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聖家族  作者: 門戸明子
12/32

山崎秀一の話(上)


――歪んだネジが、頭の中に無理やり押し込まれたみたいだ。


 何度も頭を振ったが、その不快さは一向に遠ざかってくれない。

 埃をかぶった綿のような、まだらな雲間からわずかに漏れる日差し。それすら寝不足の網膜には強すぎて、たびたびまぶたを閉じなくてはならなかった。

 明け方に2時間くらい横になったけど、結局眠れなかったから。


 もう……このまま気が狂ってしまったほうがいいのかもしれない。

それで、この苦しみから逃れられるのなら。


 ふぅう、と大きく息を吐いて、僕は黒い革鞄の持ち手を握りしめた。

 朝、通勤時間帯の新宿駅は殺人的な混雑ぶりだ。いつもならうんざりするその人の群れも、こういう最悪な気分の朝は逆に助かる。余計なことを考えなくても、機械的に足を前 に出し、移動すればいい。

 僕は奔流に運ばれる小魚になった気分で、地下道を都庁方面へと流されていった。


 よく言えば個性的、悪く言えば棚に放置された売れ残りのおもちゃのように統一性がない西新宿の高層ビル群。その中のひとつ、新宿ニュータワービルの38階で、僕は働いている。

 今日も、心臓に送り込まれる鉛色の血液のごとく、ガラス張りのエレベーターで上階へ押し上げられていく。

 みるみる遠ざかる新宿の街並みは頼りなく、蜃気楼みたいに揺れて見えた。飛び降り自殺する前に覗き込む下界は、こんな眺めなのかもしれない、なんて物騒な考えがよぎった。

 幸いなことに、さほど逡巡する時間は与えられず、あっという間にエレベーターは38階へと到着した。


 YKDという金色のロゴが刻まれた受付を通り抜けると、ワンフロアをぶち抜いた見晴らしのいいオフィスゾーンが広がる。僕は営業部の自分の席にたどり着くと、椅子に沈み込んだ。

 手は無意識に鞄に伸び、それを自分に引き寄せて抱きしめる。それが、世界でたった一つ残された確かなモノ、とでもいうように。


「……ん?」


 ここ数日の沈み切った気分のせいなのか、僕が何か変だと気づいたのは数分後だった。「それ」は、背中の産毛がゾワリと逆立つような……奇妙な違和感だった。

 なんだ?

 ほんの少し顔をあげ、低めのパーテーション越しに辺りを見回し……。ようやくその正体に気づく。


 ……見られてる?


 そうだ、見られてるんだ。再びゆっくり視線をあげると……思った通り、社内にあったいくつかの視線がパッと離れた。

 もの問いたげな、好奇に満ちた眼差し。

 まさか……まさか、とうとうバレた……? 途端に心臓がフリーザーに放り込まれたような冷たい恐怖に襲われ、全身が鳥肌だつ。僕は、膝の上の黒鞄にせわしく触れ、なんとか平常心を取り戻そうとした。

 覚悟はしてたんだ、いつかこんな日がくると。でもやっぱり、いざその時が来てみると……。


「山崎さーん! おはようございますっ」


 唐突に甘ったるい声が降ってきた。その主は……総務の加藤さんだ。カラフルすぎるコーディネートのせいで、申し訳ないが顔の印象がまるで残らない女性だった。今日は紅鮭のようなピンク……目が痛い。

 やっとのことで笑顔を向け、「おはよう」と返した。

 すると、加藤さんは胸に抱いていたものをぐいっと突き出した。それは女性モデルがアップになった分厚いファッション誌で、表紙には「ヴィラ」と印刷されている。


「さっそく買っちゃいましたよぅ!」


「……え?」


 一瞬状況がつかめなくて、ぽかんと加藤さんを見上げた。


「あれ、山崎さんまだ見てないんですか? 昨日、見本誌届いてましたよね?」


 見本誌……そう言われて、ようやく彼女が何のことを言っているのかつかめた。


「あ……あぁ、ありがとう、今日発売だったっけ?」


 機械的に手を伸ばして雑誌を受け取り、付箋がつけられたページを開く。

 広げたとたん、思わず「うわ」と声がもれた。1枚写真を全面に使ったページ、デスクから顔をあげた男が、俯瞰めのアップで写っている。……僕だ。そして、写真にかぶせるように「イケメンinオフィス」とゴシック体のタイトルが横切っている。

 身近なイケメンを紹介する、という女性誌の企画で、付き合いのある編集者からごり押しで頼まれた取材だったんだけど……。なんてことだ。特集の扉ページじゃないか! 


