第八章 観光と生活のあいだ
実家から出発したのは、月曜日の午後だった。
伊予上灘から鉄道で松山、松山から特急しおかぜで岡山、岡山から新幹線で西明石、在来線で明石。帰りの道も同じルートで、同じだけの時間がかかった。でも行きとは何かが違った。行きは、乗り継ぎのたびに故郷へ近づいていく感覚があった。帰りは、乗り継ぎのたびに日常へ戻っていく感覚ではなく、ただ移動しているだけ、という感じだった。
どちらでもない場所を、移動している。
瀬戸内海を渡るとき、窓から海を見た。行きと同じ海なのに、光の角度が違うだけで色が変わっていた。夕方の海は、青より灰色に近い。それでもきれいだった。
明石駅に着いたのは、午後七時前だった。
改札を出て、いつもの道を歩いた。鞄が重かった。体が重いのではなく、何かを持ち帰ってきた感覚が、重さとして出ている気がした。
アパートに帰って、荷物を置いた。
シャワーを浴びて、簡単に食事をして、それからソファに座った。
何もしない時間が少しあって、小春はスマートフォンを取り出した。下灘で撮った一枚の写真を開いた。夕日の写真だった。特別うまい写真ではないが、今日の自分が撮ったものだという確かさがある。
しばらく見て、また閉じた。
翌朝、オフィスに行くと美緒が待ち構えていた。
「おかえりなさい。どうでしたか、下見」
「行ってよかった」
「写真、撮れました?」
「ロケ地の下見分は撮った。送ります」
「やった。あと、実は小春さんが帰省してる間に、向こうから連絡が来てたんですよ」
美緒はパソコンの画面を向けた。雑誌社からのメールで、企画の方向性についての確認と、いくつかの提案が書いてあった。
「読んでもいいですか」
「どうぞ」
小春はメールを読んだ。
雑誌社の担当者は、企画を二つの方向で考えているようだった。一つは、下灘駅と明石天文科学館を対比的に取り上げ、夕日と標準時という視覚的に強いキーワードで引っ張るパターン。もう一つは、瀬戸内海を軸に両地域をつなぎ、より読み物として深みのある特集にするパターン。前者の方が読者へのリーチが広く、後者の方がコアな読者に刺さるという見立てが書いてあった。
「どっちがいいと思いますか?」
美緒が尋ねると、「後者」と小春はすぐに答えた。
「ですよね。でも前者の方が数字は出やすいんですよね」
「分かってる」
「両方の要素を入れて、入口は前者で中身は後者、みたいな構成にするのが現実的かなと思うんですけど」
「そうかもしれない」
「小春さん、なんか少し変わりました?」
「変わった?」
「なんか、はっきりしてる。いつもより」
美緒は首を傾けた。
「帰省、よかったんですか」
「よかった」
「そうか。よかったです」
美緒は満足そうに頷いて、
「じゃあ今日の午後、三人で打ち合わせしますか」と続けた。
午後の打ち合わせで、小春は帰省中に見てきたことを話した。
下灘の状況、観光客の増加と地元住民とのあいだの摩擦、蒼から聞いた観光協会の取り組み、颯太という高校生のこと。事実として話したが、そこには自分が感じたことも自然と混じった。
宮田さんが聞いていた。
「地元の視点が入るのは強い。観光地として消費されることへの複雑さを、地元の人間が語る形が取れると、記事に厚みが出る」
宮田さんは言う。
「ただ、その複雑さを全面に出すと、観光プロモーションとしての機能が弱くなる。バランスが必要ですよね」
美緒は意見する。
「バランス、というより、複雑さを隠して伝えることが、本当に伝えることになるかどうか、と思って」
小春がそう言うと、二人が小春を見た。
美緒が少し考える顔をした。
「隠してるわけじゃなくて、整理するってことじゃないですか」
「整理と、削ることは違うと思う」
「そうですね」
美緒は頷いた。
「でも、複雑さをそのまま出したら、読者が受け取れないこともある」
「そこが難しいんだけど」
宮田さんが二人を見た。
「まず取材を進めろ。議論はその後でいい。素材が揃ってから悩め」
それで打ち合わせは終わった。
小春は正しいことを言えたかどうか分からなかった。ただ、これまでなら言わなかったことを言えた、という感覚はあった。
その日の夕方、美緒から社内チャットにメッセージが来た。
「さっきの話、もう少し聞いてもいいですか。仕事の話として」
小春は「いいよ」と返した。
定時後に二人でオフィスに残った。他の社員はほとんど帰っていた。
