第六章 残った人の時間
翌朝、蒼から連絡が来たのは八時過ぎだった。
『今日、下灘行くんやろ。一緒に行っていい? 午後から時間取れるけん』
短いメッセージで、絵文字がない。蒼は絵文字を使わない。昔からそうだった。文字だけで、でも温度がある書き方をする。
小春は『ありがとう。十三時に下灘の駅で』と返した。
既読がついて、すぐに『了解』と来た。
それだけのやりとりで、なぜか少し安心した。
午前中は、店を少し手伝った。
土曜日は平日より客が多い。常連に加えて、ふらりと入ってくる顔も何人かいた。父は変わらず、過不足なく対応していた。
小春は注文を取って、料理を運んで、空いた皿を下げた。昨日より動きが馴染んでいた。体が少し、この場所を思い出してきていた。
正午前に母が「もう行っておいで」と言った。
「昼食べてからでもいいけど」
「向こうで食べればいい。蒼ちゃんと一緒なんやろ」
「うん」
「久しぶりやけん、ゆっくりしてき」
母の声は明るかったが、少しだけ後押しの力が入っていた。会わせてあげたい、という気持ちが透けて見えた。小春はそれを受け取って、エプロンを外した。
下灘駅へは、車で十分ほどだ。
海沿いの国道を走ると、途中で視界が急に開ける場所がある。山と山のあいだから海がのぞき、その瞬間だけ、世界が広くなる。子どもの頃から好きな場所で、今日もそこを通るときに、小春は少しだけ速度を落としたくなった。
やがて、閏住の菜の花畑が見えてきた。ちょうど咲き始めたばかりらしく、黄色はまだやわらかく、海の青の手前で春だけが先に着いていた。
下灘駅の近くの小さな駐車場に車を停めた。
平日より人が多かった。観光客らしいグループが何組かいて、カメラを持った人が多い。駅のホームへ続く階段を上がると、海が見えた。
ホームは細長く、線路一本分の幅しかない。その向こうが、すぐ海だった。空と海の境目が、水平線として一本引かれている。今日は雲が少なく、青がよく出ていた。
十三時より少し早く着いたが、蒼はすでにいた。
駅のホームの端、柵に背中を預けて立っていた。スマートフォンを見ていて、小春が近づくと気がついて顔を上げた。
「小春」
「久しぶり」
「久しぶり」
蒼は繰り返した。抱き合うでもなく、握手をするでもなく、二人はそのまま並んで海を見た。それが自然だった。久しぶりの再会にしては、挨拶が淡い。でも余計な感情を先に置かない、蒼らしいやり方だと思った。
「明石、どう?」
「普通に暮らしてる」
「仕事は?」
「まあまあ」
「まあまあって、好き?」
「好きかどうかで考えたことがあまりなかった」
「そっか。私も同じやわ」
蒼は海を見たまま言った。
小春は蒼を横から見た。
三年ぶりに見る蒼は、見た目はほとんど変わっていなかった。髪が少し短くなっていて、日焼けが前より濃い。でも表情が、高校時代より落ち着いていた。何かを決めた人の顔をしていた。
「観光協会の仕事、どう?」
「大変よ」
蒼は少し笑った。
「人が足りんくて、何でも屋みたいになっとる。イベントの企画もするし、取材対応もするし、補助金の書類も書く」
「それは忙しいね」
「でも嫌いじゃない。やらんといけんことがある、って感覚が、私には合っとるみたい」
その言い方が、蒼だと思った。好きとは言わない。でも嫌いじゃない、と言う。その距離感で、仕事と向き合っている。
観光客が一人、二人の横を通り過ぎた。カメラのシャッター音がした。
「小春の仕事も、こういう場所が関係するんやろ」
「今回の企画で、下灘が候補に入ってて。仕事の下見も兼ねて来たんだけど」
「そっか。どういう企画なの?」
「瀬戸内の時間を描く特集で。明石と、この辺を対比じゃなくてつなげる形で書こうと思ってて」
「つなげる?」
「明石には標準時があって、ここには夕日がある。どちらも時間の話で」
蒼はしばらく考えた。
「面白いと思う。でも難しいな」
「難しいと思う」
「ここの人間からしたら、夕日は別に特別じゃないけんね。毎日あるから」
「そこが書きたいところでもあって」
