第一幕 演劇部、3年目
舞風学園女子高等学校は、開校三年目を迎えた。
本宮ひのり、伊勢七海、小塚紗里、城名みこ、宝唯香、アリス・ジョンソン。
三年生になった6人は、「最後の一年」に立っている。
一方、早乙女りんか、白石音羽、成川まひるは二年生になった。
舞台の中心に立てるようになったが、まだ終わらせる側ではない。
演劇部は、何を残すのか。
その問いは、もう先延ばしにできなかった。
⸻
多目的室。
春の午後。机の配置は同じだが、空気は違う。
「……改めて言うとさ」
ひのりが最初に口を開く。
「私たち、今年で卒業なんだよね」
短い沈黙の空気となる。
「一年目は」
ひのりは指を折る。
「校内で劇をやって、部を作るので精一杯だった」
「二年目は」
七海が続ける。
「外に出た。大会に出て、評価された」
「で」
紗里が肩をすくめる。
「三年目は?」
答えはすぐに出ない。
「……正直」
紗里が言う。
「もう一回大会、って気分でもないし」
「かといって、何もしないのも嫌」
「“次に進む”って言葉」
七海が静かに言う。
「三年生が使うと、急に重くなるんだよね」
みこが頷く。
「……残す、ってことだよね」
「そう」
七海は視線を返す。
「何をやったか、じゃなくて」
「何が残るか」
唯香が腕を組む。
「舞台そのものは、残らないわ」
「映像も記録も、全部“痕跡”でしかない」
「でも」
みこは迷わない。
「……やった人には、残ります」
静かな間。
「……私は」
アリスが口を開く。
「卒業まで、ここにいられるか」
「まだ、分かりません」
空気がわずかに揺れる。
「留学の期間も、状況も」
「全部、確定じゃないから」
淡々と続ける。
「だから」
「“残す”って言葉は」
「少し、羨ましいです」
ひのりがアリスを見る。
「でも」
アリスは言う。
「もし、途中まででも」
「舞風にいられるなら」
息を吸う。
「私は」
「ちゃんと、そこにいたって言える時間を」
「作りたい」
みこが静かに返す。
「……それも、残ります」
アリスは目を瞬かせ、微笑む。
「……ありがとう」
ひのりが笑う。
「みこちゃん、ほんと核心突くよね」
⸻
「じゃあさ!」
りんかが身を乗り出す。
「今年は、全部盛りでやればよくない?」
「舞台も、映画も、ミュージカルも!」
「……勢いだけで言ってない?」
音羽が返す。
「でも、やりたいのは本当でしょ」
「……私は」
まひるが手を挙げる。
「先輩たちが、何を選ぶのか」
「ちゃんと見ておきたいです」
二年生の視線が三年生に集まる。
⸻
ノック。
「入るわね」
音屋亜希先生だった。その隣に見慣れない若い女性。
「まず、大事な話から」
「今年、私は進路指導を優先することになるわ」
「顧問として、去年みたいに深く関わるのは難しい」
空気が引き締まる。
「完全に放任、ってわけじゃない」
「サポートはする。でも、判断は基本あなたたち」
ひのりが頷く。
「……三年目ですもんね」
「そう」
「逃げ場は、もう用意しない」
隣の女性が前に出る。
「あ、えっと! はじめまして!」
「今年から舞風学園に来ました、演劇部の副顧問をさせていただきます晴山夏美です!」
「担当は国語で、演劇は――」
間。
「――全くの未経験です!!」
一同は沈黙する。
「でも!」
「観るのは好きですし!」
「文化祭の舞台とか!」
「なんならドラマも好きで!」
「……不安しかないんだけど」
りんかが囁く。
「でも副顧問なので!」
「皆さんと一緒に!」
「ゼロからでもマイナスワンからでも!」
「頑張りたいと思いまーす!!」
「つまり私は!」
「演劇部の“自由枠”ってことで!」
ピシッ。
音屋先生が机を叩く。
「晴山先生」
音屋先生の声が落ちる。
「それでも、先生ですか?」
空気が凍る。
「“自由枠”?