「隣のビルの日光商事さんとことかも載ってますけど、やっぱり山崎さんが一番カッコイイですよぉ。キャッ私ったら本人前にして……やだぁ! 何言ってんだろ!」


 両手で顔を隠しながら、きゃあきゃあと叫んでいる。


「はは……ありがとう」


 とにかく、「バレた」わけではなさそうだ。僕はこっそり体中の力を抜いた。




「見ましたよ~すっごいいいですね! 友達にも自慢しちゃいました」


「よ、イケメン! やるなあ」


「芸能界入りするんだって? サインもらっとこうかな」


 広告代理店という業界のせいなのか、単なる社風なのか、うちは社員同士割と仲がよくて、部署や肩書の上下にかかわらず、気軽に声をかけあえる雰囲気がある。

 でもそれも良し悪しだ。

 広報あたりが宣伝しまくったのか、同僚やら上司やら、社内中に冷やかされて、いい加減うんざりしていた。


 僕は引き出しに放り込んだままにしてあった自分用の見本誌を開いてみた。

 あの編集者、どこが「数合わせ」で「隅の方」に「ちっちゃく」載るだけだから、だって!? 見開き2ページまるまる僕の記事じゃないか! 試し撮りの打ち合わせシーンまで載ってる。

 くそっ絶対抗議してやる、と心に決めて……しかし次の瞬間思い出す。原稿確認のメール、添付ファイルを開くことなく、そのままOKしてしまったのは僕自身だった……。

 あぁ、なんてことだ。

 僕は椅子の背に体重をのせ、苛立ちながらページを繰った。


 でも……。

 さすが大手出版社が雇うカメラマン、腕がいい。白のパーテーションで区切られただけの殺風景な会議室も、観葉植物をバックに配置して(社長室から借りてきたものだけど)おしゃれなオフィスらしく見えている。

 このカメラマン、何て言ったっけ? 確か名刺をもらってたはずだ。今度のオオタフーズのインタビュー記事、頼んでもいいかもしれない。頭の中にインプットする。

 そのままいくつかのメールを処理し、今日の予定を組み立てて。そうしてるうちに、なんとか頭が仕事モードに切り替わり始めた。

 今日は新しいCMの企画ミーティングが2件、午後は雑誌のタイアップ広告の撮影立ち合いがある。とにかく今は仕事に集中しよう……。


 僕は濃いコーヒーを飲むことにして席を立ち、自販機コーナーに近づいた。

 しかしその足はピタッと自動的に止まる。目的地に加藤さんら、総務部の女子3名がたまってたからだ。手にはヴィラ……これはまずい。

 ギリギリのタイミングで観葉植物の陰に隠れてホッと胸をなでおろした。ふう。つかまったらまたうるさいことになるに決まってる。

 そんな僕に気づかず、加藤さんの声が聞こえてきた。


「さっすがうちのエース! そこらの芸能人なんか全っ然相手になんないわよ」


「でもさぁ、この記事で人気が一気に全国区になっちゃったらどうする? 社内だけでも十分競争率高いのにさぁ」


「経理の江口さんも狙ってるって噂よー」


「えぇっマジ!? あの人元ミス青学じゃん。かなうわけないよぉ」


「仕事ができてやさしくて、しかも超イケメン! ほとんど歩くファンタジーだもんねえ」


「家さ、どんなとこ住んでると思う?」


「一人暮らし、だよね?」


「うん、当然。彼女いないって言ってたから」


「恵比寿あたりのタワーマンションとか?」


「うわ、似合う! それっぽい!」


「ワインセラーとかあったりして?」


「ありそうありそう! ワインに合う料理、手作りしちゃったりしそう!」


「そうそう、紀伊国屋あたりでこだわりの食材買ってきてさ」


「いや~ん似合う~!」



 ピシピシ……ピシッ……!