「そうやんね」
蒼は少し顔を向けた。
「毎日あるものを、外から来た人がすごいって言う。その温度差みたいなものが、観光の仕事してると毎日あって」
「どう感じるの、それ」
「最初は複雑やった。なんというか、うちらの普通が消費されとる気がして。でも今は少し違う」
「違う?」
「来てくれる人がいることで、残れてる部分もある、って分かってきた。複雑なのは変わらんけど、単純に嫌とも言えんくなってきた」
小春はそれを手帳には書かなかった。でも頭の中にしまった。
二人はホームから降りて、駅舎の前に移動した。
駅舎の木のベンチに並んで座った。観光客が写真を撮っている横で、地元の人間として座っている感覚が、小春には少し不思議だった。地元の人間、として座っていいのかどうかも、実はまだ分からない。
「小春って、ここのこと地元って言える?」
蒼が唐突に聞いた。
「え?」
「明石の人に聞かれたとき、地元はどこって答える?」
「愛媛って言う」
「愛媛の、って聞かれたら?」
「双海の方、って言う」
「じゃあ地元なんやん」
「そうなんだけど」
小春は少し考えた。
「なんか、言いにくいときもあって」
「なんで」
「出てきたくせに懐かしがってるみたいで」
蒼はそれを聞いて、少しの間、黙っていた。海の方を見ていた。
「それ、変な話やと思う」
蒼は言った。ゆっくりと、でもはっきりと。
「変?」
「出てきたら故郷のことを思ったらいかんって、誰が決めたんよ」
小春は答えられなかった。
「私は残った側やから、出ていった人の気持ちは全部は分からん。でも小春が愛媛を懐かしんだら、なんかいかんことがあるん? 誰かが傷つくん?」
「傷つくとかじゃないけど」
「じゃあええやん」
あっさりと言われた。その言い方が蒼らしかった。複雑なことを複雑なままにしない。ただ、本質だけを抜き出す。
「蒼は、残ったことを後悔したことある?」
「ある」
蒼は即答した。
「どんなとき?」
「いろいろ。選択肢が少ないって感じるとき。外の人が羨ましいとき。この場所の問題が重くなりすぎるとき」
蒼はそこで少し止まった。
「でも後悔したからって、出ていけばよかったとは思わん。それは別の話」
「どう違うの?」
「後悔するのは、今の自分が感じること。出ていけばよかったは、別の人生を生きたかったということやろ。私は今の自分の人生が嫌いじゃないから、後悔はしても出ていけばよかったとは思わん」
小春はそれを聞いて、自分の中で何かが整理される感覚があった。
後悔と、別の選択は、別の話だ。
それは明石に出てきた自分にも言えることだと思った。出てきたことを後悔することと、故郷を懐かしむことは、別の話だ。どちらかしか選べないわけではなかった。
なぜそんな簡単なことが、十一年間分からなかったのだろうと思った。
日が少し傾いてきた。
夕日にはまだ早かったが、光の角度が変わって、海の色が深くなってきた。観光客の数が増えてきた。みんな、夕日を待っている。
「仕事の話、聞いていい? 観光協会として、下灘をどう見てるか」
「ええよ。仕事の話として聞くの?」
「半分仕事、半分個人的に」
蒼は頷いた。
「下灘は、もうだいぶん前から人が増えた。写真がSNSで拡散されて、聖地みたいになって。それ自体はありがたい。地域にお金も落ちるし、知名度も上がった。でも……」
「でも?」
「でも、という話が毎年出てくる」
蒼は少し声のトーンを落とした。
「列車の時間に合わせて大勢来るけん、ホームが混む。路駐も増える。地元の人が乗り降りしにくくなる時間帯がある。撮影のために立入禁止の場所に入る人がいる。ゴミの問題もある」
「難しいね」
「難しい。でも来るなとは言えんし、言いたくもない。来てくれることで、この地域が注目されとる部分もあるけん」
「そのバランスを、どうとってるの?」
「とりきれてないのが正直なところ。マナー啓発をして、看板を出して、地元の人の声を集めて。でも完璧な答えはまだない」
「でも続けてる」
「続けるしかないから」
