第31話 信仰の街「タヴナート」
穢れを一切感じさせない、澄んだ鐘の音が響き渡る。
荘厳で、心の奥へ静かに染み入る音色。美しいはずのその響きには、どこか肌を撫でるような不気味さが潜んでいた。
「街まではもうすぐだ」
ジルは鐘の音に僅かに眉を寄せ、先導するように歩いていく。
ラックとローシュは、降り注ぐ音色にうっとりと聞き入っていた。一方のミカだけは、珍しく表情を曇らせている。
「ミカ、どうした?」
様子に気付いたラックが声をかけると、ミカはすぐにいつもの顔に戻った。
「な、なんでもないです! 行きましょう、ラック」
引っかかるものを覚えて首を傾げたが、ラックはそれ以上気に留めずに歩き出す。
鐘の音が尾を引くように薄れていき、入れ替わるように街が目前に迫ってきた。
見上げるほど高い門。
その傍らに立つ守衛たちは、これまでの街とは違い、神秘的な装いに身を包んでいる。
「よくいらっしゃいました。あなた方も祈りを捧げにこの街へ?」
一人の守衛が穏やかに声をかけてきた。
誰よりも早く、ジルが答える。
「ああ、そんなところだ」
守衛は満足そうに目を細め、門をゆっくりと開いていく。
ラックはジルへ身を寄せ、声を潜めた。
「……祈りってなんだよ」
ジルは指を唇に当て、静かに呟く。
「すぐに分かる」
四人は、開かれた門をくぐって街へ入った。
信仰と祈りの街、タヴナート。
そこで四人を待っていたのは、異様な光景だった。
街の至るところに魔石がうやうやしく祀られ、その足元では白装束の信者たちが膝をつき、祈りを捧げている。
「信仰の街……ですか」
ローシュは光景から目を離さずに呟いた。
文化の違い、と言ってしまえばそれまでだろう。だがそれだけでは片づけられない違和感が、胸の奥でじわりと膨らんでいく。
ジルは土地勘があるのか、迷いなく路地へ折れていく。三人は黙ってその背を追った。
やがて街外れに、荘厳な街並みとは不釣り合いな質素な宿屋が一軒、ひっそりと佇んでいた。
「私は少し用がある。日が沈む前に、この宿へ集合しよう」
三人が頷くと、ジルは踵を返して歩き出す。ラックの隣を通り過ぎる瞬間、その耳元で囁いた。
「……ミカから目を離すな」
意味は掴めなかった。それでも、ジルの真剣な眼差しに押されて無言で頷く。
ジルの背中は、そのまま街の人波に溶けて消えた。
「僕は矢を補充してきます」
ローシュは物珍しそうに周囲を見渡しながら、一人で去っていく。
残されたラックとミカは顔を見合わせた。そこへ、ミカのお腹がきゅう、と小さく鳴る。
「お、お腹空いちゃいました……」
ミカは耳まで赤くして、ごまかすように笑った。ラックも思わず吹き出し、二人は食事ができる場所を探して歩き出す。
どこへ行っても、祈る人の姿があった。誰もが同じように、魔石へ頭を垂れている。
魔石を便利な道具としか思っていないラックには、あまりに薄気味悪い光景だった。
「なんか……変わった街だな」
ラックが漏らすと、ミカも小さく頷いた。
「な、なんだか少し怖いですね……」
戸惑いを抱えたまま、二人は街を歩く。
しばらくして、ミカの鼻先を香ばしい匂いがくすぐった。
「ラック、こっちですっ! こっちから美味しそうな匂いが……」
ミカは匂いを辿って駆け出す。
行き着いたのは、大衆的な食事処だった。ミカは臆することなく暖簾をくぐり、ラックも苦笑しながら後に続く。
店内では数人の男女が食事をしているだけで、ごくありふれた光景が広がっていた。
「こ、ここもまた素晴らしい予感がします……!」
ミカは品書きを穴が開くほど見つめ、真剣な顔で注文を重ねていく。
「ミカはほんと食べるのが好きだよなぁ」
ラックは見慣れた光景を微笑ましく眺めながら、自分の料理に箸を伸ばした。向かいでは、卓いっぱいの皿がミカの口へ吸い込まれるように空いていく。
この小さな体のどこに、あれだけの量が消えるのか。何度見ても、ラックには不思議でならなかった。
いつも通りの、穏やかな時間。
それを破ったのは、近くの席から聞こえてきた男女の会話だった。
「聞いたか? 魔女がまた現れたらしい」
声に、噂話を楽しむような好奇心はなかった。滲んでいたのは、はっきりとした憎悪だった。
「またか……。まったく穢らわしい。俺の目の前に現れたら、その不浄な魔女をこの手で殺してやるのにな」
ミカの手が止まる。
街で魔女への不安の声を聞いたことは、これまでにもあった。だが今回は違う。肌を刺すような敵意と悪意が、そこにはあった。
