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夕日の町と、標準時の街― 海をはさんだふたつの時間  作者: 明石竜


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第五章 帰ってきた店

 朝、小春が目を覚ましたとき、家の中はすでに動いていた。

 離れの厨房からは、包丁の音が聞こえていた。トントンと、一定のリズムで。それから出汁の匂いが、廊下を通って部屋まで来た。

 六時半だった。

 昔からそうだった。この家は、朝が早い。店を開けるのは十一時だが、仕込みは朝のうちに始まる。父の一日は、夜明けとほぼ同時に動き出す。小春が子どもの頃、休日の朝にこの音で目が覚めて、二度寝しようとして、出汁の匂いに負けて起きてしまう、ということを繰り返していた。

 今朝も、同じだった。

 二度寝しようと思って、出汁の匂いに負けた。


 顔を洗って厨房へ行くと、父がそこに立っていた。

 大根を切っていた。小春が入っても、顔を上げなかった。包丁の音が続いている。邪魔をするのが悪い気がして、小春はカウンターの椅子に静かに座った。

 母の姿はなかった。

「お母さんは?」 

「起こすな。昨日遅くまで片付けしとったけん」

「何か手伝う?」

 父は少しだけ間を置いてから、「ええわ」と言った。断り方が素っ気ないが、邪険ではない。

 この家の断り方は昔からそうで、ええわ、は「来なくていい」ではなく「大丈夫」に近い。

 小春は大人しく座っていた。

 父が動く姿を、久しぶりにちゃんと見た。

 六十三歳になった背中は、小春が子どもの頃に見ていたものより、確かに少し丸くなっている。でも動き方は変わっていなかった。無駄がなく、急がない。包丁を持つ右手と、食材を押さえる左手の間に、長年の積み重ねがある。

