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夕日の町と、標準時の街― 海をはさんだふたつの時間  作者: 明石竜


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第二章 町を伝える仕事

 翌朝、小春は少し早く家を出た。

 特に理由はなかった。ただ、昨夜から胸のどこかに引っかかっているものがあって、いつもの時間に布団の中にいることができなかった。母との電話を思い返すわけでもなく、かといって忘れているわけでもなく、ただそれがそこにある、という状態のまま、小春は身支度をして、まだ人の少ない道を歩いた。

 早朝の明石は、少しだけ静かだ。

 通勤のピークより一時間早いと、同じ道でも空気の質が違う。潮の匂いが、人の気配に薄められる前にそのままある。小春はイヤホンをせずに、その匂いの中を歩いた。

 海の方へ、少しだけ寄り道した。

 防波堤の手前に出ると、水面が白い朝の光を反射している。明石海峡大橋が霞の向こうにある。釣り人が二人、間隔を開けて立っていた。小春はそれを少し離れたところから見て、それから踵を返して駅の方へ戻った。

 立ち止まったのは、ほんの一、二分だったと思う。それでも、少しだけ息が整った気がした。


 オフィスに着くと、宮田さんがすでに自分のデスクで書類を読んでいた。

「早いね」

「少し早く出たので」

「天文科学館、来週火曜に取れそうだ」

 小春は鞄を置いた。

「美緒さんが昨日アポを?」

「昨夜のうちにメールしたらしい。今朝返事が来てた。田中さんという学芸員の方が対応してくれるそうだ」

「分かりました」

 宮田さんはそれだけ言うと、また書類に目を落とした。余分なことを言わない人で、小春はそれが仕事をするうえで楽だと思っている。

 美緒は九時ちょうどに出社してきた。コートを脱ぎながら、「あ、小春さん早い」と言って、デスクに座るなりパソコンを開いた。

「天文科学館の件、聞きましたか」

「宮田さんから。ありがとう」

「田中さん、ネットで調べたら展示の解説記事をいくつか書いてる人みたいで」

 美緒はキーボードを叩きながら続ける。

「文章が読みやすくて、専門的なのに難しくない。取材しやすそうな人だといいんですけど」

「そうだね」

「双海の方は、地元の観光協会にまず問い合わせてみようと思ってて。あと、道の駅に顔が広い人がいるって宮田さんが言ってたので、そこも当たってみます」

「お願い」

 美緒は「了解です」と言って、もうそちらへ意識が向いている。この切り替えの速さが、美緒の一番の強みだと小春は思う。考えながら手を動かせる人間で、それはたいていの場合、仕事において正しい。

 小春は自分のパソコンを開いて、昨日の続きの広報誌ライティングに戻った。


 午前中いっぱいで、広報誌の初稿を書き上げた。

 社長のメッセージの部分が少し抽象的になりすぎていて、具体的なエピソードに差し替えるよう赤を入れてから、ファイルを保存した。インタビューの書き起こしを読み直すと、社員の一人が「仕事がしんどくなったとき、先輩に言われた一言が忘れられない」と話していた箇所があって、小春はそこを少し広げて書いた。そういう部分が、記事に体温をつける。

 昼前に美緒が「ちょっといいですか」と声をかけてきた。

「瀬戸内特集の全体像、一回ちゃんとすり合わせしたいんですよね。お昼のあと、三十分くらいどうですか」

「いいよ」

「宮田さんも来てもらいます。資料、さらっと更新しておきます」

 美緒は手際よくそう言って、またデスクへ戻った。

 小春は時計を見た。十一時四十分。お昼まで少し時間がある。

 引き出しを開けて、手帳を取り出した。来週の火曜に天文科学館の取材が入った。それより前に、できれば一度、自分で明石の標準時にまつわる話を整理しておきたい。今の自分が知っていることと、知らないことを分けておく必要がある。

 東経百三十五度。

 日本標準時の基準となる子午線が、明石市を通っている。そのこと自体は子どもの頃から

知っていたが、天文科学館のそばに立つ「標準時子午線」の標識を実際に見て、あ、ここなんだと思ったときの感覚が残っている。

 日本列島はおよそ東経百二十二度から百五十四度にかけて広がっているから、その中央に近いこの線を基準にすることは、理屈としては分かりやすい。でも小春がその日感じたのは、理屈ではなかった。この線より東にいる人も、西にいる人も、今この瞬間に同じ時刻を共有している。自分が立っている場所が、その「同じ時刻」の根拠になっている。それが何か、不思議な感じがした。

 でも今その感覚を文章にしようとすると、うまくいかない。

 面白いと思っていた感覚が、言葉にしようとした瞬間にするりと逃げていく。自分が感じたものを伝えるために書いているのに、書くことで何かが削れていく気がする。それがいつも、ライターとしての小春の悩みだった。


