後編
馬車で半時ほど揺られて向かった先は、隣街にある人気ドレス工房、キールソンの店だ。何人もの住み込みのお針子たちを抱えた工房で作られるドレスは質が高く、ブライス商会でも多くの商品を買い上げている。一から仕立ててもらうには一度訪れるか、屋敷に呼ぶかしなくてはならない。今日は急を要するので、直接店に行くことにした。
フランシスカ嬢を連れて店に入ると、店番をしていた金髪の女性が驚いて何やら縫っていたものを膝に落とした。が、すぐに笑顔でカウンターの向こうから出てくる。
「今日はどのようなご用向きでしょう、ブライス様」
「彼女の採寸を。デイドレスと、イブニングドレスを……そうだな、とりあえず2着ずつ仕立ててもらいたい。デイドレス1着は急ぎで。デザインは、彼女の希望を聞いてあげて」
少し考え込みながらも、仕事や商談で染みついた思考で口を動かす。
腕にかけられているフランシスカ嬢の手に、ぎゅっと力がこもった。彼女の方を見ると、慌てたようにこちらを見て目で何かを訴えている。
店番の女性は、取り出した帳面にすばやくペンを走らせた。
「かしこまりました」
「まっ……!」
「ま?」
フランシスカ嬢が何かを言いかけた。思わず繰り返すと、彼女はふるふると首を振っている。
「そ、そんなにたくさん、いきなり、エリオット様?」
どうやら相当慌てさせてしまったようだ。いきなり勝手に決めてしまったのが、良くなかったのだろうか。必要経費だと思っているから、全くかまわないのだが。
「ドレス、お好きなんでしょう? 遠慮なさらず」
フランシスカ嬢は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「あ、あと既製品もいくつか見せてほしい」
店番の女性に向けて言うと、女性は満面の笑みで頷いた。
それを確認して、僕は再びフランシスカ嬢へ話しかける。
「気に入ったのがあったら、言ってくださいね。仕立てるのは時間がかかりますから、しばらくは既製品で間に合わせましょう」
フランシスカ嬢はからくり人形のように頷くと、嬉しさと申し訳なさがないまぜになったような複雑な表情で、採寸のための小部屋に消えていった。
店内に、僕と店番の女性が残される。女性……ミアはにやりと笑みを浮かべ、話しかけてきた。
「エリー、あの方、どうしたのよ。とうとう恋人ができたの?」
まるで親戚のおば……お姉さんのようだ。あながち違うとも言い切れないが。
ミアは、僕の乳母の娘だ。姉弟のように、同じ屋敷で育った。実際ミアは僕にとって姉のような存在で、使用人とその主人の息子といえど気安い関係である。
それはミアが屋敷を出て、お針子として働きだしてからも、変わらない。まだ屋敷で使用人として勤めている母と離れて暮らしていることを気遣って、手紙のやり取りもしていた。
「……婚約者だよ」
「婚約者!!」
大げさに驚いたミアは、腹の立つ笑みを浮かべたまま、うんうんと頷いた。
「エリーが結婚ねえ。なに、さっそく贈り物で距離を縮めようとしてるのね。いい心掛けよ」
姉貴面もたいがいにしてほしいものだ。僕しか威張れる相手がいないんだろうなということにして、溜飲を下げる。
「うん、ほんと、ドレスは大正解じゃない? あの方、なにか事情があるのでしょう?」
さすがにお針子の目はごまかせない。明らかに合っていないドレスから、推測はたやすいだろう。
「エリー、しっかりしなさいね。あなたったら学校の後は仕事仕事で、ちっとも女性とお付き合いしてこなかったんでしょう」
余計なお世話だ。デートくらいならしたことがある。あの父の許しが得られるかわからない無責任な男女交際よりも、勉強や仕事の方が僕にとって重要だったというだけの話である。
そろそろ面倒になってきたので、やり返すことにした。
「ミア、結婚してから、ますます小姑みたいだよ」
眉を吊り上げて今にも怒りだしそうなミアを止めたのは、小部屋から出てきたフランシスカ嬢だった。
「エリオット様、マダムが、エリオット様も一緒に選んではどうかと」
これ以上ミアとやりあっていても仕方がないので、これ幸いと僕は逃げることにした。
店の奥の部屋に通される。マダム・キールソンが、見本の布地やカタログを用意して待ち構えていた。
「お嬢様には、こちらの型もお似合いになると思いますわ」
「まあ、素敵……」
「これはこちらの型でさるご夫人にお作りしているものなんですが、どうでしょう?」
「まあまあ、素晴らしい刺繍ね……」
次々と提案するマダムの言葉に、フランシスカ嬢はもはや恍惚としている。カタログや布見本、刺繍の見本、はたまた製作途中のドレスなど、すべてにうっとりとして、まあ、素敵、素晴らしい、と繰り返している。
これ、僕がいる意味はあるんだろうか?
