番外編 鞠凪の日常
「前衛職、誰かいないか?」
「今日の依頼、楽なのにしようぜ!」
「エレナさん! 好きです!」
「ごめんなさい」
「即答!?」
冒険者ギルドの朝は、今日も賑やかだった。
受付の前には列ができ。
冒険者たちが順番を待っている。
その中で。
「魔狼討伐ですねぇ〜受け付けました」
「怪我せずに帰ってきてくださいねぇ」
鞠凪が依頼書に判を押した。
「はっ……はい!!」
受け取った青年が、ぺこりと頭を下げる。
耳まで赤い。
そのまま仲間のもとへ戻っていった。
隣で受付をしていたエレナが。
ちらり。
鞠凪を見る。
「……鞠凪さん」
「ん〜?」
「またですか?」
「何がぁ?」
鞠凪が首を傾げる。
「…それは」
エレナが。
口を開きかけて、閉じた。
「……いえ。もういいです」
「そう?」
鞠凪は首を傾げたまま、次の冒険者へ手を向けた。
「次の方〜、どうぞ〜」
「は、はい!」
前に出てきたのは、三人組の若い冒険者だった。
片手剣と盾を持った青年が、依頼書を差し出す。
『噛み付きうさぎの討伐』
鞠凪は依頼書に目を落とし、それから三人を見た。
装備はまだ新しい。
青年が握る盾の縁には、指の跡が白く残っていた。
「魔兎の討伐ですねぇ。受理しました」
判を押して、依頼書を返す。
「ありがとうございます!」
青年が受け取った。
鞠凪は、にこりと笑う。
「行ってらっしゃい。危なくなったら、逃げていいからねぇ。無事が一番だからねぇ」
青年の手が止まった。
「……約束だよぉ」
「は、ははははい!!」
青年は勢いよく頭を下げた。
次の瞬間。
くるりと踵を返し、ギルドの出口へ走っていく。
「おい、待てって!」
「なんで急に走るんだよ!」
仲間二人が慌てて追いかけた。
鞠凪の髪が。
勢いでふわりと揺れた。
「……急いでるねぇ」
「そうですね」
エレナが、書類から目を離さずに答えた。
「理由は分かりきってますけど」
「そうなのぉ?」
鞠凪は、もう次の依頼書を受け取っていた。
───
「おい! どうしたんだよ!」
ギルドから少し離れた通り。
追いついた仲間たちが、青年の肩を掴んだ。
「急に走り出すなよ。何かあったのか?」
青年は、二人を見た。
それから。
胸元をぎゅっと握る。
「……惚れた」
「ん?」
「は?」
二人が顔を見合わせた。
「さっきの人に……惚れちまった」
「受付の?」
「そうだよ!」
「依頼受けただけだろ!?」
「分かってるよ!」
青年は顔を覆った。
「分かってるけど……あんなふうに言われたら……!」
「……お前、初対面だぞ」
「分かってるってば!」
声が裏返った。
二人はしばらく黙っていたが、やがて片方がぽんと肩を叩いた。
「……まあ、頑張れ」
「何をだよ!」
「知らねえよ!」
三人の声が、朝の通りに響いた。
───
「ふぅ〜……」
依頼の受付が一段落し、鞠凪は湯気の立つお茶を口に運んだ。
隣では、エレナが書類を揃えている。
「鞠凪さん」
「ん〜?」
「本当に、何も気づいていないんですか?」
「何にぃ?」
エレナは、じっと鞠凪を見た。
鞠凪も、じっと見返す。
やがてエレナは、深いため息をついた。
「……もういいです」
「えぇ〜?」
「仕事に戻ってください」
「はぁい」
鞠凪は湯呑みを置き、にこにこと立ち上がった。
エレナは、その背中を見送ってから、こめかみを押さえた。
───
空が赤く染まる頃。
素材買取のカウンターには、依頼を終えた冒険者たちが集まっていた。
鞠凪は、持ち込まれた素材を一つずつ確かめていく。
毛皮を広げ、傷を見て、指先で毛並みを撫でる。
「こちらは銀貨三枚ですねぇ」
「はい、お願いします!」
次の袋を受け取る。
その列の中に、朝の青年がいた。
「こ、これ、お願いします!」
差し出された袋から、魔兎の毛皮が出てくる。
鞠凪はそれを広げた。
耳の付け根に小さな傷。
けれど、毛並みは綺麗に残っている。
「……おお」
鞠凪が、少しだけ声を弾ませた。
「初めてなのに、上手に狩れてますねぇ」
「ほ、本当ですか!?」
青年の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
「うん。ちゃんと素材も傷つけないようにしてるねぇ」
鞠凪は毛皮を畳み、査定額を告げた。
青年が頷く。
鞠凪は硬貨を数えながら、ふと顔を上げた。
