第五十二話 その名前を、いまさら呼ぶ
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
試験会場は、驚くほど静かだった。
空調の音と、紙の擦れる音。
それ以外に、特別な緊張はない。
少なくとも男の中には、もうなかった。
**個人情報**保護士。
その四文字は、以前ほどの重さを持ってはいない。
だが、軽くなったわけでもない。
座席に腰を下ろし、問題用紙をめくる。
目に入る文言に、既視感があった。
安全管理措置。
委託先の監督。
漏えい等発生時の対応。
どれも、すでに“知っている”という感覚とは違う。
“やったことがある”という感覚に近かった。
第三章までの自分なら、
正解を探していただろう。
選択肢の中から、一番筋の良いものを見つけるために。
だが今、男が探しているのは答えではない。
**どの順番で考えるか**だけだ。
この情報は、個人を識別するか。
照合は容易か。
必要性は、利用目的に含まれているか。
事故が起きたら、最初の十分間で何を止めるか。
問いは、もう試験のためには存在していない。
現場で何度も、口に出し、書き、渡してきた問いだ。
答案用紙にペンを走らせながら、男はふと気づく。
自分が、いま“勉強している”のではないことに。
これは確認だ。
現場で起きた出来事に、
ちゃんと名前がつくかどうかの確認。
資格は、新しい力を与えるものではなかった。
すでに起きてしまった判断に、
あとからラベルを貼る作業に近い。
試験が終わり、会場を出る。
外は、いつも通りの午後だった。
何かをやり切った高揚も、
胸を張りたくなる達成感も、ない。
それでいい。
合否の通知が来るまで、
男はこの資格のことを、ほとんど考えなかった。
現場は相変わらず動いていた。
誰かが迷い、
誰かが戻り、
誰かが最初の十分間を守る。
男がいなくても、線は働いている。
結果を知らせる封書は、
机の隅に控えめに置かれていた。
開封するまでに、
少しだけ時間がかかった。
合格。
文字は淡白で、
感情の入り込む余地はほとんどない。
男は、深く息を吸って、吐いた。
喜びはなかった。
納得も、特別ではない。
ただ、確認が取れた。
やってきたことに、
ちゃんと名前がついただけだ。
誰かに見せるための称号ではない。
現場で判断を渡すとき、
「これは個人情報の話だ」
「ここは目的外になる」
そう言い切るための、共通語彙。
資格は、前に出ない。
だが、判断が孤立しそうな瞬間に、
そっと背中に手を置く。
男は通知をしまい、席を立つ。
次にやるべきことは、もう見えている。
線を広げることではない。
守りを強くすることでもない。
線を、**当たり前にする**ことだ。
誰かが迷ったとき、
「それ、どういう目的だっけ」
その一言が自然に出る場所。
主人公がいなくても、
線が生きる場所。
資格は、そのための最後の部品だった。
男は、今日も何事もなかったかのように、
現場に戻っていった。
名前は、もう十分だ。
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