「エリオット様、わたくし決めました。この型と、あとこのデザインのものにしたいのです。色は、こちらが臙脂、こちらが菫色。どう思われますか?」
フランシスカ嬢が選んだデザインは、どれも彼女に似合いそうなものだった。落ち着いていて、品がある。どれもスカートのふくらみや、フリルなどが控えめだ。少女らしいドレスによほど思うところがあるらしいが、それも当然のことだろう。
「とてもよくお似合いになるかと」
本心からそう答えたのだが、簡潔すぎたのか。フランシスカ嬢はじっとこちらを見つめていたかと思うと、おもむろに語りだした。
「いいですか、エリオット様」
「はい?」
「わたくしは、美しいドレスを愛しています」
婚約者の口から、ドレスへの愛の告白を聞くことになるとは。僕は困惑したが、大人しく続きを聞く。
「わたくしはドレスを愛していますから、当然、わたくし自身にどんなものが似合うかといったことは、知り尽くしています。幾度も夢想いたしました。不幸にして今まで似合うドレスを着ることの叶わない人生でしたが、あなたのおかげで、今、まさに、わたくしの悲願が叶うのです」
フランシスカ嬢の声には、今までにない熱がこもっている。彼女の謎の迫力に圧倒されて、僕はただただ頷いた。
「ですから、わたくしは、似合うものを選ぶのは当然として、エリオット様のお好みを聞いているのですわ」
なんだか今、ものすごいことを言われた気がする。
「僕の、好みですか」
「そうです。エリオット様も、わたくしが今日選ぶドレス……あなたが贈ってくださるというドレスのことを、愛していただかなくては。そうすれば、ドレスもまたわたくしたちに愛を返してくれます。そう、相思相愛となれるのです」
この女性の話がつまらないと言ったのは、いったいどこの誰だったのだろう。
僕は、彼女の言葉が頭に浸透していくうちに、懸命に話す彼女の表情を見ているうちに、心の底から沸き立つように感じた楽しさ……面白さを、逆らわずに表に出した。
急に笑い出した僕をみて、フランシスカ嬢は目を瞬いている。
「いえ、失礼……あなたは、僕に嘘をつきましたね」
「え?」
「話が面白くないなんて、ひどい嘘だ」
「まあ……」
褒めたことが伝わったのか、戸惑うように視線を彷徨わせる彼女は、年上とは思えない可愛らしさだ。失礼かもしれないが微笑ましくて、僕は頬が緩むのを止められない。
「好みは、そうですね。こちらのデザインは、もう少し襟が高い方が好きかもしれないです。色は、どちらも好きですよ」
ドレスに話が戻ったからか、フランシスカ嬢は平静を取り戻したらしい。僕の言葉にしきりに頷いている。
「たしかに首元まで覆うデザインは大変素敵ですわよね。エリオット様、さすがの審美眼です」
褒められているのになぜだか不思議な気分になるのは、この際気にしないでおこう。
フランシスカ嬢は大変上機嫌に、マダムに要望を伝えている。
マダムもとても楽しそうだ。僕とは仕事でそれなりに付き合いがあるので、顧客として対応するのが面白いのだろう。
フランシスカ嬢はにこにことこちらに笑顔を向けた。
「さあ、エリオット様、次はイブニングドレスですわ」
……まだまだ長い戦いになりそうだ。僕は深く息を吸って、彼女が広げているカタログを一緒に覗き込んだ。
少なく見積もっても、2時間はかかったんじゃなかろうか。
納得のいくドレスを注文できて、フランシスカ嬢は大変ご満悦である。もう両手では足りないくらいの回数、僕にお礼を言っている。
