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夕日の町と、標準時の街― 海をはさんだふたつの時間  作者: 明石竜


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7/11

第七章 夕日の駅

 翌日、小春は一人で下灘へ向かった。

 昨日は蒼と一緒だったから、今日は仕事として来ようと思っていた。取材用のノートとカメラを持って、ロケ地の下見として見るべきものを見る。そのつもりで車を出した。

 でも海沿いの道を走りながら、仕事として来る、という構えが少しずつ崩れていくのを感じた。

 山と海が交互に現れる道は、昨日も走った。それでも、今日は少し違って見えた。景色を受け取る速度が、違う。

 駐車場に車を停めて、駅のホームに上がった。

 時刻は午後三時を少し過ぎていた。

 昨日よりは人が少なかったけど、相変わらず賑わっている。観光客たちがそれぞれ思い思いの場所に立って海を見ていた。一人で来ている人、カップル、年配の夫婦。みんな、同じ方向を向いている。

 小春はホームの端に立った。

 海が、広かった。

 当たり前のことを思った。ここに来るたびに思う。広い、という感想しか最初は出てこない。でもしばらく見ていると、広さの中に細かいものが見えてくる。波の動き、光の散り方、遠くを行く船の小ささ、水平線のわずかな曲率。

 小春はノートを開いた。

 下見として書き留めるべきことを、いくつかメモした。ホームの幅、柵の位置、光が入る方向、撮影に適した時間帯の見当。カメラマンが来たときに案内できるよう、具体的に書いておく。

 それをしながら、でも頭の半分は別のことを考えていた。

 昨日、蒼に言われた言葉がまだある。

 知らん町みたいに言わんで。

 言われてから、自分がこの町をいつから「知らない町のように」扱い始めたのかを考えていた。いつから、というより、どこから、という問いかもしれない。

 明石に就職したとき、地域PRの仕事を始めたとき、愛媛を企画の候補地として眺めるようになったとき。

 どこかで、故郷を素材として見る目が育っていた。その目が悪いとは思わない。仕事として必要な目だ。でも、それだけになっていたかもしれない。


 シャッター音がした。

 少し離れたところで、高校生らしい男の子がカメラを構えていた。

 フィルムカメラだった。一眼レフではなく、コンパクトなフィルムカメラで、ファインダーを覗いて、慎重にシャッターを切っていた。観光客とは少し違う立ち方をしていた。馴染んでいる、という感じの立ち方だった。

 男の子は小春の視線に気づいて、軽く会釈した。

 小春も頷いた。

 男の子はまた海の方へカメラを向けた。今度はホームの柵の端を、海を背景に撮っていた。観光客が撮る構図とは、少し違う。風景そのものより、風景の中にあるものを撮っている。