「怪我はなかったぁ?」
「えっ」
「朝、無事に帰ってきてねぇって言ったから」
青年は、口を開いたまま固まった。
それから、慌てて首を振る。
「だ、大丈夫です! 少し擦りむいただけで!」
「そっかぁ。よかったねぇ」
鞠凪は硬貨を一枚足し、青年の手元へ滑らせた。
「じゃあ、これも」
「……え?」
「無事に帰ってきたお祝い。ちょっとだけねぇ」
そして、唇の前に人差し指を立てた。
「ないしょ……ですよぉ」
青年の顔が、一気に赤くなった。
「…………っ」
「どうしたのぉ?」
「い、いえっ! ありがとうございます!!」
硬貨を握りしめ、深々と頭を下げる。
そのまま、逃げるようにカウンターを離れていった。
少し離れた受付から、エレナがじっと見ていた。
「……鞠凪さん」
「ん〜?」
「いえ。何でもありません」
エレナは書類を一枚、机に置いた。
「本当に、この人……」
最後の言葉は、ため息に消えた。
───
それから数日。
「次の方〜、どうぞ〜」
「はい!」
朝の受付に、青年の姿があった。
依頼書を差し出す。
鞠凪が目を通し、判を押した。
「気をつけてねぇ。行ってらっしゃい」
「はい! 行ってきます!」
青年は嬉しそうに笑い、ギルドを出ていく。
翌日も。
その次の日も。
朝になると、青年は依頼書を持ってやってきた。
「行ってらっしゃい」
「はい!」
鞠凪はいつも通り。
青年は、そのたびに少しだけ背筋を伸ばした。
そして、ある日の昼。
───
「お母さん、こっちも食べてみてぇ」
夜叉がフォークに刺した料理を差し出した。
鞠凪は身を乗り出して、ぱくり。
「ん〜……おいしいねぇ」
「でしょぉ?」
夜叉が嬉しそうに笑う。
二人の皿には、まだ料理が残っていた。
そのとき。
「鞠凪さん!!」
聞き覚えのある声が、食堂に響いた。
鞠凪が顔を上げる。
夜叉もフォークを止めた。
通路の向こうから、青年が歩いてくる。
その後ろでは、仲間二人が落ち着かない様子で立ち止まっていた。
「ん〜? どうしたのぉ?」
鞠凪が首を傾げる。
青年は目の前まで来ると、拳をぎゅっと握った。
「……俺!」
声が裏返る。
一度、喉を鳴らした。
「俺、鞠凪さんのことが好きです!」
夜叉の手が止まった。
青年は深く頭を下げた。
「初めて会ったときから、ずっと! よかったら、俺と……!」
差し出した手が、わずかに震えていた。
鞠凪は、その手を見た。
それから、青年の顔を見る。
「……そっかぁ」
ほんの少しだけ、目を伏せた。
「ありがとうねぇ」
青年の指先が動いた。
鞠凪は困ったように笑う。
「嬉しいよぉ。けどねぇ……」
一度、言葉を切った。
「私には、大切な人がいるからねぇ」
青年は、じっと鞠凪を見つめていた。
やがて。
差し出していた手を、ゆっくりと下ろす。
「……そう、ですよね」
声が少し掠れた。
それでも、顔を上げる。
「聞いてくれて、ありがとうございました!」
深く頭を下げた。
鞠凪も、小さく頭を下げる。
「こちらこそ、ありがとうねぇ」
青年は仲間のもとへ戻っていった。
二人の仲間が何かを言いながら、その肩を叩く。
三人は、食堂の出口へと歩いていった。
夜叉は、しばらくその背中を見送っていた。
それから。
「……お母さん」
鞠凪の手元へ視線を落とす。
フォークは、皿の端に置かれたままだった。
「大丈夫?」
鞠凪は瞬きをした。
「……うん」
いつもの声だった。
けれど、すぐには料理へ手を伸ばさなかった。
夜叉は、そっと手を伸ばした。
鞠凪の手に、自分の手を重ねる。
「お母さん。私、ここにいるからねぇ」
鞠凪の指が、ぴくりと動いた。
「……ありがとうねぇ」
その手を、きゅっと握り返す。
夜叉は、何も聞かなかった。
ただ、隣に座っていた。
───
夜。
窓の外では、王都の灯りが。
ぽつ。
ぽつと。
消えていく。
鞠凪は窓辺に立ち、夜空を見上げていた。
さらり。
黒い髪が肩から滑り落ちる。
しばらくして、鞠凪は小さく息を吐いた。
「……スバル」
呼んでみても、返事はない。
分かっていたことだった。
それでも。
窓枠に置いた指が。
そっと小さくなる。
「……会いたいよぉ」
声が、かすかに震えた。
鞠凪は目を閉じた。
しばらく、そのまま。
やがて、静かに部屋の灯りを消した。
暗闇の中に、月明かりだけが残っていた。




