第四章 海を越える途中
木曜日の朝、小春はいつもより大きな鞄を持って家を出た。
着替えと、仕事道具が少し。取材用のノートとICレコーダー、カメラ。下灘の下見を兼ねているから、仕事の荷物は省けない。でも鞄の中で一番重いのは、そういうものではなかった。何が重いのかは、うまく言えない。ただ、いつもの通勤より確かに鞄が重かった。
JR明石駅のホームに立つと、瀬戸内海側の空が広く見えた。
快晴だった。二月半ばの朝の光は、まだ角度が低くて、水面を横から照らしている。海がきらきらしているのに、寒い。春の手前の、乾いた冷たさだった。
朝のホームには、同じように遠くへ出る人と、ただいつもの移動をしているだけの人が混じっていた。
電車が来た。小春は乗り込んで、窓際の席に座った。
扉が閉まって、明石が動き始めた。
西明石から新幹線に乗り換えて、岡山へ向かった。
小春は指定席の窓側に座り、発車と同時に後ろへ流れ始める街を見た。見慣れた明石の景色が、数分で見知らぬ景色の速さに変わっていく。新幹線の移動はいつもそうだった。自分の意思でどこかへ向かっているはずなのに、速すぎて、その実感だけが少し遅れてついてくる。
岡山で在来線ホームへ移ると、空気が少し変わった。乗り換えの案内表示を見上げ、しおかぜの発車時刻を確かめる。瀬戸大橋を渡る列車に乗るたび、小春は少しだけ身構える。怖いわけではない。ただ、海の上を長く走るあの時間には、本州を離れていく感覚がはっきりある。
列車が岡山を出てしばらくすると、市街地がほどけるように遠ざかっていった。やがて窓の外が大きく開け、橋に入る。海だった。
小春は窓に額を近づけた。下を見ると、海が遠かった。船が小さく見えて、波の色が濃い青だった。橋の上では、列車は思ったより静かに走る。その静けさがかえって、ここが海の上なのだということを強く意識させた。
この橋を渡るたびに、小春は毎回少しだけ緊張する。
ここを越えると何かが変わるような感覚が、何年経っても消えない。本州と四国を隔てるものは、海峡だけではない。小春にはなぜかそう思えて、それが根拠のない感覚だと分かっていても、橋を渡るあいだだけは、少し息を詰めるくせがある。
四国に入ると、窓の外の景色が少しずつ変わっていった。山が増える。緑が濃い。空の青が、明石で見るものよりも少しだけ深い気がした。気のせいかもしれない。でも小春は、四国の空には独特の青さがあると、子どもの頃からずっと思っていた。
松山で普通列車に乗り換えた。
ここから先は、特急ではなく各駅に止まる列車だった。
急ぐための時間が終わって、土地の時間が始まる気がした。
車両は古くて、座席が向かい合わせになっている。乗客は少なく、小春の近くには老人が一人と、大きなリュックを背負った旅行者らしい若者が一人いるだけだった。
列車が動き出すと、景色が落ち着いてきた。
田んぼ。みかん畑。山の斜面に張り付くような家。小さな駅に止まるたびに、誰かが乗って、誰かが降りる。駅名を読むたびに、小春の体の中で何かの距離が縮まっていく感覚があった。
松山を出て四十分ほどで、海が見えた。
車窓の右手に、突然、視界が開ける。山の合間から瀬戸内海が現れて、列車はそのまま海沿いを走り始める。線路と海の距離が近くて、波打ち際まで数十メートルもないような場所を通る。
小春はその瞬間、少しだけ息が変わった。
胸ではなく、もっと下の方で、何かが緩んだ。筋肉というより、その奥にある何かが。
海だ、と思った。
明石でも毎日のように海を見ている。それでも、この海は違った。幅が違う。光の角度が違う。においが、確かに違う。柑橘と塩と、それから何か土に近いもの。山から海へ、距離が短いこの地形特有の匂いを、体が先に覚えていた。
小春は窓に額をつけた。冷たかった。
景色を見ながら、小春はいつの間にか昔のことを考えていた。
意識して思い出そうとしたわけではなかった。景色が引っ張り出してきた、という感じだった。
