。運び出す先のない荷。あれは、そういう冬を幾度も越えてきた鉄だったのだ。
「算盤の男」スコルが、渋沢を正面から見据えた。「施しの次は、隷属だ。恵みには、必ず鎖がついてくる。俺は、二度は騙されん」
荒い、断ずるような声だった。だがその奥に、民を死なせた将の傷がある。渋沢には、それが聞こえた。この男の不信には、根がある。実際に裏切られた者だけが持つ、一片の正しさが。だからこそ、たやすくは解けない。
「ご無理もありません」渋沢は、静かに言った。「一度断たれた道をまた信じろというのは、酷な話です」
「分かっているなら、帰れ」
「帰りません」渋沢は首を振った。「一度で信じてもらおうとは、思っておりません。信用は、一度ずつ行いで積むものです。——ですから、まず十車から。それが守られるかどうか、あなたの目で確かめてください」
スコルの喉が、低く鳴った。だが、言い返しはしなかった。
*
フェンリルは、その間ずっと、卓に置かれた紙を見ていた。
王が顔を上げた。琥珀の目が、渋沢とスコルを等しく見渡す。忠臣の傷を知る目であり、飢えた民を背負う目でもあった。
「スコルの言葉は、忘れてはならぬ」王は、重く言った。「一度、我らは信じて、飢えた。……だが」
フェンリルは、卓の鉄の絵に、太い指を置いた。
「今も、飢えている。信じずとも、飢えは、消えぬ」
スコルが、何か言いかけて口を噤んだ。王の言葉には、将軍でも遮れぬ重さがあった。
「算盤の男」フェンリルは渋沢を見た。「我は、まだ貴様を信じてはおらぬ。だが、貴様の言う『商い』とやらが、施しでも、鎖でもないなら。——見せてみよ。十の車で」
渋沢は卓の紙に手を添えた。差し出した手が、今度は宙で軽くならなかった。この王は、握り返しはしない。だが、突き返しもしなかった。話を聞くと言った。
(門は、開いた。ほんの、指一本ぶんだが)
渋沢は、いっそう深く頭を垂れた。九十一年と、二度目の生の幾年。そのすべてを賭けて重ねてきた一つの理が、今、種族の壁を越えて試されようとしていた。奪えば、人も獣人も等しく痩せる。分ければ、等しく肥える。腹を空かせた者に、その理が届かぬはずはない——渋沢は、その一点に立っていた。
「必ず、十車を届けます」渋沢は言った。「約束が、私の言葉より雄弁でしょうから」
*
その夜、渋沢たちは砦の外れの一室を借りた。
小さな火が、石壁を赤く照らしている。ボルツが戸口に背を預け、腕を組んでいた。
「あんた」ボルツが、火を見たまま言った。「あの将軍、俺たちが眠ってる間にでも喉を掻き切りたい顔をしてたぞ」
「でしょうね」渋沢は火に手をかざした。「あの方はこの国で一番、民を思っている一人です。思っているからこそ、二度と飢えさせまいと必死なのです。怖いのは、あの方の正しさのほうです」
ボルツは、鼻を鳴らした。だが、いつものように何かを呑み込む間があった。
火の向こう、砦の高みに、一つの影が立っていた。スコルだった。将軍はこちらの灯を見下ろしている。灯の一つも消せば、話ごと消えると言いたげな目で。
渋沢はその視線を受けとめた。あの影が、次に立ちはだかる壁になる。それが分かっていて、なお渋沢は火のそばで麦の車の数を、指で一つずつ数え直しはじめた。十から。まず、十から。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
いよいよ渋沢栄一が、魔王国スヴァルトの土を踏みました。この回でいちばん大切にしたかったのは、「魔王国を、倒すべき悪に見せない」ことです。門の前で痩せた子に麦を差し出す渋沢。でも母親は、飢えていてなお、その手を取らない。飢えより重い誇りが、その痩せた背筋にはありました。施しの手を静かに押し返す——そういう人たちだと、まず見てほしかったのです。だからこそ渋沢は、恵むのではなく「買う」という形で手を握ろうとします。
王フェンリルの「それは、施しか。商いか」という問いは、この最終章の背骨です。渋沢の答えは一貫しています。ただではもらわない。必ず鉄という対価を取る。土地も民も頭も要らない。それは施しでも隷属でもなく、対等な商いなのだ、と。誇り高い相手に、誇りを守ったまま手を握ろうとする——渋沢らしいやり方だと思います。
そして将軍スコル。彼の人間不信は、単なる敵意ではありません。過去に本当に裏切られ、その冬に子どもたちを失っている。彼の警戒は、一片の正しさを持っています。だからこそ、簡単には解けない壁になる。次回、この誇り高い将軍と渋沢が正面からぶつかります。剣も魔法も持たない男が、どう言葉を積むのか。どうか見届けてください。
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