 父はこの店を、三十年以上続けてきた。

 小春が生まれた頃にはもう店があった。幼稚園の頃の記憶に、カウンターの下から見上げる父の腰回りがある。エプロンの紐が背中でぶら下がっていた。

 包丁の音が止んで、鍋に何かが入った。じゅっという音がして、いい匂いが広がった。

「何作ってるの」

「だし巻き」

「朝から?」

「仕込みや」

 父はそれだけ言って、また手を動かした。小春はその背中を見ながら、昨夜の話を思い返していた。


 昨夜、夕食の後で、三人でテーブルを囲んだ。

 父が話したのは、短かった。

「店、来年の春には畳もうと思う」

 それだけだった。それ以上の説明は、最初からするつもりがないように見えた。

 小春は尋ねた。

「なんで」

「潮時やけん」

「体が?」

「悪くはない。ただ」

 父は少し間を置いた。

「先が見えてきた」

 先が見えてきた、というのは、終わりが見えてきた、ということではないように小春には聞こえた。

 自分がこの店でできることの輪郭が、はっきりしてきた、そういう意味のように思えた。

「後継ぎがおらんのは分かっとる。おまえに戻れとは言わん。そういう話やない」

「そういう話じゃないって、どういう話なの」

「自分で決める話や」

 それで父は黙った。それ以上は話さなかった。質問を拒否しているのではなく、言えることを全部言い終えた、という静けさだった。

 母が間に入って、もう少し補足してくれた。常連さんへの説明や、備品の処分、店じまいの段取りなど、現実的な話を柔らかく話してくれた。

でも何を話しながらも、母の声のどこかに、さみしさが滲んでいた。

 さみしさを冗談で隠す人なのに、昨夜だけは隠しきれていなかった。

 小春はそれを見て、何か言おうとした。でも何を言えばいいかが分からなかった。「残念」とか「そっか」とか、そういう言葉を出す気になれなかった。

 言葉が小さすぎる気がした。

 だから、黙っていた。

 父も、母も、小春も。しばらく黙って、それから母がお茶を入れに立った。そういう夜だった。


 父がだし巻き卵を巻いている音がした。

 ジュッという音と、菜箸が動く音が交互にくる。小春はそれを聞きながら、この音が来年の春にはなくなると思った。

 なくなるというのは、ここでなくなるということだ。父が料理をやめるわけではない。でも、この厨房で、この時間に、仕込みのためにだし巻きを巻く父の音は、なくなる。

 その具体性が、昨夜の「潮時やけん」より、小春には重くなった。

「お客さん、減ってるの?」

 小春は聞いた。

「減っとる」

 父は言った。

「十年前より、だいぶ」

「観光客は来ないの? 下灘の方は増えてるって聞いたけど」

「下灘はそうやろ。うちの方まで流れてくる人は、少ない」

「そっか」

「来ても、うちみたいな店には入りにくいんやろな」

 父は淡々と言った。怒っているわけでも、嘆いているわけでもない。

「今はオシャレなカフェとか、SNSで見た店にそのまま行く。まあ、そういう時代や」

「そうだとは思わないけど」

「なんで」

「お父さんの店は、ちゃんといい店だから」

 父はそれを聞いて、少しだけ動きを止めた。止まったのは一瞬で、すぐに菜箸が動き出した。

「ありがとう」と言った。父がありがとうと言うのを、小春は久しぶりに聞いた気がした。


 十時を過ぎた頃、母が起きてきた。

「あら、もう起きとったん」

「だいぶ前から」

「ごめんね、遅くまで起きとったけん」

 母はエプロンをつけながら厨房を見て、「あんた、ちゃんと食べた?」と父に聞いた。

「まだや」

「もう、先に食べとき言うたのに」

 両親のやりとりは、昨日も一昨日も、十年前も、変わっていない気がした。少しだけ母が世話を焼いて、父が素っ気なく受け取る。そのテンポが崩れていない。

 小春は三人で朝食を食べた。

 だし巻きと、白いご飯と、味噌汁。シンプルだった。でも父の作るだし巻きは、ふわりとしていて、鱧の出汁の味が最後まで残った。

「おいしい」

「店のメニューにもあるんやけどね、頼む人が最近減って、もったいなくてね」

 母が言う。

「え、なんで?」

「前は定食の方がよう出よったけど、今はたまごかけご飯の方が人気なんよ。黄身が夕日に見える、ってSNSで紹介されてから、たまーにそれを目当てに寄る人もおるけど、続けて来るほどではないね」

「知らなかった」

「あんたに話したことなかったっけ」

「ない」

「まあ、電話もあんまりせんかったしねえ」

 母は笑いながら言った。責めていない。ただ、事実として言っている。

「今度はもう少し連絡してきてよ。お父さんが心配するけん」

 父は味噌汁を飲みながら、何も言わなかった。


 開店前の時間、小春は店の中を少し見て回った。

 カウンター席が五つ、テーブルが三つ。合わせて十五人入れるかどうかという広さだ。壁には昔の写真が何枚かかかっていて、海の写真、みかん山の写真、それからどこかの祭りの写真。いつ撮ったのかは分からない。

 カウンターの端に、小さな置き時計がある。

 父が何十年も使っている時計で、文字盤が少し黄ばんでいるが、ちゃんと動いている。子どもの頃、カウンターに座るたびにその時計を見ていた。

「この時計、まだあるんだ」

 厨房の父に向かって言うと、「捨てる理由がない」と返ってきた。

 小春はその時計を見た。十一時まであと十分ある。

 開店準備が終わった厨房から、父がのれんを出しに来た。店の入口に、藍色ののれんをかける。「潮見」の文字が、朝の光に透けた。

「手伝います」

 小春がそう言うと、父は少し考えてから、「皿、並べてくれ」と言った。

 小春はカウンターにコースターと箸置きを並べた。テーブルにも同じように。この動作も、子どもの頃に何度かやった。順番を覚えていた体が、確かめるように動いた。


 開店すると、十分もしないうちに最初の客が来た。

 七十代くらいの男性で、常連らしかった。父と目が合うと、いつもの、という感じで頷いた。父も頷き返して、注文を聞くまでもなくコーヒーの準備を始めた。

「娘さん?」

 男性が小春を見て言った。

「はい」

「あー、聞いたことあるわ。明石におるんやって」

「そうです」

「遠いねえ。帰ってきたん?」

「少しだけ」

 男性はそれで納得して、窓の外を見た。それ以上聞いてこない。この距離感が、小春は昔から好きだった。必要以上に踏み込まない。でも、知らない人でもない。そのあたりの感覚を、常連の人たちはちゃんと持っている。