大変だったけれど、こんなに喜んでもらえるなら、これからもドレスはたくさん贈ろう。
満足感を覚えて奥の部屋を出ようとした僕たちは、次々と運び込まれてくる既製品のドレスの山に出口をふさがれた。
そうだった、忘れていた。僕が言ったんだ、既製品もいくつか見せてくれと。
隣のフランシスカ嬢を見ると、興奮に顔を輝かせている。
「エリオット様……!」
「うん、どうぞ、お好きなものを選んでください。何着でも」
この際、とことん付き合おう。これで未来の奥さんと良好な関係を築けるのならば、痛くもかゆくもない。
「何着でも………………いくらなんでも、そういうわけには参りませんわ。5、いえ2、…………3着、よろしくて?」
大変な葛藤があったようだ。無理にそれ以上勧めて遠慮させてしまうのも嫌だったので、彼女の言う通りにしよう。
「もちろん」
「では、2着はわたくしが選びますから、1着はエリオット様が選んでくださいな」
「わかりました」
「ええ、お願いします」
フランシスカ嬢が2着のドレスを選び終えるまでの長い時間をかけて、僕はようやくこれというものを見つけた。
ドレス選びが、こうも難しいとは。先ほど注文したものにも、彼女が今選んでいるものにも被らないように選ばなければならず、そのうえ彼女に似合い、なおかつ彼女の言うように僕自身も愛せるドレス。仕事でも、なかなかない難題だった。
深いグリーンのデイドレスを選んだ。ジャケットとスカートがセットのように見えるデザインで、スカートのふくらみは控えめだが布をたっぷりと取ってある。動きに合わせて揺れたり広がったりするようだ。ジャケット部分の縁にあしらわれた刺繍が華やかに彩りを添えている。
落ち着いているように見えて、不思議なことを話しながらくるくると表情を変える彼女に、良く似合うドレスだと思った。なによりグリーンは落ち着くので好きな色だ。
「まあ、そちらですか?」
いつの間にか、すぐ近くに来ていたらしいフランシスカ嬢が声をあげた。
僕は頷いて、お針子を呼んでトルソーから外させる。
「エリオット様?」
「こちらに着替えてくださいませんか? ……ちゃんとあなたに似合うものを選べたのか、確かめたいのです」
半分本当で、半分嘘だった。
せっかく似合うと思うドレスが、すぐに着られる状態で手に入るのだ。いつまでも、彼女自身がみっともないと恥じているような格好でいさせたくなかった。
そして、ただ単に、着ているところを見たかったという気持ちもある。
彼女は少し戸惑ったようだが、頷いてくれた。お針子に促されて、着替えのため採寸でも使用した小部屋へと向かったようだ。
それからはしばし、気づまりな時間だった。支払いはすぐに済んでしまい、店内の椅子に腰かけて待つ間、ドレスを運んだり片付けたりしているお針子たちから好奇の視線を向けられる。気づかれないようちらちら見ているつもりのようだけど、逆にバレバレだ。
わかっている。仕事で面識のある商会の男が、婚約者をつれてきて散々ドレスを選んだ挙句、その場で着替えさせているのだ。僕だって他人だったら好奇心に負けてちらちら見てしまうだろう。
連れてきているアレンの方は、この店に来た当初から怖くてずっと見れないでいた。辛抱強く付き合ってくれている。きっと無表情の奥で面白がっているに違いない。顔には出なくても目を見ればそれがわかってしまうので、絶対に様子を伺いたくない。
今日の僕は、フランシスカ嬢の作り出す不思議な空気にいつのまにかのまれているような気がする。