ここは部活動よ。見学サークルじゃない」
晴山先生は背筋を伸ばす。
「……すみません」
「副顧問として、責任持って関わります」
沈黙。
「……まあ」
「好奇心があるのは、悪くないわ」
そして即座に。
「“分からない”を免罪符にはしないこと」
「は、はい!」
ひのりが笑う。
「……なんか」
「今年、いろいろ起きそうかな」
七海が頷く。
「顧問はサポート中心」
「副顧問は未経験」
「新入生は、まだ不明」
「条件、揃いすぎじゃない?」
ひのりが全員を見る。
「でも」
「だからこそ、だと思う」
「今年は」
「“何をやるか”より」
「“どう終わるか”」
音屋先生が静かに言う。
「……その言葉が出たなら」
「もう、三年生ね」
春の光が差し込む。
三年目の物語が、動き始めた。
数日後の放課後。
校舎の廊下は、体験入部のポスターで埋まっていた。
その中を、ひとりの一年生がゆっくり歩いている。
波島綾音。
制服の上に黒いパーカー。
袖は少し長めで、指先が半分隠れている。
髪は肩にかかるくらい。
前髪の奥から、周囲をうかがう目。
目立たないようにしているのに、どこか“物語の中にいそう”な雰囲気を持っている。
好きなのは漫画とアニメとゲーム。
誰かの物語を追いかけるのは得意。
でも、自分がその中に入るのは苦手。
体育館の前で足を止める。
バスケ部の掛け声。
ボールの音。
明るい笑い声。
「体験どう? 楽しいよ!」
声をかけられる。
「……ちょっと、考えてみます」
小さく笑って、そのまま離れる。
音楽室の前。
軽音部の演奏が廊下まで響く。
かっこいい、と思う。
でも扉は開けない。
ダンス部の前では、ポスターの笑顔がまぶしくて、視線を逸らす。
(私には、無理)
どの部活も、楽しそうだ。
どの輪の中にも、入れる気がしない。
パンフレットを開く。
その中に、演劇部のページ。
「ミュージカル挑戦!」
「大会出場!」
写真の中の先輩たちは、別人のように輝いている。
(有名なんだよね、ここ)
少しだけ胸がざわつく。
演じるって、どんな感じなんだろう。
でも同時に思う。
(私なんかが、入っていい場所じゃない)
黒いパーカーの袖をぎゅっと握る。
それでも足は、多目的室の前まで来ていた。
中から笑い声が聞こえる。
はっきりとした声。
迷いのない声。
一歩、下がる。
(やっぱり、やめよ……)
その瞬間。
「……あれ?」
やわらかい声が、廊下に届いた。
綾音は、顔を上げた。
そこに立っていたのは――
髪を肩まで伸ばした本宮ひのりだった。
「体験、かな?」
押しつける感じはない。
ただ、普通に話しかけただけの声。
綾音の喉が、きゅっと詰まる。
「……ち、違くて……あの……」
「うん」
ひのりは急かさない。
「今、体験期間だよ」
一歩近づく。でも距離は詰めすぎない。
「入部って決めてなくても、全然いいから」
その言葉に、綾音の目が少しだけ揺れる。
(決めなくて、いい……?)
