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人間の歴史。  作者: TAK
民主主義万歳!(アメリカ合衆国独立)
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一応、ワシントンは黒人奴隷推進派で、インディアンの排除を命令してます。いいとこばかりではありません。念のため。

さて、独立戦争始まりました。


司令官はワシントン。

第二回大陸会議で当然のように決まりました。



で、戦いますが、


まず、ボストンの救援でバンカーヒルの戦いが起こりました。

負けました。


各地でも独立派と英軍がぶつかりました。

負けました。


そりゃ勝てるわけないんですけどね。

ミニットマン、ゲリラ戦、かっこよい名将は結果論で、マスケットもって狩りしているおっちゃん達がイギリス軍相手に戦っただけですから。


しかもマスケットは威力はあるが信じられないほど当たらない武器。

火薬と丸い弾を鉄の筒に詰めただけの武器。

しかもなんだかんだで総数からすると10倍近くの戦力をアメリカは持っていたのですが、悲しいかな銃も弾薬もない。


逆に英軍はヨーロッパの戦いでこの武器の欠点も長所もわかっています。

当たらなければ数そろえれば良い。

ドズル・ザビではありませんが「戦いは数だよ!アニキ!」。

隊列組んで、鼓笛隊の音に合わせて、指示された目標に何千挺もズバーンやればいけます。

隊列を崩さなければ、死から逃れるのは度胸だけ。

そのために英軍は必死こいて訓練したのです。



米軍は潜んで一発撃てれば御の字で、その後はありません。

結果的に撃ってすぐに逃げる戦いしか出来ません。

遅滞戦術で英軍に抵抗したと教科書には書いてますが、ぶっちゃけそうなっちゃっただけです。


もう負けて負けて負け続けました。




最初の起死回生の技はこちら。


1776年7月、大陸会議でアメリカ独立宣言を行います。


「すべて平等な権利を持つ人間が、イギリスによる植民地支配という圧政から逃れるために新しい政府を造ることを表明する。」


これはいけました。

負けているにもかかわらず、アメリカ人を一つにまとめ上げます。


黒人やインディアンの人権は無視されていますが、この時代ではここが限界でしょう。

だいたい黒人奴隷はアメリカ人が最初でも最後でもないし。

負け続けても、ここで一気にアメリカが盛り上がります。



...ま、それでも相変わらず負け続ける。

現実変わってませんものね。


1776年9月、ニューヨークで壊滅的な打撃を受け、ワシントンはたった3000で小技で粘り強く戦い続けるがもうじり貧。

独立軍側は「もう負けかなぁ」と帰宅し始めた者多数。

ま、しゃあないね。

アメリカ人の捕虜は5000以上にのぼり、監獄船の中に押し込まれた悲惨な境遇でほっぽっとかれた様子。



そこで第二の起死回生。

イギリス軍が勝ち続けて慢心し、作戦式が杜撰になってきている状態。

逆にアメリカ軍はじり貧ながら、いい加減イギリス人相手に慣れた状態。


大陸会議が開かれる、英軍からすれば首都に見えるフィラデルフィアを占領して米軍を挫くことを目論みました。

占領自体はあっさり成功してます。


しかし、戦いが長引くにつれて当然ながら住民は不評で反抗しまくり。

主戦場がニューヨークとフィラデルフィアになりましたが、どちらの将軍も連携せず。

占領した英将軍パーゴインは包囲され、それを救出出来るハウ将軍はだらだらとやる気なさげに効果のない援軍を送ります。

ま、英軍も相手の首都を占領しても戦争が終わらないとは思わないですもんね。


いろいろ細かな戦術はありますが、なんと英軍負けました。

パーゴイン将軍が無能だの、アメリカ軍の戦術がちとか言われますが、実際の負けた決定打はこれと言ってありません。

とにかく疲れたのかもしれませんね。


相変わらず練度は低いもののアメリカ軍は統一的な戦略をとりはじめ、鉄砲隊を指揮する鼓笛隊を優先的に叩きはじめ、ほぼ全員が狙撃兵としてこもっている敵をだらだらだらだらと戦い、数千人単位がチクチクチクチクと相手を刺す感じ。

よく考えてみれば、アメリカ人的にはホームはここですし、草っ原で野営などあんまりストレス貯まらなそうですし。

最後は降伏。

あまり確たる理由はありません。


なんだかんだで降伏したパーゴイン、米軍に優しくされ、結構紳士的な扱いを受け、美味しい食べ物もいっぱいお土産をもらい、そしてイギリスに帰って天国から地獄、糞味噌に言われました。

どういうわけか、自分は歓待されて英国に帰ったのに、残った兵は捕虜として帰してもらえなかったとか。



そして第三の逆転劇。

この戦いの様相を各国は様子見していたのですが、フィラデルフィア陥落をみて一斉に風向きが変わります。


1778年2月、フランス参戦。

後に王制の象徴となるルイ16世が王制のイギリスではなく、アメリカへ肩入れをするのは妙な者ですが、8年戦争(フレンチインディアン戦争)の怨恨も含めてアメリカ側で参戦します。


