オイルタンカー 第九話 マラッカ海峡
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来た道を逆にたどるように、オイルタンカーは、南シナ海を航行していく。
メイリンたちはどうやら、自分たちの計画の遂行にかかりっきりで、真壁の動向を気にしている余裕はないようだった。
海賊たちも、真壁が所持していた金目のモノを。財布や身分証や携帯電話を奪うと。真壁に対して興味を失い、彼を放ったらかしにする。
真壁は。奪われては困る衛星電話と充電器だけは、ビニール袋に入れて防水して腿の内側に粘着テープでとめて見付からないように隠しておいた。
海賊たちは、船内にある奪えるものを、すべて奪い取ると、自分たちの戦利品にした。
真壁が寝ているベッドのシーツも剥ぎ取られて。固定されて動かせないベッドだけが残される。真壁はむきだしのベッドに寝転がって、部屋で過ごすことにする。
海賊たちはご満悦なのだろう。近くの大部屋に集まって大声で話し合っている。
海賊たちの笑い声が、真壁のいる部屋まで伝わってくる。真壁は海賊たちのお喋りを遠くにききながら、考えごとにふける。
真壁は。ブリッジにいるメイリンたちがマラッカ海峡を目指す理由について、考えをめぐらせる。
なぜ乗っ取ったタンカーで、マラッカ海峡に行くのか。理由はいくつか思いついた。
ただの愉快犯なら、そうしたかった、という理由だけで、大がかりな乗っ取り計画を実行するかも知れない。だがメイリンたちは、そうではない。
メイリンたちに資金や武器を提供したり、人員を世話しているスポンサーがいるはずだ。そうなるとメイリンたちはスポンサーの利益のためにこんなことをやっているわけで、愉快犯の可能性はなくなる。
そのスポンサーの正体は、真壁にも想像が付いた。だがそうなると、やはりメイリンたちが乗っ取ったタンカーでマラッカ海峡に向かうわけが、スポンサーの利益にどう結びつくのか、見当がつかない。
真壁は、ますますワケがわからなくなってしまい、ベッドに寝転がったままでため息をつく。
誤情報をあたえて解放した人質たちが効果あったのか、それはわからないが。
メイリンたちが操船するオイルタンカーは、マラッカ海峡へと、警察に追われることもなく、向かうことができた。
マラッカ海峡は。東はマレー半島南端のシンガポール海峡から、西はタイとマレーシアの国境付近にまで延々と続く。南シナ海とインド洋とのあいだの通り道をいう。
長さにして約9百キロもある、海峡という、海の決められた通り道なのだ。
マラッカ海峡は、それ単独と、南東部で長さが百キロあまりのシンガポール海峡とで接続をしている。
だから船がここを通るならば、マラッカ海峡、シンガポール海峡の、両方の海峡を通らねばならない。
海峡と言うくらいなのだから、向こう岸が見える、大きな河のような場所を。タンカーやコンテナ船といった巨大船から、漁船のような小型船までが。白線が引かれた舗装道路の上を進むように、整然と航行している光景を思い描くかも知れない。
だが現地の写真を見てわかるのは、この海峡が想像よりもずっと大きくて、対岸なんて見えないくらいに広いことだ。
それなのに、ここを航行する大型船は。なぜかその海峡の中央あたりを。まるで海上に描かれた線でもたどるように、列をつくって進んでいる。
じつはシンガポール海峡と、マラッカ海峡では、大型船が行き来する航路と航路幅が決まっているのだ。
大型船は定められたコースと、その範囲内を、移動しなければならない。
それ以外の場所を行こうとすると、(好き勝手に海路上を行こうとすると)浅瀬に乗り上げたり、ヘタをすると座礁する危険がある。
海峡上には、この範囲を航行しろ。この先には行くな。そう船舶側に指示するための灯台や、一般航路標識、航路ブイが設置されている。
この航路ブイだが、海峡内での強い潮流によってよく流されて紛失することが多かった。そこで1999年に我が国の協力のもとに、ほとんどのブイが灯浮標におきかえられている。
この、シンガポール海峡とマラッカ海峡とを、端的に数字であらわすと、次のようになる。
海峡の幅は、70キロメートルから250キロメートルで。平均水深は、約25メートルになる。
そのうちで、大型船が航行可能な航行区域幅は、わずか2、8キロメートルしかない。
この2、8キロの狭い海域を、毎日たくさんのタンカーやコンテナ船が行き来しているのだ。
(海峡全体でいえば、年間で7万隻から9万隻が。一日あたりでは、二百隻以上の船が、通過していく計算となる)
二つの海域のなかでも特に危険なのが、ワンファザムバンク、メインストレートおよびフィリップ水道、ホースバー灯台沖、あたりになる。
なかでもシンガポール海峡からワンファザムバンクまでの4百キロのあいだは、とくに狭くなっている上に浅瀬が続く、船には難所になる。
シンガポール海峡のバッファローロックまでは、深喫水船、つまりは喫水15メートル以上の船(タンカーやコンテナなどの大型船)は、指定された深喫水航路を通行することが定められている。
またバッファローロックからバツベラハンティまでは、特定の航路の航行を勧告される。
緊急時を除いて、そのほかの船舶は。深喫水航路には侵入しないこと、となっている。
わかりにくいので簡単にいうと。海峡をデカイ船が通るときは、このコースの範囲以外は使うな。
ここは大型船専用だから小型船は使うな。そう定められているのである。
この海の重要な通り道となる二つの海峡は、自然にできた海路であるために。
潮の満ち引き、海底の砂州や砂泥地形の変化、サンドウェーブ、スコールや風など、さまざまな問題が生じて。それが船の航行にダイレクトに影響してくる。
そうなのだ。海峡上にたちふさがる多数の島という障害物、サンゴ礁や浅瀬という難関、潮の満ち引きなどの自然条件のもとで。船は決められた海上のコース上を行かなければならないのだ。
そう考えると。ここを通り抜けるのは、大型船にとってなにかのバツゲームなんじゃないか、とさえ思えてくる。
だがほかに最短コースはない。
遠回りすれば、日数と燃料がよけいにかかる。
だから、ここを通り抜けるしかないのだ。
マラッカ海峡は。インド洋と太平洋とを結びつける、重要な海上交通上のかなめとなる。
マラッカ海峡を通過する船舶の総量は、全世界の貿易量の4分の1、世界の石油供給量の3分の1にもあたる。
そして、そのなかには、我が国へと送り届けられる原油の八割以上がふくまれている。
この海の難所を通り抜ける船の数は減るどころか増加する一方である。
2030年には、海峡の許容量を超える輸送量が必要になる、とさえ試算されている。