ようやく小部屋の扉が開いて、フランシスカ嬢が姿を現した。
「あの、エリオット様、……いかがでしょう?」
フランシスカ嬢が、見てわかるほど恥ずかしがっている。僕は生唾を飲み込んだ。
「よく、お似合いです。……どうされたんです?」
思わず聞いてしまった。フランシスカ嬢はうつむいてしまう。
「あの、このドレス、わたくしも似合っていると思うのです。だからその、これをエリオット様が選んでくださったのだと思うと、急に恥ずかしくなってしまって」
顔を真っ赤にしてそう言いながら、彼女はそっと僕の方を伺ってきた。自然と上目遣いになっているその瞳がわずかにうるんでいるのに気がついてしまって、僕はもうどうしようもなくなってしまった。
可愛い。
我ながら、とても似合うドレスを選んだようだ。深いグリーンをまとった彼女の肌は白く輝いて見えるし、栗色の髪とも合っている。
可愛い。
それから、どうにかこうにか彼女をボールドウィン家まで送り届けて、僕はぼーっとしたまま屋敷に帰った。アレンがいなかったら、無事に帰りつけなかったかもしれない。
夕食の後、明日の仕事の予定を確認に来たアレンは、眼鏡をくいと指で押し上げながら、真剣な表情で言った。
「今日私は、人が恋に落ちる瞬間というものを見てしまいました」
僕は飲んでいた水を思いきり噴き出した。
「汚いですよ、しっかりしてください」
「恋……」
「そうでしょう、まぎれもなく。あのときの顔は、とても人様にお見せできるものではありませんでしたよ」
アレンはまるで困ったものを見るような目で、続ける。
「しかし、先は長そうですね。フランシスカ嬢は、最後まであなたにドレスの御礼を言い続けていました。彼女の愛は、すでにドレスに捧げられているようです」
否定できない。僕もそう思う。
しかし指をくわえてただ待っているわけにはいかない。このまま結婚できるとはいえ、それではあまりに情けない男になってしまう。
僕は心を決めた。
顔合わせから数日後、僕はフランシスカ嬢を美術館に誘った。
当日馬車で迎えに行くと、彼女はあのグリーンのドレスを着てくれている。やっぱり、可愛い。
調子に乗った僕は、当初帰りの馬車の中で話すつもりだったことをもう言いたくなってしまって、心のままに言葉にした。
「フランシスカ嬢、あなたは、僕にもドレスを愛してほしいとおっしゃいましたね」
「? はい」
「実は、……ドレスよりも先に、あなたのことを好きになってしまいました」
フランシスカ嬢は、驚いたようにこちらを見た。一拍おいて、頬を真っ赤に染める。
「あの、え?」
口元を手で覆って、フランシスカ嬢は困惑している。
「ですから、フランシスカ嬢。すぐにとは言いません。ドレスの次に、でかまいませんから、あなたも僕のことを愛してくださいませんか」
言ってしまった。ものすごく恥ずかしいことを口走ってしまった。耳まで熱い。
フランシスカ嬢も耳まで真っ赤に染めて、頬を冷ますように手を当てた。
固唾をのんで返事を待っていると、彼女はやがて、蚊の鳴くような小さな声で言った。
「……頑張ります」
頑張りますときた。ほんの少しだけ気落ちしてしまったけれど、次第に笑いが込み上げてくる。本当に、不思議な女性だ。
僕らはきっと、仲の良い夫婦になれるだろう。
そんな幸せな予感を覚えて、僕は可愛い婚約者に笑いかけた。
フランシスカ嬢の海よりも深いウェディングドレスへの愛をとうとうと語られて、僕への愛は3番目に落ち着くであろうことを悟るのは、そう遠くない未来の話である。