 吐き気がしてきてそれ以上耐えられず、僕はコーヒーをあきらめて雑な足取りで喫煙ルームに飛び込んだ。




 うちのどこにワインセラーがあるって? 一体僕の何を知ってるって言うんだ? くそっと毒づいて白煙を連続して吐き出す。

 その時隅の方から抑えた笑い声が聞こえて、ようやく僕は見知った顔の先客に気づいた。


「新条さん!」


 にやりと笑って新聞から顔をあげたのは、ウェブ企画の新条誠司課長だった。

『NASAもハッキングできる』とか、『在りし日のビルゲイツにヘッドハンティングされた』とか、噂の真偽はともかく、彼のプログラミングの技術が次元の違うレベルであることは、何度か仕事がらみでお世話になった時に素人の僕にもすぐわかった。

 彼のすごいところは、そんな才能をおくびにも出さず、いつも謙虚に徹しているところだ。いやむしろ、時々意図的に隠そうとしているとすら感じる。能ある鷹は、ってやつなんだな、これが。


「あっちでもこっちでも本人そっちのけで言いたい放題で、大変だな」


 まるで頭の中を読まれたみたいだ。思わず苦笑がもれた。


「ほんとですね。みんな、きれいな外側の仮面しか見たがらないんですから」


「そうかな?」


「……え?」


「女子に騒がれて、もしかしたら迷惑なのかもしれないけど、彼女たち、結構よく見てるからな。外ヅラだけのヤツのためにあそこまで騒がないと思うぞ」


「……そう、でしょうか」


 戸惑う僕に、新条さんは「そうさ」とあっさり頷いた。


「メールですまさずにデスクまで確認に来てくれたり、制作側の意見をちゃんとクライアントに伝えてくれたり。うちの部でも、お前の仕事を引き受けたがる奴は多いよ。見てる奴は見てるってこと。素直に喜んどけよ」


 素直に……か。


「はい、ありがとうございます」




 新条さんと話したせいだろうか。ほんの少し気分を持ち直した僕は、それから後の冷やかし攻撃をなんとかやりすごし、午後の撮影にでかけた。

 渋谷駅から六本木方向へ徒歩15分程度、住宅街のど真ん中に今日の撮影が行われるスタジオがあった。

 プレハブ倉庫のようなこの古びた建物の内部が近代的な白ホリスタジオになっているなんて、一般の人は気づかないだろうな。

 僕が中をのぞくと、カメラマンの高林さんをはじめ、すでにスタッフは全員集合。フラッシュが瞬き、モデルをおいてテスト撮影が始まっていた。

 カメラマンの指示が飛び、光と闇が交叉する。ライティングが調節され、モデルの表情はくるくる変わる。まるでイリュージョンのように現れては消える近未来的なこの空間を僕は結構気に入っていた。

 入口に立ったまま見とれていると、高林さんが僕に気づき、手を止めた。


「おお山ちゃん、来たな色男! 見たよ雑誌!」


「ファンレターとか来ちゃうんじゃないですか~?」


 スタイリストの宮本さんがおもしろそうに笑ってる。


「もう勘弁してくださいよ。朝からそればっかりで、うんざりしてるんですから」





 その日の撮影は、すでに半年以上毎月続いているスポーツウェアのシリーズ広告で、クライアントもスタッフも、顔なじみばかり。クライアントの武本さんが到着して撮影が始まってしまえば、代理店マンなんてたいして仕事はない。メンバーがそろっていれば撮影は滞りなく進むものだし、その流れが止まらないよう、見守るだけだ。

 僕は来る途中にヒカリエで購入したマカロンを皿にだした。クライアントに気を遣わなくてもいいように、スタッフ用は別皿にするのがポイントだ。ついでにコーヒーも入れる。武本さんはブラック、高林さんはクリームも砂糖もたっぷり。宮本さんはコーヒーがダメだから、ストレートのダージリンにする。


「さすが山ちゃん、いいお嫁さんになれるよ」


 高林さんの軽口に、どっと笑いが沸いた。うん、今日の撮影もうまくいきそうだ……なんて、気が緩んでたせいかもしれない。


「すみません、遅れました」


 ふいに響いたその声に、僕は予想以上にうろたえた。心臓が途端にバクバクと早鐘を打ち始める。

 その声が、あいつにあまりに似ていたからだ。

 まさか……?

