中編
ユーリシカが“捻れ角の魔女”の名を戴く前。
まだ幼い少女で、魔女として半人前だった頃。
彼女はリッツラハト国に住まう白の魔女と共に暮らしていた。
師であり姉であり母であるその人が、何の所以か、ある日突然連れてきた臨月の妊婦。
その女性こそ、リーガルシア王子の生母、現リッツラハト国王第一側妃であった。
彼女が王子を出産したのはそれから三日後。
星の綺麗な夜に、リーガルシアは生まれた。
とりあげたのは他でもない、ユーリシカだ。
新しい小さな命の誕生に、精霊たちが喜び踊り、世界が輝いた。
魔女の目だからこそ見える光景と、腕の中でほぎゃぁと存在を主張する温もりに、ユーリシカは言葉を失った。
それから何年経とうと、ユーリシカの思いは変わらない。
この生き物が愛しくて仕様がない、と。
実のところ、白の魔女はユーリシカを後継とするため育てていたのだが、残念なことに彼女には白の魔女たる要素が皆無であった。
現在、世に知られる魔女の名に恥じない立派な魔女をしている。
白の魔女のように万人を愛すのは、ユーリシカには難しい。
ユーリシカが愛を注ぐのは、可愛い彼女の王子だけ。
だから、彼女はリーガルシアに心臓を捧げることも厭わなかった。
***
朝を告げる小鳥の声と同時に、ユーリシカの安息は終わりを告げた。
具体的には、今、目の前の人物により無理矢理告げられた。
薄金の髪が朝日を反射してユーリシカの目を攻撃してくるので思わず半眼になる。
「…タナストス。何も、こんなに朝早く来て頂く必要はないのよ?」
「おはようございます、魔女殿。早朝から女性の住居を訪ねる失礼をどうかお許しください。ですが、日付が本日に変わったその瞬間から、魔女殿のことが心配でたまらなかったのです。それをどうにかこの時間まで耐えた私の気持ちを少しでもご理解頂ければ幸いです」
「…そう」
ただでさえ朝が苦手なユーリシカは反論をあきらめ、頷くだけにとどめた。
昨日、リーガルシアから、ユーリシカに一日貸し出す騎士はタナストスだと聞いた後、彼女は婉曲的にだが強固に騎士の変更を主張した。
だが、その全てを当人タナストスに反論却下され、リーガルシアにも「ごめんね、ユーリ」と最終通告を受け、諦めざるを得なかった。
--本日一日タナストスが彼女の騎士である。
「…取り敢えず、どうぞ入って頂戴」
玄関先にいつまでもタナストス立たせておくわけにもいかない。
半歩下がり、ユーリシカの小さな城へ招き入れる。
郊外にある何の変哲もない民家が、ユーリシカがリーガルシアから賜った大切な家だ。
「…なに?」
ユーリシカのそばをすり抜けようとしたタナストスがとつぜん立ち止まり視線を注いでくるので、眉根を寄せる。
「失礼を」
すり、と皮の硬い体温の高い掌がユーリシカの頬を包むように撫でた。
「髪を食べてらっしゃいましたよ、魔女殿」
「…ありがとう。…なにかしら?」
「いえ、魔女殿は朝が苦手なのですね?まだぼんやりとされていらっしゃるようだ。…その様が、普段なかなかお見かけしない様なので。大変可愛らしい。変な輩を寄せ付けないか心配になります」
「普段がつまらない女で残念でしたわね。さ、そちらの椅子にかけてらっしゃって。今お飲物でも用意するわ」
「…ありがとうございます」
微笑んだまま一瞬硬直したように見えたのはユーリシカの目の錯覚だろう。
「あら?タナストス、貴方私服?」
「えぇ。本日私は休日扱いになっております」
「せっかくの休みにわざわざ付いて頂かなくてよかったのに。今からでもジギリスに掛け合いましょう」
「それには及びません。むしろ私から願い出たことなのです。私にとっては、ただの休日より嬉しい一日です」