蒼は少し笑った。
「諦めたら、誰がやるんって話になるし」
その言葉は、軽く言われたが、重さがあった。
諦めたら誰がやるんという問いは、残った人間がいるから成り立つ問いだ。出ていった人間には、その問いが来ない。
小春は蒼の横顔を見た。
「すごいと思う」
「何が?」
「ちゃんと、ここでやってること」
蒼は少しだけ照れたように、視線を海に戻した。
「すごくはない。ただ、いるだけよ」
「いるだけが大事なんじゃないの、こういう場所では」
蒼はそれには答えなかった。答える必要を感じていないのかもしれなかった。
列車が来る時間が近づいて、ホームに人が集まってきた。
ローカル線の普通列車は、一時間か二時間に一本しかない。その列車が通過する瞬間に、ホームから夕日と列車を一緒に収めようとするカメラマンが多い。今日も何人かが、三脚を立てていた。
「あれ、毎日来る人もおるんよ。同じ場所で、毎日写真を撮り続けとる人が」
「何年も?」
「聞いた話では、もう七年くらいになる人がおるって。天気によって全然違うから、飽きないって言いよったって」
小春はその話を聞いて、面白いと思った。七年間、同じ場所で同じ方向を向き続ける人がいる。変わらない場所を、変わり続ける光の中で見続ける。
「その人、記事に出てもらえるかな」
「聞いてみる。会ったことはあるけん」
蒼はスマートフォンを出した。
「連絡先、聞いてみようか?」
「お願いできたら」
蒼はメモをした。それが自然な流れだった。昔の親しさが戻ってきたというより、今の距離感でちゃんと話せている、という感覚だった。
遠くから列車の音がした。
観光客たちがカメラを構えた。シャッター音が重なった。列車がホームに入ってきて、少し止まって、また出ていった。
その列車は通過のためではなく、地元の人間が生活のために使う路線の列車だった。今日この時間は、誰も乗り降りしなかった。それでも列車は来て、止まって、去った。
「ちゃんと来るんだね」
「ちゃんと来る。乗る人が少なくても、毎日来る。それがなくなったら、本当に何もなくなるけんね」
次にここに到着したのは、観光列車『伊予灘ものがたり』。また観光客たちがカメラを構え、シャッター音が重なる。夕日目当てで降りてくる乗客達が大勢いた。
日が傾いてきた。
夕日が始まる前の、光が水平に近くなる時間。海面の色が変わって、空の端が少しずつ橙に染まり始めた。観光客が息を飲む瞬間が分かった。あ、来る、という空気が、ホームに広がった。
小春も海を見ていた。
この景色を、仕事として切り取る側にいる。それは変わらない。でも今この瞬間、仕事として見ているというより、ただここにいる人間として見ていた。
「小春」
「うん?」
「帰ってこんでもええけど」
蒼は海を見たまま言った。
「うん」
「知らん町みたいに言わんで」
小春は、その言葉をすぐには受け取れなかった。
知らん町みたいに言わんで。
それは責めている言葉ではなかった。でも、責めていないからこそ、深く入ってきた。小春が故郷の話を自分からしない癖があることを、蒼は見ていた。愛媛のことを話すときに、少しだけ距離を置く小春を、蒼は知っていた。
「知らん町みたいに、してたかな」
「完全にそうとは言わん」
蒼は少し間を置いた。
「でも、小春がここの話をするとき、どこか他人行儀になることがあって。それが、昔からずっと少し気になっとった」
「ごめん」
「謝らんでもええ」
蒼は初めて、小春の方を向いた。
「ただ、ここはここにある。小春がおらんくても、小春が帰ってきても、それは変わらん。そのことを、忘れんでいてほしいだけ」
夕日が来た。
空の端から橙が広がって、海が燃えるような色になった。観光客のシャッター音が一斉に重なった。
小春はカメラを出そうとして、やめた。
今は撮らなくていいと思った。
ただ見ていた。蒼の隣で、言葉を返さないまま、夕日が海を染めていくのを見ていた。
知らん町みたいに言わんで。
その言葉が、夕日よりも長く、小春の中に残った。