 昼食から戻ると、会議室に三人が集まった。

 美緒がプロジェクターに資料を映した。前日の資料が更新されていて、候補地の写真と取材項目の案が整理されている。

「全体の方向性は変わっていなくて。明石と双海、二つのまちを軸に、瀬戸内の時間を描く特集です。テーマは大きく分けると三つ。時間の基準を持つ街、夕日が終わる場所、そしてその町で暮らす人たち」

 美緒が説明した。

「雑誌側の要求は?」

 宮田さんが尋ねる。

「ウェブ版と紙版の両方に使いたいそうです。ウェブはSNSで拡散されやすい構成、紙は読み応えのある文章量。どちらでも使えるような取材素材を集めてほしいと」

「写真は?」

「カメラマンは雑誌側が手配します。ただ、事前に下見したロケ地情報を共有してほしいとのことで、できれば私たちが先に一度行って、撮影スポットを確認したいんですよね」

「双海の下見はいつ頃を考えてる」

「今月半ばくらいを目標にしています。取材全体のスケジュールから逆算すると、そのあたりが理想で」

 宮田さんが頷いた。

「渡部はどうだ。記事の切り口、何か考えてるか」

「少し」と小春は答えた。

「標準時と夕日って、一見関係ないように見えて、どちらも時間の話なんですよね。時間を正確に刻むことと、時間がゆっくり終わっていくこと。その対比を軸にできないかと思っています」

「悪くない」

「ただ、対比にしすぎると図式的になるので」

「それは書き方次第だ」

「そうですね」

 美緒が少し前のめりになった。

「面白いと思います。でも読者に最初に引っかかってもらうためには、もう少しビジュアルよりの入口が必要じゃないですか。夕日の写真から入って、テキストで深める流れが自然かなって」

「そう思う。入口は写真でいい。ただ写真の先に何があるかが大事で」

 小春は意見した。

「そこ、田中さんに取材したら膨らむかもしれませんよね。天文科学館の人なら、時間の話を面白く語れる人のはずだし」

「そうだといいんだけど」

「双海はやっぱり、夕日を軸にするしかないじゃないですか。夕日の町って、もう十分強いブランドになってるし。それに乗っかりつつ、生活感を足す。そのバランスが取れれば完成ですよ」

 バランス、という言葉がまた来た。小春は「うん」と頷いた。

 そのバランス、という言い方が正しいのかどうかを、小春はまだ考えている。バランスを取ることは、どちらかを薄めることでもある。でも今ここでそれを言葉にするには、自分の中でまだ整理が足りない。

「来週の天文科学館、一緒に行きます?」

 美緒が尋ねた。

「今回は私一人で行ってみようかと思ってる。最初だから、話を聞くだけになると思うし」

「了解です。記録、よろしくお願いします」

 会議はそれで終わった。三十分ちょうどだった。


 取材当日まで、小春は自分なりに準備をした。

 天文科学館のウェブサイトを読み込んだ。常設展示の内容、過去に開催された企画展のタイトル、館のブログに上がっていた解説コラム。美緒が「読みやすい」と言っていた田中俊という学芸員の文章も、いくつか読んだ。

 確かに、読みやすかった。

 専門的な内容を、難しい言葉を使わずに書いている。でもそれは「難しいことを簡単にする」のとは少し違って、難しいものの本質をそのまま別の言葉で言い換えているような書き方だった。「時間とは何か」という問いに対して、彼の文章はこう書いていた。

 私たちが時刻と呼んでいるものは、太陽がどの位置にあるかを測ることから始まりました。今私たちが使っている標準時は、その場所その場所での太陽の位置ではなく、一本の線の上での位置を基準にしています。時間は自然のものですが、標準時は人間が決めたものです。そこに少しだけ、時間の話の面白さがあると思っています。

 小春は、その一節を手帳に書き写した。

 取材の質問事項をまとめながら、小春は気づいたことがある。自分が明石に七年住んでいて、この街のことを「知っている」と思っていたが、こうして改めて調べてみると、知っていたのは事実の表面だけだったという感覚がある。百三十五度という数字は知っていた。でも、それがどういう意味を持っているかを、自分の言葉で言えるかどうかは、別の話だった。


 火曜日の午前十時に、小春は天文科学館の前に立った。

 空は晴れていた。白い建物に時計塔が組み合わさったような外観で、時計の文字盤が建物の正面に大きくある。十時の長針がちょうど垂直に近い位置に来ているのを見て、小春は少しだけ時間に余裕があることを確認した。

 受付で名前を告げると、しばらく待つよう言われた。

 展示室の入口近くに小さなベンチがあって、小春はそこに座って室内を見回した。平日の午前中だから来館者は少ない。小学生らしい団体が奥の方にいて、引率の先生に連れられて何か大きな機械の前に並んでいる。プラネタリウムの入口だろうか。

「渡部さんですか」

 声がした方を見ると、廊下の端から男性が近づいてきた。三十代前半に見えた。背が高く、紺色のシャツに黒のスラックスという、主張のない服装だった。歩き方が静かで、足音がほとんどしない。

