会議中も食事も、みんなペットボトルのサントリー「烏龍茶」
なぜか英国発祥の習慣「Afternoon tea」
日本のセレブ的な人の憧れ、なぜか缶紅茶の代名詞だったり、、私は黄色い缶が好きでした。
フランスと違って、下手すりゃ日本の公家や武家より歴史の浅い英国貴族の自称「長きに渡る伝統的な作法」だそうで。
実際は19世紀、1840年頃に第7代ベッドフォード公爵夫人が、女性向けの社交場としてと流行させたモノです。ついでに、産業革命で余裕が出来、観劇やオペラ鑑賞で夕食を摂るのが21時以降、その事前の腹ごしらえの時間としても意味がある結構新しい習慣です。
尤も、英国より歴史の長い各国の喫茶の習慣、たとえば中国っぽい習慣「飲茶」もこれが発祥。
イギリスの元植民地であるシンガポールは広東系華人が多く、それらホテルで紅茶、スコーン、サンドイッチの代わりに中国茶、シュウマイ・餃子、点心が供されたもの。
その中国茶も日本茶が変身したモノだったりして複雑。
本来の発祥は中国茶だったのにね。
ま、それを変質させた日本茶も、「番茶」という形で現代のお茶の飲み方に固定化されたのは江戸時代あたり、皆が「茶道」といっている礼式と格式は戦国時代の武将達、下手すりゃ織田信長とかの時代。
複雑ですね。
ちなみに紅茶も同じく。
茶葉を発酵させて味わうのは中国発祥と言われます。
宋の時代の飲み方の一つ。
元々は東インド会社を通して浙江省天台山の釜煎り緑茶、
しかしヨーロッパ人は烏龍茶の方が好みに合ったのか輸入は烏龍茶にシフト、
烏龍茶より味を濃くするために発酵させた紅茶に更にシフト、
ヨーロッパ人が 「お茶」=「紅茶」 なのはこういった事情です。
なぜか現代は日本の習慣がはみ出して、英国に出張に行ったら「お茶」=「Green」になっててびっくりしたりします。
まだまだ世界の八割が紅茶なのに、ご本尊はなんか一周して緑茶に戻りつつありますね。
そして英国むかつくアイルランドがなぜか紅茶消費量世界一!
あ、そもそも本当のご本尊の中国では、かなり銀聯の偉い人とかの打ち合わせだったのですが、会議中も食事も、みんなペットボトルのサントリー「烏龍茶」を呑んでました。
コンビニにも緑茶と烏龍茶のペットボトルが溢れてましたね。日本のコンビニのパッケージと同じでした。
いいのか、中国?
※しかも緑茶は砂糖が入ってた!!
一生懸命伝統を保ってたであろう
日本の茶道って一体何だとか思ってしまった。
わからん世界ですねぇ。
「茶道」「伝統」とありがたがそうなお茶は、古くからの中国伝統、日本に伝わった茶道、そういうの全てひっくり返した19世紀あたりに出来た習慣が、我々の考えるお茶のようです。
そして現代の紅茶原産国は「インド」が筆頭。
アッサム、ダージリン、ニルギリ、ドアーズ、シッキム、全部インド産です。
発祥である中国は、世界一と言われるイギリス女王の誕生日茶会に饗される「祁門紅茶」以外は雲南紅茶くらい?