 昼前になると、数人の客が入れ替わりで来た。

 全員が常連だった。父は一人ひとりの顔を見て、ほとんど言葉を交わさないままに注文の見当をつけ、それを静かに出した。

 常連の好みを、全部覚えている。

 コーヒーの濃さ、砂糖の有無、いつも頼む軽食の種類。Aさんは雨の日にホットレモンを頼む。Bさんはカウンターより窓際を好む。Cさんは混んでいると入ってこない。そういうことを、父は言葉にしていないが、全部知っていた。

 小春はそれを見て、自分が何も知らないことに気がついた。

 父のことを知っているつもりでいた。無口で頑固で、でも不思議と地元に愛されている、くらいの理解はしていた。でも今日初めて、父がこの店でどんな時間を積み上げてきたかを、具体的に見た。

 注文を取って、お茶を出して、皿を下げる。小春はそれだけのことを手伝いながら、この店が父一人の場所ではなかったことを感じていた。常連の人たちにとっても、この場所は何かの意味を持っている。毎日ここに来てコーヒーを飲む老人の、その時間の一部に、この店が組み込まれている。

 その店がなくなるということは、その人たちの時間の一部が、形を変えるということでもある。

 小春はそこまで考えて、考えすぎかもしれないと思った。でも考えすぎではない気もした。


 昼過ぎに客が途切れた。

 母が「少し休んで」と言って、小春に麦茶を持ってきた。小春はカウンターの内側ではなく、客席側の椅子に座った。

 父は厨房で後片付けをしていた。

 水の音がして、食器が重なる音がして、換気扇が回っている。この音の重なりが、この店の午後の音だった。

 母が隣に座った。

「どう? 来てよかった?」

「うん、来てよかった」

「そう言ってくれると、嬉しい」

「仕事の下見も兼ねてるんだけど」

「知っとるよ。下灘の方でしょ」

「明日、行こうと思ってて」

「蒼ちゃん、来るって言いよったよ」

「え、なんで蒼が」

「連絡したんよ、お母さんが。小春が帰ってくるって」

 小春は少し驚いた。

「勝手に連絡しないでよ」

「嫌だった?」

「嫌じゃないけど」

「蒼ちゃん、会いたがっとったよ。忙しくて小春のこと全然会えてないって」

 そうか、と小春は思った。蒼と最後に会ったのは、三年以上前だったかもしれない。電話もしていない。メッセージが年に数回あるくらいで、それも近況報告に毛が生えた程度だった。

「元気にしてるの? 蒼」

「してるしてる。地元で観光協会の仕事しとるよ。大変そうやけど、楽しそうにしとる」

「そっか」

「蒼ちゃんは、ここに残ることにしたけんね。それはそれで大変なこともあるけど、ここでしかできないことをしとる子やから」

 小春は黙っていた。

「小春は小春の場所で、ちゃんとやりよるやろ。それでええんよ」

 それでええんよ、という言葉が、慰めなのか本音なのか、小春には判断しにくかった。でも母の声に嘘はなかった。


 夕方、店じまいの時間が来た。

 のれんをしまって、椅子を片付けて、床を拭く。父は黙って動いていて、小春はその動きに合わせた。片付けが終わって、父が厨房の電気を消した。

 店の中が少し暗くなった。外はまだ明るいのに、店の中は夕方より早く暗くなる。

 窓の外が橙になっていた。

「小春、久し振りに三人であそこ行ってみん?」

 母は誘ってきた。

 

 下灘駅と共に、双海の夕日絶景スポットとして知られる、ふたみシーサイド公園まで歩いて

向かうことにした。

 三人で並んで歩くのは、いつぶりだろう。小春はそれを数えようとして、やめた。数えてもしかたない。今がここにある。


 ふたみシーサイド公園で感じる潮の匂い。明石の潮風とは少し違う。甘さが混じっている。柑橘か、草か、それとも記憶が混じっているだけなのか、小春にはまだ判断がつかなかった。