先程までの幸せな食事が嘘のように、ミカは俯いたまま動かない。
「っ……! お前ら──」
立ち上がりかけたラックの腕を、ミカの手が掴んだ。
何も言わない。泣きそうな瞳のまま、ただ首を横に振る。
「ボウズ、どうした?」
魔女への敵意を語っていた男女が、不思議そうにこちらを見ている。
ラックはミカの手を引き、無言のまま店を飛び出した。
人気のない路地裏に、ラックの声が響く。
「なんで止めたんだよ!」
ラックは珍しく怒っていた。ジルの過去を聞いたばかりだったこともあり、魔女というだけでひと括りにする言葉が、どうしても許せなかったのだ。
ミカは俯いたまま、かすれた声で答える。
「私達が嫌われてるのは、分かってるから……。そこにラックを巻き込みたくない」
それは偽りのない本心だった。
旅立つ前、母から聞かされていたのだ。この世界には、魔女を傷つけようとする者が大勢いるのだと。
理由はまだ分からない。ただ、自分のせいでラックまで傷つくことだけは、どうしても耐えられなかった。
ラックは長く息を吐き、煮えたぎる感情をゆっくりと鎮めていく。
ミカに怒りをぶつけるのは間違いだ。そう分かっていた。
「ごめん……ミカ。お前のほうがしんどいのにな」
ミカは強がるように笑い、首を横に振る。
あのまま突っかかっていれば、騒ぎが大きくなり、ミカが魔女だと露見していたかもしれない。
目の前の怒りに身を任せた自分が、ラックは腹立たしかった。
二人は無言のまま、人気のない路地を歩く。
やがて小さな広場に行き当たり、ベンチに並んで腰を下ろした。
「ねぇ……ラック」
ミカが、弱々しい声で口を開く。
「私達は……どうして嫌われてるのかな? 私……いけないことしちゃってるのかな?」
ラックはミカの肩を掴み、まっすぐに瞳を見据えて言い切った。
「そんなことないッ! ミカは何も悪くない。こんなに優しい奴なんて、他にいないよ」
ミカの表情が、少しだけほどける。
「私、知りたい……。この世界のことも、私達のことも」
「お母さんもみんなも、本当に優しいから……。きっと、どこかに悪い魔女がいて、いっぱい悪いことをしたから嫌われてるのかな……」
ミカは空を見上げ、ぽつりと呟いた。
ラックはその頭を優しく撫で、穏やかに言う。
「ああ、きっとそうだ。だから、俺達で悪い魔女をやっつけよう。そしたら、みんなもあんなこと言わなくなる」
ミカは大きく頷いた。
この街は嫌いだと言ったジルの言葉が、ラックにも少しずつ分かり始めていた。
魔女を恐れること自体は、おかしくも何ともない。だがこの街の敵視は、明らかに常軌を逸している。
その異常さに、ラックは胸の内が静かに冷えていくのを感じていた。
「戻ろう、ミカ」
ミカが頷き、二人は宿へと歩き出した。
◇◇◇
──タヴナート大聖堂。
日夜、数えきれない人々が祈りを捧げる場所。賛美歌が静かに堂内を満たし、信者たちは中央に据えられた巨大な魔石へ、ひたすらに祈りを捧げ続けている。
その大聖堂の一室に、一人の騎士の姿があった。
信者の立ち入りが許されない、聖域である。腰を下ろしたジルの向かいには、一目で教団の高位聖職者と分かる男が座っていた。
タヴナート教団本部の最高司祭、マエラス。
神に全てを捧げ、唯一神から名を賜ったと信じられている男だ。
誰よりも信心深く、最も神に近い存在とされるその男が、いまジルの目の前にいる。
「久しぶりだね、ジルテスタ」
マエラスは、旧知の友へ語りかけるように親しげに言った。
ジルは出された茶を静かに口に含む。
「最後に会ったのは、私が団長を剥奪された少し後か……」
マエラスは湯気の立つ茶へ目を落とし、懐かしむように目尻を緩めた。
かつて英雄と呼ばれ、ジルを育て上げたヴァルド。マエラスは、その古い友人でもある。
幼い頃のジルに何度も会い、テスタのことも、最初から知っていたのはマエラスだけだった。
「良い仲間に出会えたのかな? まるで昔の君を見ているようだ」
ジルの口元に、小さな笑みが浮かぶ。
「賑やかだが……良い奴らだよ」
マエラスは満足げに頷いた。
ヴァルドを失い、さらにテスタまで失った後のジルは、見ていられなかった。自らの命を削ってまで人を斬る獣。そのジルが、あの頃のように穏やかな顔をしている。
それが、マエラスには嬉しくてたまらなかった。
「僕のところへ来たということは、聞きたいことがあるんだね?」
ジルは頷き、静かに問う。
「魔女とは……一体何なんだ?」
マエラスは答えず、ただ茶をすする。やがて何かに思い至ったように、ゆっくりと口を開いた。