 息を止めてびくびくと振り向いた僕は……しかし似ても似つかない若い背広姿の男を認めて、脱力した。


「あ、紹介します、うちの新人の森川です」


 武本さんが言ってくれて、僕たちは名刺交換をした。


「ああ、あなたが噂の山崎さんですか!」


「え……ウワサ?」


 怪訝な顔をした僕に、武本さんが爆笑した。


「いえね、山崎さんがうちに顔をだすと、女子社員の反応がすごいんですよ。だから男連中の間ではやっかみ半分で噂になってましてね」


「はあ……」


 この場合、一体どう反応すればいいんだ? 曖昧に笑いながら、僕は森川さんの方を見ないように、さりげなく視線をそらした。

 やっぱり……声は似ている。

 武本さんと話すその声を聞きながら、こみあげる吐き気と眩暈に襲われた。


――結局あんたはさ、自分が可愛いんだよな。


 僕を容赦なく糾弾する、あの声……。


 やめろ……やめてくれ!


 たまらず、僕はその場から逃げだした。トイレに駆け込み、胃の中のものを吐き出す。吐いて、吐いて、胃が空っぽになるまで吐き続けた。気が付くと、黒鞄をギュッと胸に抱きしめてうずくまっていた。

 肺にまだ十分な酸素がいきわたらず、荒い息はなかなか収まってくれない。


「山ちゃんどこー? 確認お願いしまーす」


 遠くで高林さんの声が聞こえる。

 やばい……もう行かなくては。

 もう一度黒鞄を握る手に力を込めて、僕はトイレの壁から重たい体を引きはがした。




「お疲れ様でーす」


 幸いクライアントからの注文はさして多くなく、スムーズに撮影は終了した。武本さんと森川さんをスタジオから送り出すと、僕はパイプ椅子にへたりこんだ。

 高林さんがそんな僕を見とがめて寄ってくる。


「顔色よくないぜ。なんか今日、調子よくなかったみたいだけど」


「す……すみません。ちょっと寝不足で」


「おお、昨日の彼女は激しかったのか?」


 僕が答えるより先に、宮本さんが駆け寄ってきた。


「ちょっとちょっと! 何ですかその『昨日の』彼女って!? つまり今日の彼女とか、明日の彼女もいるってこと!?」


「そりゃ毎日とっかえひっかえにきまってるだろ。こんな男前だもん、相手に不自由はしねえよ」


「わお、すごーい! 神様は不公平ですよねえ高林さん」


「おい宮本ぉ、それどういう意味だよ!」


「あはははは」


 ぼんやりと会話を聞きながら、ようやく僕は顔を上げ、にじんだ汗をぬぐった。




 そのまま直帰すると会社に連絡を入れてから、僕は再び新宿に戻った。駅から歌舞伎町へ直行して、一番街にあるカフェに入ると、2階の窓際に陣取る。

 そして、すでに日課となった、長い夜が始まった。

 道行く人たちの顔を、一人一人確認していく。サラリーマン、OL、学生、観光客、外国人……様々な年齢、性別、国籍の人たちが僕の眼下を歩き、そして過ぎていった。しかし、目が痛くなるほど見つめ続けても、その中に「あの男」は見つからなかった。


