牙の国へ、返事を届けに
北の空に、狼煙が上がったという。
その報せは朝のうちに王都を駆け抜けた。魔王国スヴァルトの兵が国境の川まで下りてきた。角を戴く獣が南を睨んでいる。都は半日で沸き返った。
武具屋の前に列ができた。神殿の鐘が、休みなく鳴りはじめた。魔物が攻めてくる——その一言が、風より速く石畳を走っていく。
渋沢は王城の廊で、その声を聞いた。懐には、一年前に届き、つい先日開いたばかりの北の書状がある。牙を剥いた獣の紋。慣れぬ手で綴られた南の文字。鉄を買え、買わぬなら南へ下る——たった二行の脅しの一通。
(やはり、こうなりましたか)
都が読んだのは、その二行の後ろ半分だけだった。南へ下る。その四文字だけが、独り歩きしている。
*
その日の午後、渋沢は御前に召された。
玉座の間には、磨いた鎧の男たちが並んでいた。北の報せに、宮廷は一色に染まっている。討つべし。声にせずとも、その気配が石壁に満ちていた。
「男爵」ラインハルト三世が、玉座の肘掛けを指で叩いた。「北の獣が動いた。都は討てと申しておる。……そなたは、どう見る」
答える前に、玉座の脇で錫杖が床を突いた。
武神アレスの祭服。大神殿を束ねる大神官ヒエロニムスだった。剣を模した錫杖を手に、ゆるやかに頭を垂れる。
「陛下。わたくしが申し上げるまでもございませぬ」慇懃な声だった。「北の獣は武神の御名を穢す者。獣と交わるは、それだけで穢れにございます。討ち祓うが、武神の国の道理かと」
声は静かだった。だが玉座の間の空気が、その一言で北へ傾くのを、渋沢は肌で感じた。慇懃な横顔の奥に、冷えた熱がある。この大神官を間近に見るのは、初めてだった。
「男爵」王が繰り返した。「そなたの見立てを聞こう」
渋沢は一歩前へ出た。懐の書状を、そっと押さえる。
「陛下。この報せを、私は攻めの支度とは読みませんでした」
鎧の列が、低くざわめいた。渋沢は構わず続けた。
「鉄を掘る国が、その鉄を売る先を失えばどうなりましょう。売れねば、暮らしが立ちません。立たねば掘った鉄を武具に変え、南へ下るしかなくなる。……北が兵を下ろしたのは、他に生きる道を見つけられぬからです」
「男爵」王の目が、鷲のように細くなった。「獣が、飢えて牙を剥いておると申すか」
「はい」渋沢は書状を取り出した。「陛下。北は、この文を南の言葉で書いてまいりました。慣れぬ綴りで、一字ずつ。ただ攻めるだけの国が、なぜわざわざ言葉を習ってまで文を寄越しましょう。——これは、脅しの形をした商いの申し出です」
列の後方で、白髪の武人が鼻を鳴らした。ファルケンハインだった。開戦を止められ、宮廷の声を失ってなお、その背は曲がっていない。
「算盤商人」老将が口を開いた。その呼び名を口にする声に、もう昔日の棘はなかった。「儂は、獣と商うという話は好かん。剣を交えた相手ならまだしも、牙の国へ荷を運ぶなど考えられぬ。儂の代では、な」
だが、と老将は大神官の方を一瞥した。
「穢れだの祟りだのと神を持ち出すのは、なお好かん。儂は儂の目で、あの国を嫌うておるだけだ。神の名を借りて人を煽るのとは、話が違う」
その隣で、革鎧の武人が静かに口を開いた。アイゼンブルクだった。
「我は、この男の敷いた鉄の道を見た」低い声だった。「奪った土地と違い、あれは誰にも奪い返せなんだ。……北が鉄を持ち、こちらが食い物を持つ。互いに欠けたものを埋め合えるなら、剣を交える前に確かめる値打ちはあろう」
玉座の間が、二つに割れた。討てと逸る鎧の列と、確かめよと言う数人の武人。そのあいだで、渋沢は王に向き直った。
「陛下。この書状に、返事をさせてください」
「返事」王の眉が動いた。
「向こうが一字ずつ書いてくれたのです。こちらも、一字ずつ返すのが筋かと。私が、北へまいります」
玉座の脇で、また錫杖が床を突いた。大神官は言葉を継がなかった。だが穢れを都へ招く、とその慇懃な沈黙が言外に告げていた。
「賛は、求めておらぬ」王は、大神官が口を開く前にそう言った。
ラインハルト三世は、しばらく渋沢を見下ろしていた。逸る武人たちを、手の一振りで制する。
「面白い」王は低く漏らした。「だが余は、都の支度を止めはせぬ。北の獣がまことに牙を剥けば、余は剣で応える。……そなたが商いと読むなら、行って確かめてまいれ。剣が間に合ううちに、な」
「片手で剣を研がせ、片手でそなたの算盤を試す。前にも、同じことを申したな」王の口の端が、わずかに上がった。「北でも、同じだ。できねば、そなたの読み違いが都に牙を連れて帰るだけのことよ」
大神官が頭を垂れた。だがその目は、穢れを見るように渋沢を見ていた。
*
その夜、渋沢は宿の卓に、一枚の紙を広げた。
北への返書だ。何を、どう書くか。しばらく、白い紙を見つめていた。
「殿」ゼーバルトが、燭台を近づけた。「まことに、お発ちになりますので。……あの、角の生えた獣の国へ」
「ええ」渋沢は筆を執った。「向こうが慣れぬ言葉で綴ってくれたのです。こちらも、返さねば失礼でしょう」
「ですが、言葉が通じましょうか。剣も魔法も使えぬお体で、もしあちらが問答無用に……」老執事の声が湿った。「手前は、案じられてなりませぬ」