「名前、聞いてもいい?」
「……1年B組、波島……綾音です」
消えそうな声。
「綾音ちゃん」
ひのりは、その名前をそのまま口にする。
変にいじらない。
変に持ち上げない。
ただ、そのまま。
「中、見ていく?」
断られても平気そうな顔。
でも、本気で歓迎している顔。
綾音は視線を落とす。
(入ったら、期待されるかも)
(できなかったら、どうしよう)
袖の中で指を握る。
中から声が飛んでくる。
「ひのり先輩ー? 誰か来ました?」
りんかの声。
「うん。体験の子」
ひのりは振り返らず、綾音を見たまま言う。
そして、少しだけ声を落とす。
「無理しなくていい」
一拍。
「でも、“ちょっとだけ”なら、怖くないよ」
その言葉が、綾音の胸に落ちる。
ちょっとだけ。
全部じゃない。
決意じゃない。
未来でもない。
ちょっとだけ。
綾音は、ほんのわずかに頷いた。
「……見学、だけ……」
「うん」
ひのりは自然に扉を開ける。
「ようこそ」
綾音は、一歩踏み出した。
その一歩は小さい。
でも、自分で選んだ一歩だった。
多目的室に入った瞬間、綾音は少しだけ肩をすくめた。
思ったより広い。
思ったより、明るい。
「体験の子?」
誰かが声を上げる。
「うん。波島綾音ちゃん」
ひのりが自然に紹介する。
視線が集まる。
でも、品定めじゃない。
ただ、興味。
「……よろしく、お願いします」
声は小さい。
「見学、だけで……」
「全然いいよー」
明るい声が飛ぶ。
「まずは見るとこからだよね」
別の声。
「気楽にね」
柔らかい声。
綾音は、ひのり以外の顔と名前が一致しない。
でも。
不思議と怖くない。
「じゃ、いつものやろっか」
円になって、ストレッチが始まる。
体を伸ばす。
肩を回す。
笑い声。
「はい、発声いきまーす」
「あ・え・い・う・え・お・あ・お!」
揃った声が、部屋を震わせる。
綾音は端の椅子に座る。
(すご……)
声が、ちゃんと届く。
「綾音ちゃんも、座ったままでいいから一緒にやってみる?」
ひのりが振り返る。
「え、あ……」
「声出すだけだよ」
別の先輩が笑う。
「失敗しても誰も覚えてないから大丈夫」
くすっと笑いが起きる。
綾音は戸惑いながらも、小さく口を開く。
「あ……え……」
声が、ほとんど出ない。
「いいよいいよ」
「最初そんなもん」
「ちゃんと声、出そうとしてる」
次々に、軽いフォローが入る。
押してこない。
でも、ちゃんと見ている。
(……優しい)
誰が誰かは分からない。
でも分かる。
この人たちは、怖い先輩じゃない。
「ちょっとだけ、前来てみる?」
ひのりが言う。
綾音は一瞬固まる。
「無理なら、やめよ」
すぐ逃げ道が出される。
「……ちょっとだけ」
気づけば、立っていた。
円の中。
さっきより近くにいる先輩たち。
「ほら、もう一回」
「あ・え・い・う・え・お」
今度は、少しだけ声が出た。
「お、さっきより出てる」
「ちゃんと響いてるよ」
笑顔。
からかいじゃない。
認める笑顔。
綾音の胸の奥で、小さく何かがほどける。
まだ、見学のつもり。
でも。
(ここ、悪くないかも)
名前は分からない。
役割も分からない。
けれど。
優しい先輩たちだ、ということだけは、はっきり分かった。
円の中に立ったまま、綾音は手を握りしめる。
「……もう十分です」
小さな声。
「見学だけで……」
ひのりは首をかしげる。
「うーん。でもさ」
一歩、近づく。
「演劇ってそんな大げさなもんじゃないよ?」
綾音が顔を上げる。
「子どもの頃、やらなかった?」
「おままごととか、魔法使いごっことか」
少し笑う。
「“本気で”やってたでしょ」
綾音の記憶に、ぼんやりとした風景がよぎる。
「その延長だよ」
「ごっこ遊び、ちょっと本気でやるだけ」
力が、抜ける。
その横から、落ち着いた声。
「演じるってね」
唯香だった。
「自分とは違う誰かになれること」
視線はまっすぐ。
