幕間 苦い胸中、確かな重み
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
ドアが開く音は、いつもより静かだった。
「……やっぱりここか」
男が振り返ると、社長は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
そのまま隣に立ち、火をつける。
一拍、間が空く。
「最近……労務の方、だいぶ手を入れてるらしいな」
前みたいな軽さはない。
どこか、様子を探るような言い方だった。
男は煙を吐く。
「はい。
このままだと回らないと思ったので」
「……そうだろうな」
小さく返す声は、妙にあっさりしていた。
男はわずかに眉を動かす。
「……分かっていたんですか」
少しだけ、間。
社長は苦く笑った。
「分かってたよ」
はっきりとした言い方だった。
「残業も、36も、現場の回し方も……全部、無理が出てるのは見えてた」
灰を落とす音。
「ただな」
そこで一度言葉を切る。
「俺が入って直すと、“その場しのぎ”で終わると思ってた」
男は黙って聞いている。
「仕組みじゃなくて、“俺がなんとかする”になるからな」
視線が一瞬だけ合う。
「それじゃ、結局また崩れる」
静かに言い切る。
男の中で、点と点が繋がる。
「……だから、放置していた」
「任せた、が正解であってほしいけどな」
少しだけ自嘲気味に笑う。
その笑いに、わずかな申し訳なさが混じっているのが分かった。
「正直に言います」
男が口を開く。
「ルールを整えました。でも……現場は守りません」
「だろうな」
否定も驚きもない。
ただ、分かっているという返し。
「なんでだと思う?」
穏やかな問いだった。
男は少し考えてから答える。
「……忙しいから、ですか」
社長は首を横に振る。
「それもある。でも、本質じゃない」
煙を一つ吐く。
「“守らなくても回るから”だ」
静かに落ちる言葉。
「あと、もう一つ」
社長は続ける。
「“守らない方が楽だから”だ」
男は何も言わない。
その通りだと思ったからだ。
「お前がやってることは正しいよ」
少しだけ間を置いてから、そう言った。
「むしろ、そこまでやれるのはありがたいと思ってる」
その言葉に、男はわずかに視線を上げる。
だが続いた言葉は、少し重かった。
「でもな」
「はい」
「正しさだけじゃ、回らない」
強く言うわけではない。
ただ事実として置かれた言葉だった。
「……どうすればいいですか」
自然と出た問い。
社長は少しだけ考える仕草をする。
「難しいことじゃない」
短く言う。
「“守らないと困る形”にする」
男の視線が動く。
「確認しないと進まない。
ルールを通さないと承認されない。
やらないと、自分に返ってくる」
一つずつ、落としていく。
「そこまでやって、やっと“回る”」
静かな言い方だった。
だが、重さが違う。
男はゆっくり頷く。
「……自分は、“守ってもらう前提”で作っていました」
「そうなるよな」
否定しない。
「普通はそう考える」
一拍。
「でも現場は、そんなに優しくない」
その言い方には、経験の重さがあった。
しばらく、二人とも黙る。
煙だけが流れる。
やがて、社長が口を開いた。
「ここから先な」
男が視線を向ける。
「たぶん、反発出る」
「……はい」
「文句も出るし、やりづらいって声も出る」
淡々とした確認。
「それでも進められるか?」
試すようではない。
どちらかというと、“覚悟の確認”に近い問いだった。
男は少しだけ考える。
だが、すぐに答える。
「……やります」
短い。
しかし迷いはなかった。
社長は小さく息を吐いた。
少しだけ肩の力が抜ける。
「なら、頼む」
その一言は、軽くなかった。
「ここ、ちゃんと作っとかないと、後が持たない」
表情は変わらないが、声にだけ重みがある。
「俺も見る。ただ、全部は無理だ」
正直な言い方だった。
「だから――」
一瞬、言葉を選ぶように間が空く。
「お前に任せたい」
真正面からの言葉だった。
男は数秒だけ黙る。
その重さを受け取るように。
「……分かりました」
静かに返す。
社長はそれを確認すると、煙草を消した。
「ありがとう」
小さく、それだけ言う。
ドアに手をかけ、少しだけ振り返る。
「正しさを通すんじゃなくて、“回る形”にしてくれ」
それだけ残して、出ていった。
喫煙室に残ったのは、煙と――言葉の重さだけだった。
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