1【郷衿署刑事課 警察官】
稲垣真一は困惑していた。
灯籠ヶ丘の山道脇から茂みに入り、斜面を数メートル登ったブナの生い茂る山中。死体発見現場より少し離れた緩やかな傾斜地で、携帯端末を耳にあてて、通話相手が発する言葉を待っていた。
現場に到着したのは三〇分前である。
事件の知らせを受けた稲垣は、制服警察官と変わらぬ早さで現場に到着した。
殺害方法や犯行の手口から、【半年前に、郷衿山麓の高老ノ森で発見された複数の変死体の遺棄事件と同一犯による可能性が高い】との一報を入れた稲垣は、鑑識係官が到着するのを待ち――待とうとした矢先に、けたたましいブレーキ音と共に登場した〝白衣を身に纏った数名の人物〟と〝警視庁本部の者たち〟に恫喝されて、なぜか現場を追いだされてしまった。
「……くそッ。なんなんだよ」ぬかるんだ足元を睨みつけ、靴底についた泥を木の根で擦り落としながら愚痴る。「なんなんだ、いつまで待たせるんだ」
「――稲垣か」
「えッ?」名前を呼ばれて、慌てて顔をあげた。
「おいおい。そんなに驚くなよ」
「す、すみません。葛西さんですか」上着のポケットへ携帯端末をしまい、うなじを掻きつつ稲垣は苦笑した。
背後から呼びかけてきた人物は、待ち望んでいた電話の相手ではなく、同じ郷衿署刑事課に属する男、葛西だった。
「やけに早い到着だな」
「えぇ、まぁ。近くにいたものですから」
「電話は? いいのか? 話している途中だったんだろ」
「大丈夫です。課長に質問していたのですが、要領を得なくって」
「課長? なにか拙いことでもあったか」
「拙いというより、わけがわからないといいますか……見て下さい」
稲垣は林の一角を指差した。
ブルーシートが遺棄現場を囲むようにはりめぐらされていて、横幅は約一〇メートル。高さは二メートルを超えている。
「本庁の連中が囲ったのか」
「あ、はい。五分もかからずに現場を覆って……え? 知っていたんですか、本庁のこと」
「山道にいた地域課のイトウから聞いたよ。管理官もきているそうだな」
「えぇ。外村警視がきています。どういうわけか、到着するなり現場を覆いはじめたんです、本庁の連中が」
「外村警視か。最近、あまり評判がよくないみたいだな……親バカで有名だった頃が懐かしいよ」
「え? 外村警視が、ですか?」
「以前は、娘さんの写真をみんなに見せ回って、デレデレだったんだ。それより、もう帳場が立ったのか」
「まさか。課長も首を傾げていました。普通じゃありませんよ、こんなやりかた」
稲垣の言う通り、事件現場で最上位に立つ鑑識の到着を待たずして現場へと足を踏み入れるのは、許されぬ行為である。
「中の様子は?」
「高老ノ森の遺棄現場と似ています。今回、遺棄されていたのは一体のみですが」
「遺体はまだ温かかったらしいな」
「はい。どこでその情報を?」
「イトウからだ。それにしてもシート設置の意図がわからないな。目隠しが必要な場所でもないのに」
「ですよね。見られては拙い不法捜査をやってるから……とは思いませんけど、部外者と思しき人物と一緒に中へ入って行ったものですから——」
「部外者? 誰だ。まさか白ウサギなんていわないよな?」
「え? なんです?」
「名探偵、白ウサギだよ。如何なる謎であろうとも、たちどころに解明してしまう名探偵が実在しているそうじゃないか」
「は、はぁ? なんですかそれ」
「盗犯係の天願さんが、よく話してただろ。伊佐区で連続した窃盗事件の捜査に、謎の探偵が加わっていたって話を。そいつは事件の概要を聞いただけで、真相をいい当てることが可能なんだとよ」
「や、勘弁して下さいよ。ははは。漫画や小説のキャラクターじゃあるまいし」
「まぁ、な。胡散臭い話だよな」含み笑いを浮かべて稲垣を嘲るような態度をみせると、葛西は背中を向けて歩きはじめた。
「え、ちょっと。ちょっと待って下さい、葛西さん。現場は本庁が仕切っていますので――」
稲垣の呼びかけを無視し、葛西はシートで覆われた遺棄現場へと歩を進める。
現場が近づく毎に風を受けてはためくシートの音量が増す。気の所為か、薬品のような臭いが鼻腔を刺激した。
ややあって聞き覚えのある怒号が響いた。
声の主は、本庁の管理官、外村警視であるとすぐにわかった。
遺棄現場の覆いは二重構造になっていて、屋外で使用される大型テントの外側を包むようにブルーシートが巻かれていた。
接近するまでテントの存在に気づけなかったのは、天幕よりも高くシートが貼られていた所為だった。
葛西はシートの繋ぎ目部分に手をかけると、躊躇せず、それでいて慎重に、ゆっくりとめくった。
側面に取りつけられた仕切り幕の中へ顔を入れる。
すると、おぼろげな空間が目の前に広がった。
ピントをあわせようと努力して瞬きを繰り返し、繰り返している最中に、
「なんだ……」
視界にあるすべてのアウトラインがぼやけていた原因は、眼前に薄い仕切り幕が垂れ下がっていた所為だった。首を傾げつつ、葛西は仕切り幕に手をかける。幕をめくるなり、
「――!」
目が合った。見知らぬ女性と。
真っ赤に染まった医療用手袋をはめた白衣姿の女性が、驚いた顔をして立っていた。




