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聖家族  作者: 門戸明子
13/32

山崎秀一の話(下)

 翌日は僕の心とは裏腹に、カラッと澄んだ冬晴れに恵まれた。

何を勘違いしたのか、張り切って着物なんか引っ張り出した母さんと一緒に、六本木のリッツカールトンホテルへと向かう。

 ホテルの重厚なエレベーターに乗り込むと、母さんは眉間に深いしわをギュッと寄せ、憤然とした様子で僕の格好を見た。出社時と変わらないスーツ姿と黒鞄、といういでたちが気に入らないようだ。この後仕事があるから、という言い訳は、さらにお気に召さなかったらしい。

 だがとりあえず、参加しさえすれば僕の役目は終わるわけだ。僕は母さんの視線を無視して、猛スピードで変わる階層表示を見ているふりをした。


 45階へ降りると、エレベーターホールの向こうに、待ち合わせ場所のラウンジがあった。高い天井いっぱいにはめ込まれた窓から光が降り注ぐそこには、すでに僕の恩師、佐伯光蔵教授と美津子夫人、そして……白いワンピース姿の女性が待っていた。

 僕と母さんが近づくと、3人がソファから立ち上がった。


「はじめまして、どうも~お待たせしまして! 秀一の母の雅子でございます」


「久しぶりだね、山崎くん」


 佐伯教授と教授夫人と握手して。

 それから……隣に立つ小柄な人に目をやった。肩より短い髪はストレートの黒髪で、まるで日本人形みたいに整ってる。


「山崎秀一です。はじめまして」


 声をかけると、ピョンッとウサギが跳ねるように彼女が顔をあげた。


「あ、ああの、室生……さささ紗智、と申します。よよ……よろしくお願いします!」


 そのまま、二つ折り、という言葉がしっくりくるくらい深々とお辞儀する。なんだか……ものすごく礼儀正しい人だな。


「あらあら、写真よりずうっとかわいらしいお嬢さんですのねえ」


 使い慣れない馬鹿丁寧な言葉を連発する母さんは滑稽ですらあったけど、本人はまったく気づいていないらしい。


「秀一は、大宮国際大学の物理学を出ておりまして、研究の道に進むことを佐伯教授にも勧められたんですけれども、本人が社会人として研鑽を積みたいなんて申しましてね。営業職って、そりゃもう大変ですよ、毎日人と顔を合わせて、交渉して。ですから、コミュニケーション能力といいますか、人をまとめる力にも長けている子って、まあ我が子ながら思うんですの」


 専業主婦の母さんが一体何を理解しているのか? さっきから延々と営業とは何か、について話し続けてる。本当は制止したいけれど、彼女がうんざりしてこの話を断ってくれるなら、申し訳ないけどそれが一番いい。

 だから僕は黙って聞き流すことにして、こっそり彼女を観察し始めた。

 外資系ホテルだけあって、外国人客用に大きめに作られたソファはサイズ的に彼女に全く合わないようだ。座ってるっていうより、埋まってるみたいに見える。

 緊張しているのか、背筋をぴんと伸ばしたきり、ぴくりとも動かさない。じっと母さんの話に耳を傾けてる。

 僕に見られてることに気づいたのか、室生さんはパチパチとわずかに瞬きして、顔をふせた。瞼は……一重だ。アイシャドーはブラウンっぽいな。ピンクやパール系みたいな男受けする色は使っていないけれど、彼女の切れ長の落ち着いた目には、その方が印象的に見える。自分でメイクしたんだろうか? かなりうまい。


 やがてさすがに一言も言葉を交わさない僕らに業を煮やしたのか、佐伯教授が「あとはお若い2人に任せて」などとお決まりの文句を言う。

 いい加減僕も母さんの弾丸トークにうんざりしていたから、「そうですね」と腰を上げた。まだしゃべり足りない様子満々の母さんを無理やり帰して、僕と室生さんは同じフロアのフレンチレストランに移動することにした。