「ここよ、ここ」

 母がさっさと先を歩いていた。サンダルで砂浜を踏む音がする。父はその少し後ろを、ゆっくりした歩幅でついていく。

 夕暮れ時のふたみシーサイド公園には、人が多かった。

 海に向かってゆるく下る砂浜のあちこちに人影が散っていて、モアイ像のあたりにも、

堤防の上にも、恋人岬のあたりにも、夕日を待つ人たちが立っていた。

 小さな子どもが波打ち際を走り、スマートフォンを空に向ける人たちの間を、潮の匂いを含んだ風が抜けていく。こんなふうに人の集まる場所だったのだと、小春は少し驚いた。

 伊予灘が、夕方の光を受けて鈍く光っていた。水平線は少しかすんでいる。空が橙に染まり始めている。まだ太陽は完全には沈んでいない。ちょうどいい時間に来られた、と小春は思った。

 夏になれば、ここはもっと人で埋まるのだろう。


「きれいじゃろ」

 母が海を見たまま言った。

「うん」

「小春が子どものころ、よう連れてきたんよ、ここ」

「覚えてる」

 父は何も言わずに、海を見ていた。腕を組んで、少し前のめりに、ただ水平線のあたりを見ていた。その横顔が、小春には懐かしかった。店で魚を見るときと、同じ顔をしている。判断を下す前の顔だ。何かを確かめている顔だ。

 太陽がゆっくりと下がっていく。

 水面の光が変わった。橙から、深い赤へ。波の一つひとつに色がついて、寄せては返すたびに光が揺れる。空の端が紫がかっている。

 小春はその光を見ながら、明日のことを思った。

 明日は下灘で見よう。あのホームに立って、同じ光を見よう。仕事としてだけではなく、ただ見るために。

 でも今夜はここに、三人でいる。

 それが先だ、と思った。

 風が来た。海から来た風が、三人の間を通り過ぎた。母が少し目を細めた。父が、ゆっくりと息を吐いた。

「ちゃんと沈んどるのう」

 父が言った。

 小春は父を見た。父はまだ海を見ていた。

「うん、ちゃんと沈んどる」

 小春は言った。

 太陽が、水平線に触れた。橙の光が、海に溶け始めた。空がいちばん深い色になる、あの数分間が来ていた。

 三人は並んで、それを見ていた。

 言葉はなかった。でも、何かがそこにあった。帰れなかった年数の後も、今日この光の前に三人がいる。それが何かのように思えた。言葉にできなかったが、何かのようだった。

 日が沈んだ。

 空に残った光が、少しずつ薄れていく。夕日はもう終わっていた。でも、光はまだそこにあった。

「帰ろか」

 母が言った。

「うん」

 父がゆっくりと踵を返した。小春も、それに続いた。

 帰り道を歩きながら、小春は空を見た。西の空に残った橙が、細くなっていく。

「明日も晴れるみたいや」

 母がスマホの天気予報アプリで確かめてくれた。

 明日も晴れる。

 双海の夕日が、明日もあの水平線に沈んでいく。同じ時刻に、同じ光が、ちゃんとそこにある。


 店に戻ると、父は椅子には座らずに、カウンターにもたれるようにして立っていた。

 小春はテーブルの椅子に座っていた。

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 それから父が口を開いた。

 声は小さかった。厨房の換気扇が止まった後の静けさの中で、ぽつりと言った。

「おまえに戻れとは言わん」

 小春は父を見た。父は窓の外を見ていた。

「言わんけど、帰ってきてくれてよかった」

 それだけだった。

 小春は何も言わなかった。言えなかった、のではなく、言わない方が正しいと思った。父の言葉は、返事を求めていなかった。ただ、言いたかったから言った。そういう言葉だった。

 窓の外で、光が少し暮れた。

 明日、下灘の夕日を見に行く。そこで何かが分かるかどうかは、まだ分からない。でも今夜ここにいたことが、明日の自分に何かをくれる気がした。

 小春は窓の外を見ながら、そう思った。

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