「年齢も、性格も、立場も」
「現実じゃなれないものに、なれる」
一拍。
「でもね」
「逃げるためじゃないの」
静かに続ける。
「“違う誰か”を通して、自分を見ることもできる」
綾音は、言葉を飲み込む。
七海が、自然に継ぐ。
「演劇って」
「自分の知らなかった面が出てくることあるよ」
声は穏やか。
「怖いと思ってたのに、案外平気だったり」
「無理だと思ってたのに、案外できたり」
視線が合う。
「きっかけには、なる」
綾音の胸が、少しだけ揺れる。
ひのりが、にっと笑う。
「だからさ」
「難しく考えなくていい」
両手を軽く広げる。
「“演劇部に入るか迷ってる子役”やってみよ?」
「え……」
「今の綾音ちゃん、そのまんまでいい」
逃げ道は、ないわけじゃない。
でも。
押されてもいない。
ただ、背中にそっと手を置かれている感覚。
「……少しだけ」
小さく、言葉が落ちる。
ひのりが頷く。
「それで十分」
多目的室の空気は、変わらない。
優しいまま。
けれど綾音の中では、確実に何かが動き始めていた。
綾音は、台本の切れ端を持ったまま立っている。
「演劇部に入るか迷ってる子の役」
七海の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
「……」
喉が乾く。
ひのりが、軽く笑う。
「大丈夫。間違えても誰も減点しないから」
その一言で、少しだけ呼吸が戻る。
綾音は、ゆっくり口を開いた。
「……私」
最初は、小さい。
「人前で話すの、苦手で」
視線は床。
「目立つのも、あんまり好きじゃなくて」
声が震える。
でも、止まらない。
「だから、こういう部活は……」
「正直、向いてないって思ってました」
“役”のはずなのに、言葉が妙に自然に出てくる。
七海は何も言わない。
ただ、じっと聞いている。
唯香の視線も、逃げない。
綾音は、少しだけ顔を上げた。
「でも」
その“でも”は、さっきよりはっきりしていた。
「さっき、声出したとき」
少しだけ息を吸う。
「……ちょっとだけ、楽しかったです」
自分でも驚く。
言ってしまった、と思う。
ひのりが、目を細める。
「うん」
それだけ。
否定も、誇張もない。
綾音は続ける。
「自分の声なのに」
「いつもより、ちゃんと出てる感じがして」
胸の奥が、少しだけ熱い。
「私、ずっと」
「どうせ無理だって思う前に、やめてきたから」
指先の力が抜ける。
「でも」
「今日は……逃げなかった」
一瞬、静寂。
多目的室の空気が、やわらかく包む。
七海が、静かに言う。
「今の、もう役じゃないね」
綾音が、はっとする。
確かに。
途中から、台本なんて見ていない。
唯香が、少しだけ微笑む。
「それが、演じるってこと」
ひのりが一歩前に出る。
「ごっこ遊びってさ」
いたずらっぽい顔。
「最初は“ふり”なのに」
「いつの間にか本気になってるでしょ?」
綾音の唇が、ほんの少し緩む。
「……ありました」
小さく笑う。
「ゲームの主人公の役、実はやってました」
「でしょ!」
ひのりが嬉しそうに言う。
その笑顔を見て、
綾音の胸の中の“怖さ”が、少しだけ薄くなる。
深呼吸。
そして。
今度は、自分の言葉で。
「……私」
視線を上げる。
ちゃんと、全員を見る。
「自分に自信は、まだないです」
正直な声。
「でも」
「今日みたいに、少しずつなら」
一歩、前に出る。
「変われるかもしれないって、思いました」
震えている。
でも、逃げていない。
「……入ります」
小さな間。
そして、はっきりと。
「私、自分に自信なかったけど」
「演劇部への入部を、決心します」
言った瞬間。
胸の奥が、どくんと鳴る。
ひのりが、やわらかく笑う。
「ようこそ、綾音ちゃん」
拍手はない。
大げさな歓声もない。
ただ、そこにある温かい視線。
綾音は、まだ強くない。
でも。
今、自分の足で立っている。
それだけは、確かだった。
続く。