「ダメか……」


 だいたい、「あの男」が再び歌舞伎町に現れるという保証なんかどこにもないわけだけど……。

 ひどい頭痛と疲労に、仕方なくその日は終電時間で切り上げることにして、山手線に乗りこんだ。




 板橋駅から歩いてすぐ。街並みにどっぷり同化するように建つ築35年の一戸建て。その玄関の鍵を僕は開けた。

 恵比寿のタワーマンション? ワインセラー? 現実なんて、こんなもんさ。

 驚いたことに1階には電気が点いていて、靴を脱いでいた僕の所へドタバタやかましい足音が駆けてきた。


「秀ちゃんおかえりなさーい!」


「環奈、遥、新太郎?」


 甥っ子と姪っ子が勢ぞろい、それはつまり……。その先にある光景に想像がついて、気分が落ち込むのを感じた。でも逃げるわけにもいかない。

 足元にまとわりつく子どもたちをあしらいながら、しぶしぶ食堂へ向かう。

 中をのぞくと、案の定、姉さん2人と母さんが深夜のお茶会中だ。テーブルの上には……なんてことだよ、ここにも「ヴィラ」があるじゃないか。


「秀一、遅かったわね」


「見たわよヴィラ! すっごいおっきく載ったじゃない!」


「だってお姉ちゃん、なんたって我らが秀ちゃんは代理店マンよ、哲平よ哲平」


「なによ孝子、もしかしてラブジェネ? 古いわねー」


「お姉ちゃんだって好きでしょ。全部録画してたの知ってるんだからー」


「ラブ……何なのそれ」


「うっそお母さん知らないの? ラブジェネよラブジェネレーション! キムタクのドラマじゃない。ヒロインは松たか子でさ……」


 機関銃のようにしゃべりまくる3人に、口をはさむ余地なくぼんやり立っていた僕の後ろを、甥っ子たちが駆けていく。もはやミニ託児所状態だ。割れそうな痛みを抱える頭に、動物園の中みたいな騒音が突き刺さる。

 正直言って、子どもは苦手なんだ。うるさいし、すぐ汚すし……。勘弁してくれよ。真夜中過ぎてるんだから早く寝かせた方がいいんじゃないのか? と姉さんたちを見たけど、気にする風もなく3人はまだおしゃべりを続けてる。

 まともに相手するだけ無駄だっていうのは経験上わかってるから、さっさと2階へ引き上げよう。


「……おやすみ」


 つぶやいて背を向けたとたん、良子姉さんの声が飛んできた。


「そういえば週末、何着てくの?」


「相手、インテリなんでしょ? 業界人っぽいのはやめなさいね」


「そうそう、グレーとか、おとなしめのスーツがいいんじゃない?」


「……え?」


「大丈夫大丈夫、心配しなくてもついていったりしないから」


「後からどんなだったか絶対聞かせてね」


「あたしたちだって、ほら、心の準備とかあるからさ」


 話が見えない。一体何のことだ?

 ぽかんとしていると、母さんの眉間にみるみるしわが寄った。


「秀一、あなたまさか、土曜日のお見合い、忘れたとか言うんじゃないでしょうね!?」


「お見合い……? ……ああ」


 思い出した。佐伯先生が紹介してくれた、あの話。母さんから「会うだけでいいから」って、強引に押し切られたんだっけ。……すっかり忘れてた。

母さんの眉毛は、今やくっつきそうなくらい吊り上がってる。


「今更行かないなんて、絶対許しませんからね!」


「大丈夫よ、そしたらあたしたちが引っ張っていくから」


 申し訳ないけど、今はそれどころじゃないんだよ。


「あのさ、やっぱり結婚は自分で決めた人と……」


「もちろん、あなたが自分で見つけてくるんなら、それが一番いいですよ。文句なんて言いませんとも。でも誰も連れてこないじゃないの! もう31になるっていうのに」


「今はちょうど仕事が忙しくて……」


「前も同じこと言ってました。そんなこといって、どんどん時間だけが過ぎていくじゃないの。最近は一生独身で通す人も多いようですけどね、お母さんは反対。人として成長するためにも、絶対に結婚はするべきよ」



 「絶対」に、「すべき」?

 きっぱり言い切る母さんに、僕は眩暈をこらえた。議論したって無駄だ。そんなこと、わかりきってるじゃないか。


「でもさぁ、さっすがお母さん、秀ちゃんの好み、よくわかってるよね」


 孝子姉さんの手には、見合い相手と思われる写真がある。僕も見たはずだけど、はっきり言ってまったく記憶に残ってなかった。


「確かに~! 秀一ってこういう、地味めなお嬢様タイプ、好きだよね」


 誰が、誰を好きだって?