「すみません、うるさい母で」


 窓際の席から外を眺めると、青空とおもちゃみたいな街並みのコントラストが美しくて、初対面の気まずさをなんとか救ってくれる。


「いえ……とっとても、その、明るい方ですね」


 彼女の声はかなり上ずってる。上がり症ってやつかもしれないな。


「あの調子で日常生活にもいろいろ口出ししてくるので本当にうっとうしくて。もう結婚して家を出ましたけど、姉も2人いるんです。3人がそろうともう無敵なんですよ。あ、……いえ、すみません。こんな話、つまらないですよね」


 つい愚痴っぽくなった僕に、室生さんが力強く首を振る。


「いえとんでもないです。わかりますそういうの!」


 弱々しい雰囲気が一瞬かき消えたので、僕は目を見張った。


「わ、私にも兄がいて、顔を合わせるとうるさく言うんです。だから……今は一人暮らしをしていて。家族って言っても、自分のすべてを理解してるわけじゃないから、難しいですよね」


 思いがけず、いたわるような微笑みが返ってくる。

 なんだろう、その時僕たちの間には、何か共通するものがあるような……。彼女も同じことを感じたのか、ようやく僕を真正面から見てくれた。


「あの……えっと、読ませて、いただきました、雑誌」


 聞きたくてたまらなかったんだろうな。室生さんは、好奇心を抑えきれないって感じで口を開いた。


「すごい、ですよね。あんな風に雑誌に載るなんて。私と違って、出会いも多いんじゃないですか? 失礼ですけど、どうしてお見合いなんか……」


「うーん……」


 母親に強制されたから、なんて本当のことを言ったら、彼女は確実に傷つくだろう。


「室生さんはどうですか? お見合いする気になったのはどうして?」


「私は……その、あの……実家から離れて、自分の家族がほしいと思ったんです」


「家族?」


「そう、新しい家族。新しい……自分になるために」


 そこには思いつめたような光があった。彼女も、何か悩んでいるんだろうか。家族のことで……?


「うるさいお兄さんから解放されたい?」


 冗談めかして言うと、室生さんの顔が陰った。あれ、もしかして図星だった?


「室生さんのような優秀な方だと、うちの家族は平凡すぎるんじゃないですか?」


「そういうのがいいんです!」


 ぐいって室生さんが体を乗り出す。


「当たり前の、どこにでもいる、普通の家族がいいんです。うちが……特殊すぎるので」


 特殊? ……なんのことだ?


「どういうことです?」


 言ってしまってから、釣り書きをちゃんと見ていなかったことがバレバレだと思ったが、彼女は気づかなかったらしい。うつむき加減のまま、ぽつんとつぶやいた。


「あの……みんな刑事なんです」


「は……?」


「祖父も父も兄も、叔父や従兄も……みんな刑事。うちには警察以外は認めないっていう雰囲気が昔からあって……だからその、結婚するなら、普通のサラリーマンの人がいいなと……すみません、変な理由で」


 室生さんは気づかない。

 僕の脳が、完全に思考停止していることに。

 よりによって、警察……。今、この時に?