 しばらくして、男の子の方から近づいてきた。

「地元の人ですか」

 声は低く、落ち着いていた。十六、七歳くらいに見えた。制服ではなく私服で、日曜だからか学校帰りという感じでもない。

 小春は答えに一瞬詰まった。

 地元の人ですか。

 その問いに、はい、と言えるかどうか。大学を出る七年前までは言えた。でも今は。

「昔は地元だったんだけど。今は明石に住んでて」

「明石って、兵庫の?」

「そう」

「遠いですね」

 男の子は言った。遠い、という言葉が、責めでも驚きでもなく、ただの確認として出てきた。

「帰省ですか」

「仕事の下見も兼ねて」

「下灘を取材するんですか」

「そういう企画があって」

 男の子は「そうですか」と言って、海の方を見た。それ以上は聞いてこなかった。観光客によく話しかけられているのかもしれない。対応に慣れている。

「高校生?」

「はい。高一です」

「そっか。ここ、よく来るの?」

「来ます。学校ある日は、だいたい」

「地元だから?」

「それもあるし」

 男の子は少し考えてから言った。

「光が変わるから」

「光が?」

「同じ場所でも、時間と天気で全然違う写真になるんで。飽きないんです」

 その言葉を聞いて、昨日蒼から聞いた話を思い出した。七年間、同じ場所で撮り続けている人がいる。この男の子は高校生だが、同じ感覚を持っている。

「フィルムカメラで撮ってるんだね」

「デジタルも持ってるんですけど、フィルムの方が好きで。現像するまで分からないのが、なんか合ってて」

「現像するまで分からないのが好きなの?」

「結果がすぐ見えないっていうか」

 男の子は少し言葉を選んだ。

「撮ったときに何が映ってるか分からないまま、しばらく過ごして、それから分かる感じが」

 小春はそれを聞いて、面白いと思った。結果がすぐに分からないことを、好きだと言う高校生がいる。今の時代に。

「名前、聞いてもいいですか」

 小春は話しかけた。仕事の相手として話すかもしれない、という感覚で。

「白石颯太です」

「渡部小春といいます。伊予上灘の方に実家があって」

「あー」

 颯太は少し頷いた。

「じゃあ、渡部さんも下灘にも来てたんですか、子どもの頃」

「たまに。この駅がSNSとかでこんなに有名になる前から、来てたよ」

「そうですよね。地元ですもんね」

「観光客が増えたことについて、颯太くんはどう思う?」

 小春は下見のメモとは別に、この問いへの答えを聞きたかった。

 颯太は少し間を置いた。急いで答えようとしない。田中と似た間の取り方だ、と小春は思った。

「複雑です。来てくれるのはいいと思う。でも」

「でも?」

「この駅のことを、来たことない人が語るのを見ると、少し変な感じがして」

「SNSとかで?」

「ネットで拡散された写真を見て、自分も来た、みたいな人が多くて。それ自体は別にいいんですけど」

 颯太は言葉を探した。

「その人たちの言葉の中に、ここで暮らしてる人が出てこないっていうか」

「景色として消費される、ということ?」

「そうかもしれないです。でも消費っていう言葉も、少し違う気がして。うまく言えないんですけど」

 小春はノートに書いた。景色として消費されることへの違和感。でもそれを消費と言い切ることへの躊躇。

「ここが好きなの?」

 小春が尋ねると、

「好きです」

 颯太は迷わず答えた。

「ここで育ったから、好きっていう感覚が当たり前すぎて、改めて聞かれると照れるんですけど」

「そっか」

「渡部さんは?」

 小春は少し驚いた。自分が聞かれるとは思っていなかった。

「好きだと思う。ただ、好きだって言うのが、昔は少し苦手で」

「なんで?」

「出てきたくせに、みたいな気持ちがあって」

 颯太はそれを聞いて、少しだけ眉をひそめた。

「それ、関係なくないですか」

「今はそう思うんだけど」

「出てっても、好きなものは好きなままじゃないですか」

 高校生が簡単に言った。でもその簡単さは、間違っていなかった。


 颯太と話しながら、ホームの端まで歩いた。

 柵の向こうに海が広がっている。波が静かだった。遠くに小さな島の影が見えた。

「颯太くんは、ここを出ることを考えてる?」

 小春が尋ねると、颯太は少し沈黙した。

「考えてます。進路のことで、出るかどうかを決めないといけなくて」

「どっちに気持ちが向いてる?」

「分からないんです」

 颯太は正直に言った。

「出たいか出たくないかで言ったら、出たい気持ちはある。でもここを離れることが、どういうことかも、何となく分かって。その両方があって、決められないでいる」

 小春は、自分の十七歳の頃を思った。

 あの頃の自分は、出たいとはっきり思っていた。でもここを離れることがどういうことかを、あの頃の自分は分かっていなかった。分かっていなかったから、もう戻らない、と簡単に思えた。

