昨日までのお隣さん(二)
「勉強はうまくやってんのか?」
何か夢を見ていたような、微睡を彷徨っていたような。そんな状態の思考が、声を掛けられ少しずつ覚醒していく。
声のした方を向けば、赤信号を退屈そうに待っている横顔が見えた。
「うまく……の程度が分からないが。まぁ『勉強が出来る生徒』の枠には入っているんじゃないか」
「そりゃすげぇじゃねぇか」
感嘆の声が返ってくる。僅かに感じるくすぐったさを誤魔化す様に、力の入っていない拳を隣の肩へとぶつける。
触れた肩は、骨とは違う筋肉の硬さを伝えてくる。
「いってーな。何すんだよ」
「痛いわけあるか」
車が動き出す。
また流れていく景色。所々記憶にある建物が現れ始め、家に近づいてきたことを示す。
そんな風景を眺めながら、ふと思い出したことを口にする。
「おばさんが……お前のこと、心配してたぞ」
「何でお前から母さんが出てくるんだよ。ってか、こっちはもう二十六だぞ」
そう呟いた後の表情は、どこか不貞腐れているようで。そのどこか子供じみた様子が面白くて。私の笑い声で、さらに顔を顰める。
感情がすぐ顔に出る所は、昔から変わらないな──なんて心の内でも笑う。
家が隣の、ただのお隣さん。そう言うには少し無理がある程度の関係。
始まりは、母親同士が昔からの友人だった、なんてありきたりな理由。けれど、私とこの男──健司が『ただのお隣さん』ではなくなるには、十分な理由で。
「たまには顔を出して欲しい、と言っていたぞ。帰っていないのか?」
「帰ってなにすんだよ」
最初の出会いは、私が六つの頃。
天気予報で、猛暑日と言われた夏休みのある日。私と母がお隣にお邪魔し、そこで、だらけていたこの男と出会った。
──健司、暇してるなら遊んであげなさい。
高校一年男子が、六歳の少女と何をして遊ぶというのか。
逆の立場なら、困り、慌て、まともに相手なんて出来ない気がする。いや、当時の表情を思い出せば、きっとだいぶ困っていたのだろう。
それでも、当時の私に付きっきりで、そして、終始笑顔で接してくれた。
……懐くのだって仕方がないことだろう。
「何か面白いことでもあったのか」
「人の表情を、しかも、女のを覗くのは趣味が悪いと思うぞ」
あの日から十年の関係。
近所のお兄さんが、近所のおじさんになって。それでも、顔を合わせば会話は止まらず。
私が持つ感情が何なのか。家族に対する親愛なのか。それとも異性に対する恋慕なのか。今日もそれは分からず、隣に座る。
「小説……新しいのはまだなのか」
「書けねぇから、今、こうして車を乗り回してるんだろ」
私が中学に上がる頃、一時期、この関係は薄れた。
しかし、たまたま目にしたニュース番組。そこで目にしたのは、見知った人物の名が記された一冊の本。運動一筋だった少女が、反射的にその足で本屋へ駆け込む。
日頃、手にする本なんて教科書ぐらいだった当時の私。そんな私が、時間も忘れページを捲った。
絵がないはずの世界に景色が広がり。見えないはずの感情が、手に取るように伝わり。
続きは? この子はどうなるの?
捻りも何もない山ほどの感想を抱え、私は、おばさんから聞き出したアパートへと走った。夢中でチャイムを連打し、慌てて出てきただらしない恰好。
寝ぐせなのか、髪の毛はぼさぼさで。それでも、一度は疎遠になってしまった懐かしいその姿に、思わず笑ってしまった。
──……美咲か?
本の感想を伝えに来たはずなのに、驚きに満ちたその表情が面白くて。数年とはいえ、離れていた時間を埋めるように他愛のない会話を重ね、その日は終え。
帰り道で感想を伝え損ねたことを思い出し、また一人で笑っていた。
「次は、どんな題材なんだ?」
「言うわけねぇだろ。出てから買ってくれ」
プロの作家。
そう思うと、隣に座るはずの存在がとても遠くに感じてしまい。一方で、そんな感情を抱く自分自身にも戸惑っていた。
隣で楽しそうに喋っている健司の声を聞きながら、一人、どこか遠くを見つめる。
「寝てんのか?」
「お前の前で寝る訳ないだろ。幼気な少女が、男の横で隙を見せると思うなよ」
「自分で幼気とか言うのはキツイだろ」
ハンドルを握りながら、前方を見つめる横顔。
運転に集中しているのかと思えば、私の様子を気にしているのか時々視線をこちらに向ける。その視線は、いつだって私を守る親鳥のようで。
「だいたい、俺がお前に欲情するかのような発言するんじゃねぇ。警察の世話になるだろうが」
「しないのか? ぴちぴちな女子高校生だぞ」
「寝言は寝てから言え。クソガキが」
何でもない、いつも通りの軽口の応酬。けれど、返す私の声は驚くほど小さくて。
そんな私に対して「元気ないのか?」なんて、心配までしてくれる。しかし、その声がどこか遠くて。
「いや……テスト明けだからかな。少し疲れた」
「お前の家に着いたら起こしてやるから寝てていいぞ」
「……あぁ」
結局寝るんじゃないか、と自嘲する。舌の根の乾かぬ内に──そんな言葉が頭を過る。
こういう所が子供っぽいのだろうか、と答えが出ぬ問答を繰り返しているうちに、気づけば意識を手放していた。