「そうですか……」


 ぼんやりとつぶやいた。

 結局、神様は僕を、僕の行動を、じぃっと見張ってるってことなんだな。いっそすがすがしい気持ちで、僕は足元に置いた黒鞄を見下ろした。


 ホテルから出ると……なんてことだ、母さんが猛スピードで駆け寄ってきた。あれほど帰れと言ったのに、ずっと待ってたらしい。


「秀一、ちょっと! 一人で出て来たの? 紗智さんは?」


「ミッドタウンで買い物してから帰るって」


「じゃああなたも一緒に……」


「仕事があるって言っただろ」


 そして僕は、さらりと「この話、お断りして」と告げた。


「どうして!?」


 地下へと続くエスカレーターに乗り込む僕を、母さんが追ってくる。


「何があったの?」


「別に何も。とてもいい方だと思うよ。ただ、僕とは合わない。それだけ」


「付き合ってみたらわからないじゃないの!」


「付き合わなくてもわかるよ。無理なんだ」


「ねえ、秀一、あなた……結婚する気、あるわよね? ね?」


「……」


「言ったでしょ、お母さんは、人として成長するためにも、結婚は絶対必要だと……」


「じゃあ、未婚の僕は、未完成で欠陥品だって言いたいわけ?」


「今のままだと、そうなるってことよ。あなたのためを思って言ってあげるんじゃないの」


 地下道を歩きながら、バカバカしくなりながら、吐き捨てるように言った。


「いいよ、未完成で欠陥品。それが僕だ。それでいいさ。完璧な人間なんていやしない。どうせ僕の人生だ。どう生きようと、僕の勝手だろ」


「何ですって!?」


「だいたいさ、お見合いは僕のためじゃないだろ、母さんのためじゃないか」


「何ですって!?」


「息子が独身のまま実家にいたら、世間体が悪いから、とにかく既婚てくくりに入れたいだけだろ?」


「秀一!」


 地下に響き渡る金切り声をあげる母さんは、とてつもなく無様で、僕はうんざりした。


「ねえ、どうしたのあなた、最近おかしいわよ。いつもの秀一じゃないみたい。いつもはもっと優しくて、思いやりがあって……ねえ、もしかしてどこか具合が悪いの?」



 ピシッ! ピシッ! ピシィッ!


 優しくて? 思いやりがあって? 具合が悪いの? ……笑ってしまう。血のつながった家族ですらこうだ。仮面をかぶった僕しか見ようとしない。なのに結婚? 赤の他人に、僕の何がわかるっていうんだ?


 母さんを無理やり振り切って地下鉄に飛び乗り、新宿で降りると歌舞伎町へ向かう。

 週末の歌舞伎町は、普段以上に人でごった返していた。いつものカフェも人でいっぱいだったから、僕は仕方なく道路の端に寄って立ち、道行く人たちを見張り始めた。

 行きかう人の中には、カップルもたくさんいて、皆じゃれあいながら目の前を過ぎていく。

 室生さん、お見合いを断られて、ショックを受けるだろうか。彼女自身には何も落ち度がないわけだから、ほんとに申し訳ないと思う。真面目そうな人だったから、自分を責めたりしないだろうか?

 でも……やっぱり結婚はできない。おそらく、誰とも。なぜなら……。

 僕は黒鞄の持ち手を、力を込めて握りなおした。

 立っていると、足元から寒さが這い登ってくるような気がして、足踏みをしながら、周囲に目を配る。もう、無理なんだろうか? やっぱり現れないんだろうか、彼は。何百回と繰り返した問いと格闘しながら。

 この位置からも、大型ビジョンで流れるワイドショーの声が聞こえてくる。ホスト殺しの続報だ。耳をそばだてると、どうやら被害者の過去について話しているようだ。

――被害者の少年は、中学卒業まで児童養護施設で育ち、子どもの頃から素行に問題があり……

 施設出身だったらなんだっていうんだ? ちゃんと両親そろってたって……この様だ。 苛立ちをなんとか解消しようと、タバコを取り出そうとして……慌てて握りつぶした。


「いた……!」


 口から小さな叫びが漏れる。

 視線の先、人ごみに紛れて、その男は歩いていた。あの日見た、ずっと探し続けた、「あの男」! 間違いない! あいつだ!

 人ごみをかき分け、背中を追う。 待て! 待ってくれ……!! お前だろう、あの夜……あの場所で……!


「キャアアア!」


 押しのけた女子高生が、けたたましい悲鳴をあげ、僕をにらんだ。


「ちょっと、あんた今私のお尻触ったでしょ!」


「いや、そんなこと……」


「ちょっとおまわりさーん! 痴漢がいまーす!」


 周囲を歩く人たちが、「何何?」「何があったの?」と集まり始める。その声を聞きつけたのか、警官が警棒に手をかけながら小走りにやってくるのが見えた。

 なんてことだ……ようやくあいつを見つけたっていうのに!

 仕方なく僕は警官と反対方向に駆けだした。


「待ちなさい! 待ちなさーい!」


 何事かと振り返る人の波をすり抜けるように、僕は必死に走った。

 捕まるわけにはいかない。

 僕は走り続けた。でも運動不足がたたって息は上がり始め、スピードはがくんと落ちる。それとは反対に、警官の制止の声はどんどん近づいてくる。

 くそ、さすがプロだ。ダメだ……今捕まるわけには……!