1779年、スペイン参戦。

彼もイギリスに北アメリカを取られてます。


1780年、オランダ参戦。

とにかくイギリス大嫌い国。


同、ロシアと同盟。

エカテリーナは英軍が海上封鎖とかして北欧貿易とか制限し始めたのでむかついて参戦。



これで一気にアメリカ側に風向きは変わります。

武器、弾薬も各国から盛大に受け取れるようになります。

こうなると船でえっちらおっちら渡ってきた英軍、せいぜい6万。

一方練度は低いとは言え、米軍は9-27万の潜在兵力を見込めます。


しかも練度もいつまでも低いわけでもなし。

だんだんと鍛えられる米軍。

しかも国際戦争となって、インド、地中海、北海、各国が蠢動し始めてイギリス軍は手が回らなくなり。



決定打は1781年「ヨークタウンの戦い」と言われてます。

今までと違い、海陸一体の戦い。


フランス海軍、チェサピーク湾で疲労した英軍を殲滅、湾の制海権を奪取。

同期してワシントン軍が2倍の兵力でヨークタウン包囲。

米軍はすでに素人ではなく、普通に攻撃し、普通に堡塁を取り、攻略していきます。


英軍は食料も弾薬も底を突きかけて、10月17日遂に降伏。

約7,000名のイギリス軍が捕虜となりました。

堂々と英軍より大規模な軍を動かし、堂々と包囲し、堂々と勝利しました。

ミニットマンと呼ばれた農民に毛が生えたような民兵が夜盗のような戦いをするようなことはもうありません。


ヨークタウンの降伏の報せを聞いてイギリスの首相フレデリック・ノースは直ちに辞任。

彼の後を受けたロッキンガム首相は1783年パリ講和条約でイギリスはアメリカの独立を承認。

米軍は勝利しました。






イギリスはこの戦いで最終的な国の負債は2億5千万ポンドとなりました。

このための利息返済だけでも年間950万ポンド。


フランスは13億リーブル(約5,600万ポンド)を消費しました。

フランスの国の負債は1億8,700万ポンドとなり、1780年時点の歳入の半分以上が負債の返済に消えていきます。


アメリカ合衆国は3,700万ドルの負債。

国民から借り受け、各種寄付でも足りず、1790年代までかかって最終的に負債を解決しました。






1789年2月4日、アメリカ合衆国において最初の大統領選挙が行われました。

選挙人投票率100%の票を得た大統領は、現在までワシントンだけです。


アメリカ合衆国議会第1会期において、大統領の俸給は25,000ドルと決定しました。

借金漬けの政府を慮り、ワシントンはそれを直ちに辞退しました。


ワシントンの妻マーサは、戦後は直ちにマウントバーノンで静かな余生を送りたがっていましたが、夫が大統領になることで毎週のようにパーティーを開くことになります。

衣装はなるべく派手でないように、作法は慎重に、「大統領」という役職も含めて決して肩書きで名を呼ばせないように、ヨーロッパ宮廷のような華美ではない別な形式でのパーティが定着します。

以降の数百年、幸か不幸か「ファーストレディ」という歴代の大統領に比す無償の役職ができあがり、大統領以上に注目されるようになります。



1797年3月、アメリカ合衆国の第一の市民と賞賛されつつ大統領を辞職し、晩年はマウントバートンで改めて農場経営を行います。

蒸留酒、フルーツブランデー、農業経営者として楽しんだようです。


1798年にフランスとの戦争の脅威にさらされ、一瞬だけ最高司令官として一瞬だけ復帰しました。急性喉頭炎に罹患したため、直ちに辞めましたが。


1799年12月12日、農場の見回り中に雨に打たれ、化膿性扁桃腺炎という感染症にかかり、12月14日、自宅で67歳で死去しました。

最期まで付き添ったのは親友の一人ジェイムズ・クレイク医師と個人的な秘書トビアス・リアだけでした。


ワシントンの死後、アメリカ陸軍はその名を「退役」名簿に載せました。

生涯陸軍元帥の地位にあったドワイト・D・アイゼンハワーとジョージ・ワシントンだけです。


アメリカ海軍には彼に敬意を表しその名を付けた艦艇は10隻存在し、ジョージ・ワシントンという名の艦艇は4隻存在します。

1ドル紙幣および25セントコインに使用され、ワシントンDCのジョージ・ワシントン大学も彼にちなんで命名されました。


1860年、江戸幕府の使節が咸臨丸で訪米し、福沢諭吉はワシントンの子孫の近況を知りたいと思ったが、案内人には「よくわからない」と返され、その話は終わりました。

もちろん、彼の子孫はいません。

最初の首長をそのように扱うことが印象的だったのでしょうか?

福沢諭吉は感動してました。




最初のアメリカ大統領は、まるで古き良きアメリカを代表するように生き抜きました。


英雄でもなく、

大天才でもなく、

華美でも派手でもなく、

かといって無能でもなく、


ただ粛々と農場で働き、ただ粛々と民兵として戦い、

その延長として粛々と将軍として戦い、初代大統領として働き、

死ぬ間際までアメリカ市民として生きていきました。


年取って老年と言われ、ニュースに載るような有名人や有能なビジネスマンと知り合いになり、その裏も嘘っぱちさ加減も不幸さも知り、世の中の理を知るようになった後は、彼の生き方こそ感動してしまいます。



有能でというのはたまたま時代にあった能力を表出しただけです。

成功も同じく。


成功した後、成功しなかった後、どのように生きられるかの方が自分「が」幸福になれるかどうかが決まるのかもしれないなぁとふと思ってしまいます。


こんな感慨にふけりつつ、アメリカ独立について締めましょうか。


尚、このおかげで各国は借金漬けになり、次のイベント「フランス革命」が始まります。

正直、「民主主義」も含めてとてつもない人間の醜い所業の集大成です。

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