「もしかしてだけど……君は今、魔女と旅をしているのかい?」
ジルの目が僅かに見開かれる。だが、この男に隠し事は通じないと悟ったのだろう。観念したように答えた。
「ああ……。テスタによく似た、優しい魔女だ」
マエラスは、腑に落ちたように頷く。
「そうかい、テスタによく似た子か……。それはきっと良い子なんだろうね」
そう呟いて、席を立った。
「なら、その子と仲間たちも連れておいで。その時に、この街のことと魔女のことを、僕の知る範囲で教えてあげよう」
ジルは頷き、深く頭を下げて部屋を後にする。
残されたのは、マエラスと、まだ湯気の立つカップが二つ。
「ジルテスタ、君は前に進むことができたんだね。ヴァルド……僕はこんなに歳を取ったのに、まだ悩んでいるよ」
誰もいなくなった部屋に、旧友の名がぽつりと落ちた。
◇◇◇
日が傾き始める頃、四人は宿に集まっていた。表通りから外れた宿の主人は無愛想だが、仕事ぶりには丁寧さが滲んでいる。
ラックは、部屋に来たジルとローシュに昼の出来事を話して聞かせた。
ミカはベッドの端に腰を掛け、何も言わず足を揺らしている。
「……そうか。それはすまないことをした」
ジルは申し訳なさそうに目を伏せた。
「初めての街だ。お前たちが楽しめるようにと黙っていたのが、裏目に出たな……」
顔を上げたジルは、真剣な表情で語り始める。
「この街が信仰の街だと言ったのは、覚えているな?」
ローシュが頷く。
「ええ。ただ、祈りの対象には違和感がありますが……」
ラックも同じことを感じていた。住人たちは、街中に祀られた魔石へ祈りを捧げている。まるで、あれこそが神であるかのように。
「この教団が神と崇めているのは、魔石そのものと言っていいだろう」
ジルは続ける。
「この国では昔から、魔石は『神からの奇跡』だと考える信仰がある。魔導具は、神が人間に与えた道具だとな」
ラックとローシュは納得して頷いた。
「だがこの街では、その信仰が強すぎる。その結果、何が起きると思う?」
三人は考え込む。違和感はあるのに、答えへ手が届かない。
その答えは、ジルの口から告げられた。
「神が与えた奇跡の恩恵を受けず、己の力を振るう者を排除しようとする」
ラックとローシュはハッとした。散らばっていた点が、一本の線に繋がっていく。
「そうか……だからこの街は、魔女にあんなに過剰だったのか……」
ラックは昼の出来事を思い返しながら呟いた。
魔石への信仰が強すぎる街で、魔石にも魔導具にも頼らない魔女の力は、神への冒涜に等しい。
そこへ魔女がもたらした被害が重なり、敵意は殺意にも近い感情となって、街に渦巻いていたのだ。
「だから、ジルはこの街が嫌いなんだな……」
ジルは頷く。
「できればこの街には立ち寄りたくなかった。すまない、ミカ。……辛い思いをさせた」
ジルが頭を下げると、ミカは慌てて止めに入った。
「だ、大丈夫ですから……! 頭を上げてくださいっ!」
ジルは顔を上げ、三人を見渡して続ける。
「明日、お前たちに会わせたい人がいる。特にミカ。……知りたいことがあるんだろう?」
「明日会う人に尋ねてみるといい。安心しろ、私よりも優しい人だ」
ミカの肩から、ふっと力が抜けた。
ジルはこれまで、あえてミカを魔女の情報から遠ざけてきた。魔女がもたらした被害も、魔女にまつわる事件も。
だが目の前の小さな魔女は、怯えながらも、自分の足で前へ進もうとしている。
もはやジルに、それを止める権利も、つもりもなかった。
傷つくこともあるだろう。泣きたくなる夜も来るかもしれない。
それでも、この優しい魔女なら。この仲間たちとなら、きっと進んでいける。
ジルはそう信じていた。
「明日の朝一番に向かう。なんせ忙しい人だからな」
「今日は早く休め」
そう言い残し、ジルは静かに部屋を出ていく。
ラックとローシュも、それぞれの部屋へ戻っていった。
一人になった部屋で、ミカはぼんやりと考えを巡らせる。
ジルも、ラックも、ローシュも。三人とも、自分自身のことを知っている。けれど自分だけが、何も知らない。
母ルシエラの顔を思い浮かべながら、ミカは布団に顔を埋めた。
「お母さん……。私、知るのが怖い……。でも、ちゃんと自分たちのこと、知らなくちゃだめだよね……」
大好きな母の面影を抱いたまま、ミカは眠りの淵へと沈んでいく。
意識が途切れる寸前、左手の腕輪が淡く光った。ラックとお揃いの腕輪。
励ましてくれている、そんな気がして、ミカはそっと夢の中へ落ちていった。