 その時、ふいに僕は誰かに腕をつかまれ、路地裏に引っ張り込まれた。


「うわ!」


 地面にはいつくばると、ビールケースの影に引き寄せられる。顔を上げると……


「新条さん!?」


「しっ」


 新条さんが指を口にあて、通りをうかがう。息をひそめる僕たちに気づかないまま、警官の足音は……遠ざかっていった。

 た、助かった。僕はずるずるとビールケースにもたれて座り込み、汗をぬぐった。



 昼間あれほど晴れていたのに、ぽつりぽつりと雨粒が落ちだした。あっという間に雨脚は強まり、僕と新条さんが居酒屋ののれんをくぐるころには、叩き付けるような本格的な降りになっていた。

 湯気で曇った店内は、雨宿りもかねた客で大賑わい。目立たない隅の席に落ち着いた2人の男になど、誰も注意を払わなかった。

 2つのグラスにビールを注いで、新条さんが僕を覗き込む。


「一体何があったんだ?」


「……いえ、大したことじゃないんです。痴漢に間違えられて警察がきて……」


「誤解だって説明すればいいだろ?」


「それは……そうですが。とっさに逃げることしか浮かばなくて。バカですよね」


 僕は黒鞄をしっかり腕に抱えたまま、ビールを一気に飲み下した。


「誰を探してた?」


 ……え?


「声かけようと思ったら、お前が突然走り出したんだ。誰かを必死で追おうとしてるように見えたけど」


 新条さんを見ると、いつもの穏やかな彼じゃなかった。この人……本気で僕のことを心配してるのか……。

 店内の喧騒をぼんやり眺めながら、じんわりとアルコールが体内に回るのを感じていた。心地よい暖かさに、必死に閉じ込めてた何かが、ゆるゆるとほどけていく。

 すべて話してしまいたい。誰かに聞いてほしい……。

 僕はついに、その誘惑に屈した。


「歌舞伎町の……刺殺事件」


 虚を突かれたんだろう。新条さんは一瞬考えて、それからうなずいた。


「ワイドショーでやってるやつだろ? 18歳のホストが殺されたとかいう」


「そうです。……続報をご存知ですか?」


「続報? って言ったって、まだ犯人は捕まってないんだろう? いや待て……確か、ニュースで被害者と一緒に歩いてた男が目撃されてるって言ってたな。長髪でサングラスをかけた……違ったか?」


 僕は黒鞄を開け、中に入っていたものをテーブルの上に無造作に置いた。


「……これは……?」


 新条さんは、カツラとサングラスを手に取って、怪訝な顔で僕を見る。


「……僕なんですよ、その男」


 新条さんが、息をのんだ。


――結局あんたはさ、自分が可愛いんだよな。


 皮肉っぽい翔也の口ぶりが脳裏によみがえる。


「僕が、殺したんです」


「え……」


 一瞬ざわめきが遠のいて、僕たちの間だけピンて凍るような緊張感が走った。

 耐え切れず、僕は「ぷっ」っと吹きだした。


「って言ったら、どうします?」


 はあっと新条さんが息を吐きだして。


「びっくりするじゃないか。ったく脅かしやがって」


「でも……あの日殺される直前まで、僕らが一緒にいたのは確かなんです。だからきっと、何を言っても疑われる……」


「でも、お前じゃないんだろう?」


「もちろんです。それに……僕はたぶん、犯人を見てる」


「ええっ!?」


「あの時、僕は歌舞伎町の路地で翔也と……ああ、被害者の名前、名倉翔也って言うんですが、彼と話をしていて、それから別れました。その時、黒いコートを着た男とすれ違ったんです」