「出てから分かることもある。でも、出る前に分かってることを、ちゃんと持っといた方がいいかもしれない」

「出る前に分かってること?」

「ここで何を見てきたか、とか」

 颯太はそれを聞いて、カメラを見下ろした。

「写真があるか」

「そうかもしれないです」

 颯太は少し笑った。

「でも写真だけじゃ足りない気もして」

「どんなものが足りない?」

「ここの匂いとか、列車が来る音とか、冬に風が強い日の感じとか。写真に映らないものが、実はいっぱいあって」

「それを覚えてるだけで、十分かもしれないよ」

 颯太はしばらく黙って、海を見た。

 小春も黙って、同じ方向を見た。

 列車の音が遠くから来た。ホームに人が集まってきた。今日の列車が来る時間らしかった。観光客がカメラを構え始める。

 颯太もカメラを上げた。

 列車が入ってきた。夕方前の光を受けて、車体が橙に染まった。シャッター音が重なった。

 小春は今日もカメラを出さなかった。

 でも今度は、出さないことを意識しなかった。ただ、見ていた。列車と海と、空の色と、そこにいる人たちと。

 列車が去った後、颯太がフィルムカメラをぶら下げながら言った。

「今日のは、いいのが撮れた気がします」

「現像するまで分からないんじゃなかった?」

「感覚的に分かるときもあるんです」

 颯太は少し照れたように言った。

「撮った瞬間に、これだって思うときが、たまにあって」

「その感覚を信じてるんだね」

「信じるしかないんで」

 その言い方が、うまく言葉にできなかったが、何かと重なった。


 颯太と別れて、小春は一人でホームに残った。

 日が傾いてきた。まだ昨日見たような夕日には早いが、光の色が変わり始めている。

 ノートを開いた。

 今日メモしたことを読み返した。ロケ地の情報、颯太との会話の断片、景色の描写。それから、自分が感じたことをいくつか。

 この駅を、自分は何もない場所だと思っていた時期がある。

 高校生の頃、この町には何もない、と思っていた。その「何もない」の中に、この駅も含まれていた。田舎の無人駅、という記号に、この場所を押し込めていた。

 でも、何もないのではなかった。

 光が変わる場所だった。週に何回も来る高校生がいる場所だった。七年間、同じ方向を向き続ける人がいる場所だった。蒼が地元の人の声を聞き続けている場所だった。

 それを「何もない」と見ていたのは、自分の目の方だった。

 小春はノートにそれを書いた。メモとして書いたのではなく、確認として書いた。

 夕日が始まろうとしていた。

 昨日は蒼と並んで見た。今日は一人だった。一人で見る夕日は、昨日と同じ夕日ではなかった。角度が同じでも、隣に誰かがいるかどうかで、見え方が変わる。

 空が橙になり、海がそれを映した。

 小春はスマートフォンを取り出した。

 カメラアプリを開いて、夕日を撮った。

 一枚だけ、撮った。

 撮ってから、画面に映った写真を確認した。夕日の写真としては、特別うまく撮れているわけではなかった。ただ、今ここにあるものを、今ここで撮った写真だった。

 小春はその写真を、しばらく見ていた。

 誰かに送ろうとは思わなかった。

 母に送ろうか、と一瞬思った。でも送らなかった。蒼に送ることも、考えなかった。田中に送るのは、もっと違う。

 誰にも送らないまま、スマートフォンをポケットに戻した。

 この写真は、今日の自分のためだけにある。そう思った。誰かに見せるためでも、企画に使うためでもなく、ただ今日この場所に自分がいたことの記録として。

 夕日が沈んでいく。

 海の向こうに、太陽が落ちていく最後の時間を、小春は立ったまま見ていた。

 颯太が言っていた。写真に映らないものが、いっぱいある、と。

 その通りだと思った。

 この匂い、この風の温度、列車が去った後の静けさ、足元の古いホームの板の感触。写真には映らない。でも体は覚えている。

 明石に帰ったとき、この感覚がどこかに残っている気がした。

 残っているものが何かは、帰ってから分かることかもしれない。颯太のフィルムカメラのように、現像するまで分からない。でも撮った瞬間に、これだと思う感覚が、今日の小春にも少しあった。

 夕日が、水平線に溶けた。

 空の橙が薄くなって、青に戻っていく。

 小春はポケットの中のスマートフォンを確かめた。写真は一枚、そこにある。

 明日、明石に戻る。

 その前にもう一度、実家の店に寄って、両親と夕食を食べる。それだけのことが、今の小春にはちゃんと大事なことに思えた。

 ホームを降りて、駐車場へ向かいながら、空を見上げた。

 一番星が出ていた。

 明石の夜の空にも、同じ星が出る。田中が言っていた言葉を思い出した。同じ空を見ている、という話。

 標準時の線がどこを通っていても、夕日がどこで沈んでも、空は続いている。

 小春は車に乗って、エンジンをかけた。

 海沿いの道を、実家の方へ走り出した。


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