美緒はコーヒーを二つ持ってきて、小春の向かいに座った。
「正直に聞くんですけど、小春さんが双海を候補地にすることに、個人的に複雑な気持ちがありますよね」
小春は少し驚いた。見えていたんだ、と思った。
「ある」と正直に言った。
「故郷だから?」
「それもある。でもそれだけじゃなくて」
「どういうこと?」
小春は考えた。うまく言葉にできるかどうか分からなかったが、やってみることにした。
「あの場所が、映える場所として有名になった経緯があって、それ自体は否定できない。でも有名になることで、そこに住んでる人の日常が変わった部分もある。蒼が言ってた話で、地元の人が列車に乗りにくい時間帯がある、とか。そういうことを知ってて、その場所の魅力を伝える仕事をするときに、知ってることと伝えることのあいだに、どこまで誠実でいられるか、が引っかかってる」
美緒はそれを聞いて、少しの間黙っていた。
「それは、すごく大事なことだと思う」
「バランスの話じゃなくて?」
「バランスって私よく言うんですけど、自分で言いながら、何と何のバランスなのかを、ちゃんと考えてないときがある。小春さんが言ってることは、もっと根っこの話ですよね」
「そうかもしれない」
「観光として見せることと、生活として見せること。どっちかを選ぶんじゃなくて、どっちも本当のことで、その両方をちゃんと書く。――それを目指したい、ってことですよね」
「そう思う」
「難しいけど、そっちの方がやりたいです。でも、読んでもらえないと意味ないですよ。入り口がなかったら、その先の生活まで読者は来てくれないです」
小春は少し意外だった。
美緒は、もっと「伝わればいい」と割り切る人だと思っていた。
「ありがとう」
「何が?」
「聞いてくれて」
「私こそ。打ち合わせのとき、ちゃんと受け取れてなかった気がして。だから聞きたかった」
翌日、小春は観光協会に電話した。
蒼ではなく、正式な問い合わせ窓口に電話して、取材の打診をした。蒼を通すことも考えたが、公的な窓口から入る方が筋だと思った。後でそのことを蒼に伝えると、「そうしてくれた方がやりやすい。ありがとう」と返ってきた。
続いて、白石颯太の連絡先を確認するため、蒼に頼んでいた件を確認した。蒼が颯太の親御さんに確認を取ってくれていて、取材に協力できるとの返事が来ていた。
「ただ、颯太くん本人から確認してほしいって、お母さんが言ってた。本人の意志で話してほしいから」
「そうします。連絡先を教えてもらえる?」
「送る」
颯太に短いメッセージを送った。先日下灘でお会いした渡部です。と書いて、取材の相談をしたいことと、嫌なら断ってもらって構わないこと、断ったことで何か困ることはないことを書いた。
三十分ほどして返信が来た。
『大丈夫です。話せることなら話します』
短かったが、颯太らしかった。
☆
次の週末、小春はふと思い立って、山陽明石から電車に乗った。
特急は、思っていたより早く東二見に着いた。
駅を出て少し歩くと、海の近い町の匂いがした。細い路地の向こうに古い家並みが続き、角を曲がると、昔のまま時間が残っているような風景があった。
双海とは違う。違うのに、どこか似ていた。海のそばで、風を避けるように寄り添って建つ家の感じだけが、記憶の奥を静かに触れた。
☆
翌週末、小春はもう一度下灘を訪れた。松山でレンタカーを借りた。列車だけでは動きにくく、このあたりを回るには車の方が便利だった。
今度は仕事の下見ではなく、颯太と会う約束で来た。ただ、その境界は実際にはあいまいだった。颯太への取材を兼ねながら、でも取材だけではない何かがある。
颯太は駅のホームで待っていた。
今日も私服で、フィルムカメラを持っていた。小春を見つけると、軽く手を上げた。
「来てくれてありがとう」
「こっちこそ。取材って言われたの、初めてで」
「緊張してる?」
「少しだけ」
「難しいことは聞かないから」
「大丈夫です」
二人でホームの端に移動した。今日は曇りで、海の色が鈍かった。でも颯太はカメラを構えた。晴れでも曇りでも、ここに来ればカメラを向けるのだと分かった。
「さっきも聞いたかもしれないけど。ここが好きな理由を、もう少し教えてもらえる?」
颯太は少し考えた。
「好きな理由、って難しいんですよね。生まれた頃から見てきた場所だから、好きとか嫌いとか考えたことがあんまりなくて」