 男は沼の底みたいな、暗い目をしていた。こんな人気のない場所に、一体何の用だろうって、一瞬後ろを振り返ったほど。

 あの時、あの時もう一度戻っていれば……! でももう、すべてが遅い。


「どうしてそれを警察に言わないんだ? そこまでわかっていれば、警察だってお前を犯人だって決めつけたりしないだろ?」


「それは……説明しなきゃならないから」


「説明?」


「どうして変装なんかしてこっそり会ってたのかってことを」


 新条さんは、「ああ」とうなずいた。


「……どっかのスポーツ紙で読んだな。彼は覚せい剤を持ってたって。もしかして……お前」


 疑惑に細められた視線に、僕は慌てて首を振った。


「いえ、クスリはやってません。翔也も仲介役をやってただけで、使ったことはないって言ってました」


 それでも、やはり犯罪だ。やめるよう咎める僕と翔也は、あの日も言い合いになって。腹を立てた僕は、彼を置き去りにして立ち去った。もう少し冷静に話し合って、もう少し一緒にいたら、もしかしたら翔也は死なずにすんだかもしれない……。

 再び運ばれてきたビールを自分でグラスに注いで、ぐいっと飲み干した。


「翔也とは……2丁目で出会いました」


 そう告げると、新条さんの目がわずかに見開かれた。新宿2丁目……もちろん、その意味はひとつ。


「おわかりでしょう? 僕たちは付き合っていたんです」


 僕は新条さんの視線に耐えきれなくて、うつむいた。


「だから、翔也のためにもあの男を自分で探し出そうって、事件の日からずっと歌舞伎町を見張ってたんです」


「そうかそれがさっきの……」


「そうなんです。いたんです! 忘れません、あの顔、あの目……!」


「それだったら、なおさら警察に行った方がいい」


「新条さん……」


「似顔絵を作ってもらうとか。警察なら、そういうことはプロだろう?」


「でも……」


 僕は言いよどむ。確かにそうだ。そうなんだけど……。

 「なあ山崎」と、新条さんの低い声が聞こえた。


「お前言ってたよな。みんなきれいな外側の仮面しか見たがらないって。でも一番その外ヅラにこだわって、必死に守ってるのは、お前じゃないのか?」


 ドクン……と、心臓が跳ねた。それは、新条さんの指摘が、翔也の言葉とまったく同じだったからだ。


――どうする? 別れる?


――結局あんたはさ、自分が可愛いんだよな。


 自分の性癖をビクつきながら必死に隠して、でも翔也と離れることもできない。そんな曖昧な僕に、あいつはいつもイライラしていた。


――ゲイだってカミングアウトしろよ。そしたらクスリから手をひいてもいい。


 あの日翔也があんなことを言い出したのも、そのせいかもしれない。


「彼がくれた、最後のチャンスかもしれないぞ」


「え……?」


 新条さんの言葉に、僕は我に返った。


「自分を縛り付ける仮面、ぶっ壊してみないか」


 仮面を……ぶっ壊す?

 ぶっ壊せる……のだろうか?




「ありがとうございました。話、聞いてもらえてよかったです」


 JR新宿駅の改札を通ってから、僕は新条さんに頭を下げた。

 阿佐ヶ谷が最寄り駅だという新条さんは、中央線のホームへと上がっていく。山手線の方へ向かおうと足を踏み出して、その時、ようやく新条さんの傘をそのまま持ってきてしまったことに気づいた。僕は慌てて後を追って駆け出した。

 終電近い時間を迎えたホームは、酒臭い息を吐きながら赤ら顔でふらつく人ばかり。ラッシュ時に勝るとも劣らない混雑ぶりで、僕は新条さんの姿を見つけるのに苦労した。

 ようやく見つけることは見つけたものの、思いのほか前へ行ってしまっていて、なかなか声が届かない。


「新条さーん!」


 張り上げた声が、列車到着のアナウンスにかき消される。

 仕方なく「すみません通してください」と声をかけながら人と人の間を縫うようにして、前へ出る。


「新条さ」


 言葉は最後まで音にならなかった。

 僕は、人ごみの中からグレーのダウンジャケットに包まれた腕がニョキッと突き出るのを見た。

 次の瞬間、それはぐいっと伸びて……前にある背中をドン! と押した。

 新条さんの体は宙を泳ぎ、雨に黒く濡れた線路に落ちていく。


 列車のライトが、ダイヤモンドのようにきらめく雨粒が、その体を包み込んだ。



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