「仕事熱心なのも関心だけれど、偶には息抜きした方がいいのではないかしら。あら、お湯が準備出来たわ。リテ茶でいいかしら?」
「…はい」
客人など滅多にないので、二人分の食器を用意しようとなると棚上から探し出さなければならない。
ユーリシカは背伸びをして指先の感覚だけで上段の食器棚を漁る。
「魔女殿」
「きゃぁ!動く時にもう少し音を出してちょうだい!」
「驚かせて申し訳ありません。…何かお探しですか?」
「この奥に、湯呑みを置いているはずなのだけれど…」
「あぁ、ありますね。失礼」
ユーリシカの後ろから、タナストスが腕を伸ばす。
背中に他人の温度。指先が触れ合う。
「取れましたよ。こちらでいいでしょうか?」
ユーリシカに覆いかぶさるような距離のまま、タナストスが湯呑みを掲げにこりと微笑む。
触れ合っているわけでもないのに、体温が空気を伝って感じれそうな距離。
「…結構よ。ありがとう」
「いえ。何かありましたら他にもお申し付けください。リテ茶の葉はこちらですか?」
「えぇ」
タナストスはそのまま手際よくリテ茶を二杯入れ、居間へと戻っていく。
仕事をとられたユーリシカも後を追う。
小さな円卓に二つの湯呑みを隣並べに置き、タナストスはにこやかに待っていた。
「…」
ユーリシカはさりげなく湯呑みを拾い、向かい合わせに座った。
リテ茶をそれぞれ一口啜り、ほう、と吐息が出る。
ユーリシカの頭は少しは働くようになった。
「ところで魔女殿。本日の予定をお伺いしても?」
「そうね。--暫くここを離れていたものだから、何もないの。買い出しに行こうかしら。今日は貴方は私の騎士なのだもの。お付き合いいただけるわよね?」
「もちろん喜んで。では、ルールリ花通りの辺りでよろしいですか?」
「結構よ。そうと決まれば、準備をしてくるのでお時間頂くわ」
「はい。私のことはお構いなく。お待ちしております」
魔女然とした格好--黒いドレスに黒いローブ--の己を見下ろしながら、ユーリシカは考える。
真昼間から街中で、あんな貴族然とした男の横に並ぶと目立って仕方がないだろう。
とはいえ、魔女であり、一日とはいえ主人である自分が気を使うのもおかしなものだが。
「お待たせしたかしら。けれど紳士というものは女の嘘と身支度の時間を許すもの。タナストス、貴方もそうでしょう」
「勿論です魔女殿。愛する女性が己のために身を飾ることこそ男の喜びですね。男の気持ちを込めた装飾品を愛する女性が身につけてくださった時など、天にも登る。--それにしても、よくお似合いです」
「そうかしら?よくわからないのよね。貴方の言葉、そのままに受け取っておくわ」
「はい、是非」
結局、洋服棚のずっと奥で肥やしになっていた何の変哲もない、優しい薄紫色のワンピースをユーリシカは身に纏っている。
これならタナストスの横に並んでも、それほど違和感はないだろう。
「…このように毎年レオハルトやジギリスと街で一日過ごすのですか?」
「そうでもないわ。大体引きこもっていることが多いわね。タナストス、貴方が初めてかもしれないわ」
「それはよかった。毎年このように可愛らしい魔女殿をジギリスたちが独り占めしていたのかと思うと大人気なく膝を詰めて話をしようかと思いました」
「あら、仮に彼等が街で自由に過ごしていたとしても叱ってはだめよ。私が許可したということなのだから」
「魔女殿は、彼等に甘くていらっしゃる」
苦笑したタナストスが、ユーリシカに向かって掌を向ける。
ユーリシカは、おとなしく右手を預けた。
「それでは参りましょう。本日は快晴、まさにお出掛け日和ですから」
騎士、スルーにもめげず頑張る