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夕日の町と、標準時の街― 海をはさんだふたつの時間  作者: 明石竜


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第三章 帰る理由

 帰省の切符を取るまでに、一週間かかった。

 理由は仕事ではなかった。スケジュールを見れば、来週末なら土日に有給を木金と月の三日足して五日確保できる。それは最初から分かっていた。それでも小春は、切符の予約サイトを開いては閉じ、開いては閉じを繰り返した。

 何が引っかかっているのかを、自分でもうまく言葉にできなかった。

 父の店が閉まるかもしれない。それは事実として受け取った。母の声に動揺はなかったし、今すぐ何かが変わるわけではないことも伝わっていた。だから帰省は緊急ではない。でも、緊急でないことが、かえって小春を動けなくしていた。

 深刻な病気なら、迷わず帰れる。大きな事故でも、同じだ。理由が明確であれば、人は動ける。でも「話したいことがある」「潮時かもしれない」という静かな言葉は、帰る理由として十分なのかどうか、小春には判断がつかなかった。

 今さら帰って、何ができるのか。

 その問いが、出発を遅らせていた。


 天文科学館の取材から三日後、追加で確認したいことがあると田中から連絡が来た。

 メールだった。丁寧な文体で、先日の取材でお話しした内容のうち、一点だけ補足させてほしいことがあると書いてあった。もし差し支えなければ、近いうちにまた少し時間をいただけないかと。

 小春は読んで、少し意外に思った。取材先から補足の申し出が来ることは珍しくはないが、このタイミングで来るとは思っていなかった。

 翌日の昼休みに伺います、と返信した。


 天文科学館のエントランスに、田中はすでに来ていた。

 今日は展示室ではなく、館内の小さなミーティングスペースへ通された。丸いテーブルに椅子が四脚、窓から中庭が見える。緑が少し見えて、静かな部屋だった。

「先日はありがとうございました。補足といっても、大した話ではないんですが」

「いえ、助かります」

「先日、標準時と地方時の話をしましたよね」

「はい。その土地固有の時間がなくなった、という話」

「その後少し考えていて、言い方が足りなかったかもしれないと思って」

 田中はテーブルの上に、一枚の紙を置いた。図が描いてあって、日本列島の輪郭と子午線の線が手書きされている。

「標準時は確かに、一本の線で時刻を揃えました。でも、人の生活の時間は揃っていないんです。東の人が明るい時間に起きているとき、西の人はまだ少し暗い。夕日が沈む時刻も、場所によって違う。標準時は時刻を共有するための仕組みであって、生活の時間まで揃えているわけじゃない」

「そうですね」

「だから、下灘の夕日は下灘の夕日で、明石の夕方は明石の夕方で、それぞれに固有の時間がある。標準時があるからといって、その固有さが消えているわけじゃない。そのことを先日うまく言えなかったので」