十八歳の春。
高校を卒業して、大学進学のために関西へ出た日のことを、小春はまだ細部まで覚えている。
あの朝も、この路線に乗った。方向は逆で、海沿いを走りながら松山へ向かった。父は駅まで車で送ってくれて、改札の前で、いってこい、とだけ言って帰った。抱きしめるでも、泣くでも、長々と言葉をかけるでもなく。振り返ったとき、父の後ろ姿はもう駐車場へ向かっていた。
小春は改札を抜けて、ホームで列車を待った。
泣かなかった。泣くつもりもなかった。出たかったから出るのだし、出られることが嬉しかったから。この町が嫌いだったわけではない。ただ、出た先に何かあると信じていた。何がある、ということは分からなかった。ただ、ここではないどこかに、自分の知らない広さがある、そう思っていた。
あのとき小春が思っていたことを、今の自分は正確には再現できない。
ただ一つ覚えているのは、改札を抜けた瞬間に、もう戻らない、と思ったことだった。
戻りたくない、ではなかった。戻らない、と決めた。その決意に近い感覚。十八歳が持てる覚悟のようなものが、あのホームにあった。
でも、その覚悟は正確ではなかった。
戻らないと決めたはずなのに、その後も故郷のことを忘れた日は一日もなかった。意識するとかしないとか、そういう問題ではなく、ただそこにあり続けた。ここではないどこかへ出ていっても、ここは消えなかった。消えてほしかったわけでもないのに、消えないことに、小春はずっとうまく対処できなかった。
懐かしむことに、罪悪感があった。
出ると決めたくせに懐かしんでいる自分は、中途半端なのではないか。帰りたいなら帰ればいいし、出ていくと決めたなら完全に出ていけばいい。どちらでもある自分は、どちらでもない、ということなのではないか。
だから帰省を最低限にした。故郷の話を自分からしなかった。愛媛のことを聞かれると、少しだけ遠い目をしてやりすごした。
それが七年の話ではなく、十一年の話だと気づいたとき、小春は窓の外を見た。
海は続いていた。
鉄橋を超えると、列車が速度を落とし始めた。
次の停車駅のアナウンスが流れた。
伊予上灘。
小春は鞄を持ち、立ち上がった。
ホームに降りると、風が来た。潮の匂いが濃かった。海が近いことが分かった。
駅舎は小さく、無人だった。ホームからは、本尊山が見える。鋭く尖った、特徴のある山の形。
子どもの頃に何度も見た風景だった。
すぐ近くのふたみシーサイド公園で海水浴を楽しんだ思い出も蘇る。
特別に美しいとか、感動的だとか、そういうことではなかった。ただ、見慣れた並びがそこにある、ということだった。見慣れた、というのは、体で覚えているということで、頭で記憶しているのとは違う。
小春は改札を出た。
駅前の小さな広場に、父の車が止まっていた。歩いて十分少々なので、わざわざ
車で迎えに来てくれなくてもいいのに。と思っているけど、帰省するたび、
いつもそうしてくれる。
ハイエースではなく、古い軽自動車。十年以上乗っている車で、後部座席のドアに少し錆が出ていた。運転席に父がいた。窓から顔を出すでもなく、ただそこにいた。
小春は近づいて、助手席のドアを開けた。
「お父さん」
「おう」
父はエンジンをかけたまま、前を見ていた。スマートフォンを見るでも、ラジオをつけているでもなく、ただフロントガラスの向こうを見ていた。何を見ていたのかは分からない。
小春は鞄を後部座席に押し込んで、助手席に座った。シートベルトを締めると、車が動き出した。
「痩せたか」
「そんなことないと思うけど」
「そうか」
それだけだった。
駅前から曲がると海沿いの道に出た。左手に海、右手に山。この道を小春は何百回走ったか分からない。助手席から見る景色は、子どもの頃と変わっていなかった。変わっていないことが、少し驚きだった。何かが変わっているはずなのに、この道の見え方だけは、記憶の中のそれと同じだった。