「息子の好みだもの、母親ならわかりますとも。彼女の写真見た時、ピンときたのよ、秀一絶対この子のコト気に入るって」



 ピシ……ピシピシ……ピシッ!



 母さん、何得意そうに言ってるんだよ。いつ、僕が好みの女性について母さんに話した? 勝手な推測押し付けるな! ぶつけたい怒りは渦巻いているけれど、この家では女性陣に口答えしない方がいい。それがこの家での処世術ってやつだ。さっさと寝てしまおう。

 2階へ上がると、幽霊のように静かにトイレに入っていく父さんが見えた。




 翌日になると、雑誌効果はさらにすさまじさを増し、クライアントからも激励メールが届くようになった。

 最初は冷やかし半分だった同僚だったけど、中には、「いいよなぁイケメンは楽で。ニコニコしてりゃ仕事もらえるもんな」なんて毒を吐くやつもいて。

 仮にもマスコミ業界で仕事するなら、もう少し捻ればいいものを。

 あきれるくらいベタなイヤミだったが、僕を苛立たせることには成功したらしい。あいにくその日は外出の予定もなくて、悶々と社内で耐えるしかなかった。

 ったく、取材なんて受けるんじゃなかった。




 夜8時過ぎ、ようやく静かになってきた社内にホッとして、その日はかどらなかった仕事にとりかかろうと机に向かった。

 すると突然、隣の席の辻内さんが「ヤバい!」と叫んだ。


「どうしたの?」


「明日の営業会議の資料、コピーするの忘れてたんですぅ!」


 辻内さんは「ヤバい」を連発しながら、まだ残っていた総務の加藤さんらに「お願い手伝って!」と声をかけてる。ギャアギャア騒ぎながらみんなでコピーを取って、バタバタ会議室に運び込んで……。

 ああ……勘弁してくれ。まだ片づけなきゃいけない仕事があるのに。


 様子を見に行くと、「辻内さんいいなー山崎さんのお隣~!」なんて加藤さんの声が聞こえる。おいおい、また僕をネタにしてるのか。作業は進んでるんだろうな?


「ふっふっふーうらやましいでしょー」


「ねえ辻内さん、山崎さんてほんとに彼女いないんですか?」


「えーでも嘘つけなさそうじゃん、あの人」


「つきあったら、絶対大事にしてくれそうですよね」


「浮気とか、絶対なさそう」


「結婚したら、絶対マイホームパパになるよね」


「週末は家族でドライブ、長期休暇は海外旅行、とかさあ」


「ありそうありそう!」



 ピシ……ピシピシピシ……ピシピシッ!



 「○○そう」、「○○っぽい」、自分勝手な想像だけで、どうして人はこんなにも他人の性格を決めつけてしまえるんだろう。マンガやドラマじゃあるまいし、自分の理想を押し付けないでくれよ!

 永遠に続きそうなその会話を聞いていられなくなって、僕はドアをノックして顔を出した。


「山崎さん!」


 中にいた女の子全員がびっくりして僕を振り返った。


「お疲れ様。もうこんな時間だし、後は僕がやっておくから、みんな帰っていいよ」


 辻内さんはブンブン首を振り。


「いえ、そういうわけにはいきません!」


「いいっていいって。ここまでやってくれたら十分だから。僕はほかの仕事もあるし、まだ帰れないからさ」


「山崎さんやっさし~い」


 いや、君たちに早く帰ってもらいたいだけだから。


「じゃ、今度おごらせてください!」


 辻内さんがぐいっと近づいてきた。


「え?」


「神楽坂においしいイタリアン見つけたんです。一緒に行きません?」


「あ……あぁ」


「ずるーいあたしも行きたい!」


「あたしも!」


 嫌な展開になりそうだ。早めに切り上げよう。僕はにっこり笑って「そうだね。時間が合えばね」とかわした。


「ほんとですか!? 約束ですよ!」


 「じゃ、お言葉に甘えてー」とピンク色の集団が帰っていってようやく一人になると、僕はふううぅと息を吐いた。



 ピシ……ピシピシ……ッ!