「当たり前すぎて?」
「そう。でも観光客の人がすごく感動するのを見てるうちに、ここって特別なのかな、って思い始めて」
「外の目で見るようになった?」
「見るようになって、でもそれだけになりたくないな、とも思って。外から来た人の見方が正しいのかどうか、分からないから」
「どういうこと?」
「来た人は、夕日が見たくて来る。夕日はきれいだから、感動する。でも」
颯太は少し止まった。
「ここが夕日の場所だけになるのは、違う気がして」
「夕日の場所だけではない、というのは?」
「この駅を使って学校や職場に行ってた人が、ずっとおるわけで。朝、ここから通勤通学した人が雨の日も、寒い日も、別に夕日とか関係ない日にも、この駅に来てた人が。それがこの場所の本当のことだと思うんです」
小春はノートに書いた。
夕日の場所だけではない。朝があって、通学があって、雨の日があった。
「颯太くんも、ここから通学してるの?」
「してます。最寄り駅がここなんで」
「毎朝、ここを使ってるんだね」
「そうです。だから、観光客が大勢いる夕方のここと、誰もいない朝のここと、両方を知ってて、朝のここの方が、好きかもしれないです」
「教えてもらえる? 朝の下灘」
颯太は少し恥ずかしそうにしてから、話し始めた。
早朝に来ると、海が静かで、光がまだ低くて、ホームに誰もいない。列車が来て、自分が乗って、また誰もいなくなる。その間の十分くらいが、一日の中で一番好きな時間だと颯太は言った。
「それを写真に撮るの?」
「撮ります。でも早朝の光はフィルムが難しくて。まだうまく撮れてない」
「うまく撮れてないけど、続けてる?」
「続けてます」
「なんで?」
颯太は少し笑った。
「いつかうまく撮れる気がするから」
颯太と別れた後、小春は駅のホームに残った。
曇りの夕方で、夕日は見えなかった。観光客が何人か、空を見上げては諦めた顔をして帰っていった。
夕日が見えない日の下灘は、どんな場所として記憶されるのだろう、と小春は思った。
夕日が見えなくても、ここはここだ。
颯太が毎朝来るのは、夕日のためではない。観光客が来るのは夕日のためだが、この場所が存在するのは夕日のためではない。
仕事として、どう書くか。
美緒との会話を思い出した。観光として見せることと、生活として見せること。どちらかを選ぶんじゃなくて、どちらも本当のことで、その両方を書く。
その両方を書く、ということが、この場所でどういうことになるか。
夕日の写真は強い。それは分かっている。でもその写真の中に、颯太が毎朝ここから乗る列車のことが、何かの形で入らなければいけない。雨の日のこのホームが、入らなければいけない。そうでなければ、本当のことを伝えたことにならない。
どうやって入れるか。それが今の自分の問いだった。
小春はノートを閉じた。
答えはまだなかった。でも問いが具体的になってきた。問いが具体的になることは、書く前に必要なことだ。
ホームを降りて、駐車場へ向かいながら、小春はスマートフォンを取り出した。
美緒にメッセージを送った。
「今日、颯太くんに会ってきた。いい話が聞けた。今度共有します」
すぐに既読がついて、「楽しみにしてます」と返ってきた。それから少し間があって、もう一つメッセージが来た。
「小春さんが書く記事、読みたいです」
小春はそれを読んで、少しだけ前に進んだ気がした。
書けるかどうかは、まだ分からない。でも書きたいと思っている。その気持ちが、今日は昨日よりはっきりしている。
車に乗って、明石への帰り道を走り始めた。
海沿いの道を走りながら、窓の外に暮れた海を見た。夕日はなかったが、雲の隙間から薄い光が落ちていた。
光は毎日変わる。
颯太が言っていた。同じ場所でも、時間と天気で全然違う写真になる。
記事も、同じかもしれない。
同じ場所について書いても、どの時間を切り取るかで、全然違うものになる。
小春は運転しながら、今日の颯太の言葉をもう一度頭の中で確かめた。
朝のここの方が、好きかもしれないです。
その言葉を、記事のどこかに入れたいと思った。夕日の写真が表紙になっても、その言葉が記事の中にある。そういう記事にしたかった。
今回はとんぼ返りだった。
下灘へ向かう途中で実家に少しだけ寄り、両親に顔を見せただけ。
明石までの道のりは長い。けれど、その長さが今日は苦にならなかった。