 小春はメモを取った。

「取材でいただいた話の中で、記事の軸になりそうな言葉を整理しているんですが。先日の、『同じ空を見ている』という表現が、ずっと頭に残っていて」

「そうですか」

 田中は少し目を細めた。

「それは、使えそうですか」

「使えると思います。ただ、私がそれを正確に書けるかどうかが、まだ分からなくて」

「正確に、というのは」

「伝わるように、ということかもしれません」

 小春は言ってから、少し訂正した。

「いや、違うか。伝えたいことがちゃんと自分の中にあるかどうか、という話です」

 田中は答えなかった。急かさなかった。小春が続けるのを、ただ待っている。

「明石のことを書くのは、書けます」

 小春はゆっくり言った。

「でも今回の企画には、愛媛の話も入っていて。そっちの方を、どういう角度で書くかが、まだ自分の中で決まっていないんです」

「愛媛の、下灘のあたりのことですか」

「そうです」

「取材に行く予定があるんですか」

「来週、下見に行く予定で」

 小春はそこで一瞬止まった。

「あのあたりに知り合いがいる、というか、実家がそのあたりなので」

 言ってしまってから、こんなことを言うつもりはなかったと思った。取材先に個人的な事情を話すのは、珍しかった。

 田中は特に驚いた様子を見せなかった。「そうですか」とだけ言った。

「帰省を兼ねようかとも思っているんですが」

 小春は言い始めたら止まらなくなった。

「なかなか、踏ん切りがつかなくて」

「帰省に踏ん切りが必要なんですか」

「私の場合は、少し」

 田中はまた間を取った。窓の外の中庭に目をやってから、こちらに戻した。

「帰ろうと思えば帰れる場所ほど、人は後回しにすることがありますよね」

 小春はメモを取る手を止めて、「そういうものですか」と尋ねた。

「そういうものだと思います。行けない場所は仕方がないと諦めがつく。でも行けるのに行かない場所は、行かない理由を自分で作り続けなければいけないから」

「行かない理由を作る」

「たとえば、今は忙しい、とか。特別な用事がない、とか。帰ったところで何ができるわけでもない、とか」

 小春は、自分の考えていたことをそのまま言われた気がした。

「心当たりがありますか」

 責めるでも、からかうでもない。ただ、確かめるように田中は尋ねた。

「あります」

 小春は正直に言った。

 そこで少し沈黙があった。中庭の木が風に揺れていた。

「帰れる場所があることは、それだけで、かなりのことだと思いますよ」

 その言葉が、小春の中のどこかに触れた。

 触れた、というのが正確な感覚だった。刺さるのでも、響くのでもなく。どこかに置いてきた何かを、指先で確かめたような感覚。

「そうかもしれません」

 小春はそれしか言えなかった。

 ミーティングスペースを出るとき、田中が「記事、楽しみにしています」と言った。

「書けるかどうか、まだ分からないです」

「書けると思います」

「なぜそう思うんですか」

 田中は少しだけ考えた。

「引っかかってるからです。引っかかってない人は、ああいう質問をしない」

「ああいう質問というのは」

「伝えたいことが自分の中にあるかどうか、という問いです。そこを気にしている人は、ちゃんと書きます」

 小春はそれに対して、何も言わなかった。

「ありがとうございました」とだけ言って、館内を出た。


 オフィスに戻る道を歩きながら、小春は空を見た。

 平日の昼間の空は、高く、白かった。雲がゆっくり動いていて、その速さがなければ止まって見えるような空だった。

 帰ろうと思えば帰れる。

 それが問題なのだと、先日自分で手帳に書いた。田中の言葉は、それと同じことを別の角度から言っていた。行けるのに行かない場所は、行かない理由を自分で作り続けなければいけない。

 小春は立ち止まって、スマートフォンを取り出した。

 乗換案内のアプリを開いた。出発地に「明石」、目的地に「伊予上灘」と入れた。

 経路が表示された。明石から舞子に出て、高速バスで松山に向かい、普通列車を乗り継ぐルート。岡山まで新幹線で向かい、特急しおかぜと普通列車を乗り継いでいくルート。最短でも五時間半ほどかかる。遠くはない、と思っていたが、改めて見ると、やはり半日仕事の距離だった。

 でも、帰れない距離でもない。

 小春はアプリを閉じずに、日付選択の画面へ進んだ。

 来週後半、実家に四泊して、下灘の下見も兼ねることができる。

 四泊五日、何ができるかではなく。

 四泊五日、そこにいられる。

 そう思い直したとき、指が動いた。


 切符の予約確認メールが届いたのは、オフィスに戻って十分後だった。

 美緒が「お帰りなさい、田中さんとの話どうでしたか」と聞いてきた。

「補足の内容は記事に使えそうだった」

「よかった。なんか、顔色変わりました?」

「そう?」

「なんか、ちょっと」

 美緒は首を傾けた。

「すっきりした顔してます」

「そうかもしれない」

 小春はそう言って、デスクに座った。

 スマートフォンの予約確認メールをもう一度開いた。来週木曜、明石発。乗換を経て、伊予上灘着。

 帰る理由は、結局のところ、なかったのかもしれない。

 帰る理由が必要だと思っていたのは、自分だけだった。

 メールを閉じて、小春は母に短いメッセージを送った。

『来週、帰ります。今回は少し長くいられます』

 送信ボタンを押してから、しばらくして既読がついた。

 返信は、一言だった。

『待っとる』

 その四文字を、小春はしばらく画面の中に置いたまま見ていた。

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