「店は」
小春は尋ねた。
「普通にやっとる」
「今日も開けたの?」
「昼まで開けた。おまえが来る日やけんな」
午後三時に閉める理由が自分のためだとは言わなかった。言わないが、そういうことだと分かった。小春は窓の外を見た。
「お母さんは」
「店におる」
しばらく黙った。
父は黙ることが苦ではない人間だった。沈黙を埋めようとしない。その沈黙が居心地よいかどうか、小春は子どもの頃からずっと判断しかねていた。今日は、居心地よかった。話すことが何もないから黙っているのではなく、話さなくていい間だから黙っている、そういう沈黙だった。
車が坂を上がって、見慣れた建物の前に止まった。
実家の店だった。母屋の離れに建つ、小さな店。
白い外壁に、手書きの木の看板。「喫茶・軽食 潮見」という屋号は、父がつけた。海が見えることから取ったと後から聞いた。海は実際には道路と家の向こうにあって、店からは直接見えないのだが、父はそれでいいと言っていた。
「見えなくても、あるじゃろ」
それが父の理屈だった。
小春は車を降りた。風が来た。塩と、柑橘と、それからどこかで何かが煮えているような匂いが混じっていた。
店のドアを開けると、母が厨房から顔を出した。
「あ、来た来た」
「ただいま」
「ただいまって言うた」
母は少し嬉しそうに笑った。
「何年ぶりよ、それ」
小春は答えなかった。確かに、最近は「着いた」とか「来たよ」とか、報告のような言い方をしていた。ただいま、と言ったのがいつ振りかは、自分でも覚えていない。
「疲れたやろ。先にお茶飲む?ご飯は夜にするけん」
「うん、お茶飲む」
母は厨房へ戻った。父はそのまま店の奥の椅子に座って、新聞を広げた。小春はカウンターの端の椅子に腰を下ろした。
この場所に、最後に座ったのはいつだったか。
二年前だったか、三年前だったか。年に一度帰れているかどうか、という頻度で、しかも一泊か二泊して帰るだけだった。その間に何かを話し合ったわけでも、何かをしたわけでもない。食事をして、少し話して、眠って、また明石に戻る。それを繰り返していた。
お茶が来た。
母の入れるお茶は、濃い。子どもの頃から変わっていない。急須で丁寧に入れて、少し小ぶりな湯飲みに注ぐ。湯気が上がって、部屋が少し温かくなった気がした。
「あったかい」
「今日、風冷たかったやろ」
「電車の中から海が見えたとき、きれいだった」
「この時期はきれいよ。空気が澄んどるけん」
母は自分もお茶を持って、小春の向かいに座った。
「明石も海、見えるんやろ」
「見える。でも、なんか違う」
「違う?」
「うまく言えないけど」
母はそれを聞いて、「ほうじゃろうなあ」と言った。説明を求めるでも、違いを論じるでもなく。 ほうじゃろうなあ、という相槌が、この家の会話の特徴だった。
無理に結論を出さない。そのままにしておく。
「仕事で、双海を取材することになったから、また近いうちに何度か帰ってくると思う」
「ほうかい。いつでも帰っといで」
小春はお茶を飲みながら、窓の外を見た。
道路があって、電柱があって、山の裾がある。夕方の光が、山の稜線を橙に染め始めていた。もう少ししたら日が落ちる。
今日の夕日が、どこかで終わっていく。
下灘の夕日は明日か明後日見に行こうと思っていた。今日は、ただここにいればいい。
「お父さんの話、今夜、聞かせてもらっていい?」
小春が言うと、
「そのつもりよ」
母は頷いた。
「ゆっくり話そう」
ゆっくり、という言葉が、今日の小春にはちゃんと届いた。
急がなくていい。今日の夜があって、明日があって、明後日も明々後日もある。
しばらく、ここにいられる。
小春は湯飲みの温かさを両手で確かめながら、窓の外で少しずつ色を変えていく山を見ていた。帰ってきたのだ、という感覚が、じわじわと、お茶の温かさと同じくらいのゆっくりさで、体の中に染みてきた。