 干からびた仮面にはもう無数のヒビが入っていて、その下の顔は壊死寸前だった。でも……その仮面を外すことはできない……。

 僕はバサバサと乱暴に書類を1部ずつ重ね始めた。


「お疲れさん」


 突然声がしてギクリと振り向くと、新条さんが立っていた。


「あ……お疲れ様です。まだいらっしゃったんですか」


 新条さんは僕の手元をのぞきこむと、真似して書類を手に取った。


「いや、僕一人でできますから!」


「2人でやった方が早いだろ」


 言葉に詰まっていると、新条さんはかまわず作業を始めた。


「すみません……」


 頭をさげ、書類を集め始めた時だった。


「山崎さ、最近何かあったか?」


「……え?」


 わずかに遅れた反応を、気づかれただろうか?


「心ここにあらず、て感じだから」


「……」


 さすが新条さんだ。自分の仕事を完璧にこなしながら、別の部署にまで目配りなんて、僕にはとてもできない。


 ……ふと、思う。


 すべてぶちまけたら、この人はなんて言うだろうか。あの日のこと、あの日までのこと。すべて。

 たとえすべて知っても、この人なら、公平に冷静に、意見を述べてくれるんじゃないだろうか?

 話してしまいたい衝動に突き動かされて……しかし次の瞬間、その左の薬指にはまったリングが目に留まる。


 ……ダメだ! 話したらダメだ!


 この人は社内でも有名な愛妻家じゃないか。美人の奥さんと、進学校に通う優秀な息子がいるって聞いたことがある。愛する家族と充実した仕事……こんな幸せな人に僕の話をしたところで、こっちがみじめになるだけだ。とてもじゃないけど、話せるわけがない……。

 僕は少し考えて、話題をそらした。


「結婚て、いいものですか?」


 新条さんはぐっと息をつまらせると、咳き込んだ。


「実は明日、見合いするんですよね」


 極力軽い口調にのせて、さらりと言ってみた。コーヒーをもう一杯いかがですか、そんな感じで。


「へえ、ついに我が社の結婚したい男ナンバーワンも年貢の納め時ってことか。女子社員の悲鳴が聞こえそうだな」


「まだわかりません。とりあえず会うだけ会ってみろって親がうるさくて」


「そりゃ親にしてみりゃ心配だろうなあ」


「今回は、僕の大学時代の恩師からきた話で、母がものすごく乗り気になっちゃって」


「へえ、そんなにすごい美人なのか?」


「秀英医科大学付属医療センター脳神経外科准教授」


「……は?」


「相手の肩書ですよ」


「……女、だよな?」


「そうですよ」


「そりゃ……なんかすごいな」


 見ると、肩を震わせて笑っている。


「面白がらないで下さいよ。結構本気で困ってるんですから」


「いや、悪い悪い、まさかそういう硬派な女子がくるとは思わなくて」


「うちの両親、特に母は、そういう地位とか肩書とかに弱いんです」


「なるほどねえ。山崎はしたくないのか、結婚」


「さぁ……僕は今の生活に満足してますし、特に必要も感じてないんですけど」


「ま、したくもない奴に無責任に結婚しろとは言えないけど……少なくともおれは家族ができて、よかったと思ってるよ」


「どんなところがですか?」


「そうだなあ……夜、家に帰って電気が点いてて、おかえりって言ってくれる人がいて、あったかい食事が用意してあって……そういうもろもろかな。ま、実家暮らしのお前にとっちゃ、当たり前のことかもしれないけど」


「一人暮らしが長かったんですか?」


「あぁ、まあな。両親とも結構早く死んじまって、しかも借金を残していったから。20代の頃は恋愛してる暇もなくて、ひたすら働いてたな」


「へえ……」


 新条さんとは何度か飲みに行ったことがあるけど、自分のことはほとんど話さない人だったから、ちょっと意外な感じがした。結構苦労してきたんだな。


「こればっかりは向き不向きもあるからな。最終的には、お前が自分で決めればいいさ。お前の人生なんだから」


 ……我が家の女性陣にもその言葉聞かせてやってくださいよ。僕はこっそりため息をついて――



 あれ、僕、新条さんに実家暮らしだって話したことあったっけ?


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