「田中と申します。本日はお越しいただいて」

「渡部小春です。こちらこそ、急なお願いにもかかわらずありがとうございます」

「いえ、こういった取材はありがたいです。よろしければ、まず展示を少し見ていただきながら話しましょうか」

「ぜひ」

 田中は小春を展示室の中へ案内した。歩きながら話すスタイルで、展示ケースの前で立ち止まりながら説明してくれる。声は低く、落ち着いていて、説明のテンポが一定だった。

「標準時の話をするとき、みなさん最初に驚かれるのが、日本全国で時刻が統一されたのは明治以降だということで」

「そうですね。地方時があったというのは調べました」

「各地で太陽の動きを基準に時刻を決めていたので、江戸時代の人は今の私たちと違う時間を生きていたことになります。それを一本の線で揃えた。便利になったのは確かですが、同時に何かを均した部分もある」

「均した、というのは」

 田中は少し考えてから答えた。

「その場所その場所に固有だった時間、というものが、なくなったということです」

 小春はそれを手帳に書いた。

 展示はよく作られていた。子どもでも分かるように図解されているが、読み込めば大人が新しいことを知れるだけの情報量がある。田中の説明は、展示の補足というよりも、展示の行間を埋めるようなものだった。

「明石について書かれた記事は今までにもたくさんありますが」と小春は聞いた。「標準時の街という切り口が多いですよね。田中さんは、その言い方について、どう思いますか」

 田中は答えるまでに間があった。小春はその間が焦りではないことをすぐに理解した。ただ、答える前に一度考えている。それだけのことだった。

「正確ではあると思います。でも少し、硬い言い方だとも思っています」

「硬い」

「時間を正確に刻む街、という言い方は、どこか機械的な印象があって。実際に標準時子午線が通っているのは事実ですし、それを誇りに思っている方も多い。でも、私が好きな明石の話は、もう少し別のところにあって」

「どんな話ですか」

 田中はまた間を取った。窓の外を一瞬見てから、こちらに向き直った。

「同じ空を見ている、という話です」

 小春は手帳に書く手を止めた。

「標準時というのは、突き詰めると、日本中の人が今この瞬間に同じ時刻を共有しているということです。東にいる人も、西にいる人も、その時刻のもとになった線がここを通っている。時間を正確に測るための仕組みなんですが、見方を変えると、みんなが同じ空の下にいることを確認するための仕組みでもある。私はそっちの方が好きで」

 小春はもう一度、書く手を動かした。

「記事にする場合、そういう話の方が伝わりやすいと思いますか」

 小春は尋ねた。取材的な質問として、というより、少し個人的な確認として。

「どうでしょう」

 田中は笑みに近い表情を作った。

「伝わりやすいかどうかは、書く人次第だと思います。私は自分が面白いと思うことしか語れないので、それが伝わるかどうかは、書いてくれる方の力量に委ねるしかないですね」

「正直な方ですね」

「そうですか」

 彼は少し首を傾けた。

「よく言われます」


 取材は一時間半ほど続いた。

 途中でプラネタリウムの投影室も案内してもらい、ドーム状の天井に星が映し出されるのを少しだけ見た。昼の投影の準備中だったらしく、正式な上映ではなかったが、それでも静かな暗闇の中に星が広がるのを見て、小春は短い時間だけ仕事であることを忘れた。

「好きなんですか、星が」

 案内しながら田中が聞いた。

「分からないです。好きかどうか、あまり考えたことがなかったので」

 小春は正直に答えた。

「そういう人の方が、初めて見たときの感想が面白いことが多いです」

「どんな感想を言いますか、そういう人は」

「だいたい、黙ります」

 小春は少し笑った。

「私も黙ってました」

「でしょう。言葉にしにくいものは、言葉にしなくていい。それがここの好きなところです」

 田中のその言葉が、帰り道もずっと小春の頭に残った。


 オフィスに戻ると、午後の三時を回っていた。

 美緒が「どうでしたか」と聞いてきた。

「話せる人だった。面白い人」

「よかった。何か使えそうな話は聞けましたか」

「記事になると思う。ただ、整理するのに少し時間がかかるかもしれない」

「ゆっくりやってください。まだスケジュールに余裕があるから」

「ありがとう」

 小春はデスクに座って、手帳を開いた。取材中に書いたメモを読み返す。

「同じ空を見ている」

 という言葉に、小春は二重線を引いた。これを記事のどこに置くか、どんな文脈で使うかは、まだ分からない。でも、何かの核になる言葉だということは、今の時点でも分かった。

 窓の外に目をやると、空が夕方の色に変わり始めていた。

 明石の夕方は、少しだけ時間がゆっくりになる気がする。それが標準時のせいなのか、海のせいなのか、それとも自分がそう思いたいだけなのか、小春には分からなかった。

 手帳の次のページを開いて、小春は一行だけ書いた。

 

 帰ろうと思えば帰れる。それが問題なのかもしれない。


 母への返事は、今日の夜、必ずしようと思った。


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