歴代世界一の「大英帝国」は、現代のお茶がこうなっちゃった事情、それが大英帝国の発展と言えます。
前回言ったように、他国のように征服欲で大きくなったのではなく、東インド会社をはじめとする株式会社達の思惑が全て。
17世紀初頭に東洋からお茶の習慣が入ってきて、英国の伝統とやらになったのはとても短い時間でした。
その頃の東インド会社はインドとは蜜月の関係で、とにかく圧倒的弱者、取扱高も低く、ただただ搾取するイスラム商人、中国商人、日本商人に比べてとっても良い人達だったのです。
「イギリス東インド会社」は単一の組織ではなく、ロンドン東インド会社、イングランド東インド会社、合同東インド会社という三つの会社の総称です。
最初はジャワ島のバンテン、インドのスーラトがメイン拠点。
マレー半島、タイ、日本、台湾にも拠点を置き、粛々と貿易してました。
1757年にプラッシーの戦いでフランス東インド会社を撃破し、その影響で軍隊とか行政機構っぽい何かもつけられ、単なる商事会社とはいえない組織でしたが、同じヨーロッパでも暴力的なオランダ東インド会社、政権交代で玉虫色の態度を取るフランスインド会社に比べても優良だったでしょう。
まさに「北風と太陽」。
良い関係を各国と築けていたようです。
ちなみにフランス東インド会社はフランス革命とかナポレオンとかあったので。。。結構良い会社だったのですがね。配当も高くて「さすがルイ16世!」と思うのですが、自称:革命家の欲に突っ張ったならず者が潰しました。
イギリス東インド会社は、その頃の記録は良いことばかり、むかつくがめつい日本商人を協力して一泡吹かせたとか、まあそういう記録もあったりとか。
主要取引はスパイス。
配当金は、利回りで合計240%の超優良会社。
当時インドのムガル帝国もイギリス大好き。
そりゃ富をもたらしリスクも少ない、きゃんきゃんわめくオランダ人、隙を見て欺そうとするイスラム人や中国人、日本人、その頃は日本も斜陽で日本人より乱暴なタイ人とかも参入してきましたし。
ムガル帝国第9代皇帝ファッルフシヤルは、イギリス東インド会社に対して、輸出関税の免除という特権を与えました。
領土的野心がない英国人は信用され、その免税特権でベンガル地方の産物を買い込み、
ベンガル地方も幸せ!
東インド会社も幸せ!
それを受け取るヨーロッパ人達も幸せ!
配当金を受け取る株主も幸せ!
とっても良い会社ですね。
おかげで他のヨーロッパ諸国も羨み、妬み、植民地獲得に奔走しますが、ただ奪うだけの連中では奴隷のような征服地は増えましたが、そこからの利潤は上げられなかったようです。
ただし悩みはありました。
インドの産物はイギリス人にとってとっても魅力、買うだけでヨーロッパで飛ぶように売れますが、インドに売るのは難しかった。
ヨーロッパの産物全ては、インド人には魅力ではなかったのです。
他の中世国家のようにお金が流出し、中国や日本と同じく、いずれ鎖国になってもおかしくない状態でした。
だがフランスに勝ち、英国は海の王者、大西洋は彼らの庭です。
各地からの貿易を配分し、アメリカ-アフリカーイギリスの奴隷売買のような三角貿易をいろいろ複雑に絡ませ、お金の流出を調整すれば良いと考えます。
イランに砂糖、胡椒、香辛料を輸出、金、銀、銅を輸入、
インドで香辛料、藍、硝石、紅茶、綿織物製品
その他インドネシア、アメリカ、カナダ、広東、各国の産物を調整して各国に配り、欲しいものを手に入れようとします。
大成功です。
取引高、1670年には36万ポンドだったのが、1740年には、200万ポンドに!
尤も、この時代に後のトラブルの気配は見えました。
イランは貿易量の過多で大混乱に陥るようになり、インドはその富を期待しての過剰とも言える織物職人が増えたり、各国の産業構造まで動かすような力まで得ます。
別にコントロールしたわけでも強要したわけでもないんですけど。
儲かっているんで良いんですが、さすがにイギリス東インド会社にそこまで期待していいんすかね?
的な気配はすでにありました。
そして1601年設立以来、大きく世の中は様変わりします。
まず、香辛料の取引は激減しました。
どんなプラシーボ効果か?
健康に良い、
病気にならない、
富の象徴、
なんか当時の胡椒ってすごい物質ですよね。
しかしその魔法は文明の発達で溶けました。
肉より高値で、どころか黄金より高値で取引されていた胡椒は、ただの調味料以上の価値はなくなり、あんま魅力ではなくなりました。
まあそれは悪いことばかりではありません。
一生懸命イギリス人を殺し、現地人を奴隷のように働かせて奪った胡椒をたんまり持っていたオランダ人は一気に力を失います。
ざまぁ。
ということでイギリス東インド会社は取引内容が大きく変更されてます。
そしてチューリップ戦争からヨーロッパの科学は発達し、各国から一方的な持ち出しだけではなくなってます。
そしてアメリカ合衆国、カナダ、奴隷仕入れ元のアフリカ西海岸、新しい拠点が続々と出来上がります。
そしてフランス弱体化、イギリス海軍の地位の向上、どんどんと変化が激しくなるヨーロッパ世界。
そんな中で産業革命がおこったのです。
それはヨーロッパの役割、東インド会社の役割を大きく変化させました。