「その時は、その時です」渋沢は苦笑した。(九十一年生きて、一度死んだ身だ。恐れなら、とうに使い切っている)
戸口で、ボルツが腕を組んでいた。
「あんた、本気か」低い声だった。「都じゅうが剣を研いでる中、あんた一人が紙一枚提げて牙の国へ行くと。正気とは思えん」
「正気ですよ」渋沢は筆を止めずに言った。
「ふん」ボルツは鼻を鳴らした。だが、その手はもう剣の柄にかかっている。「言っておくが、俺も行く。あんたを一人で草原にやったら、隊長の名がすたる。腕の立つのを、何人か連れていく」
「心強い」渋沢は微笑んだ。「ただし、剣は鞘のままで。私は、剣を見せに行くのではありません。返事を届けに行くのですから」
ボルツが、卓の書状を覗き込んだ。
「都の連中は、北を『魔物』と呼ぶ」ボルツは言った。「あんたは、そう呼ばんのだな」
渋沢は筆を置いた。
「北は、鉄を持て余しております。こちらには、その鉄を欲しがる者がいる。向こうは腹を空かせ、こちらには余る畑がある」渋沢は言った。「欲しいものを、互いが持っている。奪い合えば、双方が痩せます。分け合えば、双方が肥える。それだけの話を、剣で潰すのは惜しい」
「牙のある相手でもか」
「牙は、腹が減れば剥くものです。人も、獣も、そこは同じでしょう」渋沢は北の窓へ目をやった。「腹さえ満ちれば、牙を剥く理由が消える。私は、その一点に賭けております」
ゼーバルトが、そっと洟をすすった。
「殿。都で、殿の読みを信じておられる方は……」
「私一人でしょうね」渋沢は書状に目を落とした。「都は正しいのです。牙を剥いた獣は恐ろしい。皆が恐れるのは、当たり前のこと」
(だが、恐れて剣を抜けば、向こうも剣を抜く。抜き合えば、あとはもう双方が痩せていくだけだ)
筆先が白い紙の上を進んだ。北の言葉は分からない。それでも数字と品物なら、綴りが違っても通じる。鉄を十車、こちらの麦を二十俵。まずは、そこから。渋沢は数を一つずつ書き付けた。約束が守られたなら、次は倍にすればいい。信用は、小さく始めて積むものだ。
書状の終いに、一行だけ、大きく記した。
——鉄を、買いましょう。
買え、と迫ってきた一通への、それが渋沢の返事だった。差し出された手を、握り返す。ただ、それだけの一行だった。
*
翌朝、渋沢は王都の北の門を出た。
馬は数頭きり。ボルツとその手の者が数人。荷は食い物の見本と、返書を納めた一本の筒だけだった。軍旗もない。角笛もない。都が北へ向けて研ぐ剣の列を横目に、小さな一団が街道を北へ折れた。
門の上では、まだ神殿の鐘が鳴っている。魔物が攻めてくる、と。その音が、進むほどに風へ薄れていった。
やがて一行は、鉄の道の途切れる標を越えた。その先は、草だけの世界だった。北の草原が、朝の光の下で、どこまでも青い。
「あんた」ボルツが馬を並べた。「向こうで話が通じなかったら、どうする」
「その時は、また来ます」渋沢は前を見たまま言った。「一度で通じなければ、二度。二度で駄目なら、三度。信用は、一度ずつ積むものです」
ボルツは、何も言い返さなかった。ただ、渋沢と轡を並べて北へ馬を進めた。
風は、南から北へ吹いていた。都の鐘も、討伐を叫ぶ声も、その風には乗ってこない。
条約を結んだ数日後、国境に立ったあの朝、北の使者はこの草原の果てからこちらを見て、草の向こうへ消えた。あのとき見えなかった相手の顔を、今日は自分の目で見に行く。剣も魔法も持たぬ男が、牙の国へ、たった一本の返書を提げて。開戦を叫ぶ都に背を向け、ただ一人、違う道を北へ辿る。
馬の蹄が、露の草を踏んだ。青い地平が、少しずつ近づいてくる。渋沢の二度目の生で、いちばん遠い商談が、その草原の先で待っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
いよいよ最終章「論語と算盤編」の開幕です。渋沢栄一が剣と魔法の世界に転生して、藍の買取所から始まった二度目の人生も、ついに大陸の北の果て——魔王国スヴァルトへ向かいます。
この開幕回で描きたかったのは、渋沢の「孤独」でした。都じゅうが「魔物が攻めてくる」と沸き立ち、大神官は「獣と交わるは穢れ」と説く。その大合唱の中で、たった一人だけ「これは商いの申し出だ」と読む。多数が正しく見える時ほど、違う読みを口にするのは怖いものです。しかも渋沢には剣も魔法もない。紙一枚提げて牙の国へ発つ姿は、無謀に見えるかもしれません。でも、彼が一貫して信じてきたのは「奪い合えば足りず、分け合えば余る」という一点だけ。その信念が、いよいよ人間と異種族の壁を越えられるか、が最終章の賭けです。
失権したファルケンハインを「良識ある懐疑」の側に置いたのも、ひそかなこだわりでした。彼は交易を好みませんが、神の名で人を煽ることは潔しとしない。敵だった武人にも、譲れない筋がある。そういう人物として見送りたかったのです。
北の角の獣たちが、どんな顔をしているのか。次話でいよいよ、渋沢とともにその目で見届けてください。☆評価・ブックマーク・感想が、完結までの大きな励みになります。




