第一章 標準時の街の朝
明石の朝は、きれいすぎて少しだけよそよそしい。
海から来た風が、道行く人の間をすり抜けていく。潮の匂いは確かにするのに、それを立ち止まって確かめる人は、もうほとんどいない。
渡部小春も、そのひとりだった。
明石に来て最初の頃、二見という地名を見たとき、小春は少しだけ足を止めた。
漢字は違うのに、呼ばれた気がした。
けれど今は、その名前にも、毎朝の景色にも、立ち止まらなくなっていた。
イヤホンを耳に当てたまま、スマートフォンの画面を親指で下へ流す。ニュースのタイトルが流れ、天気予報が流れ、それから母の名前が来た。昨夜送られてきたメッセージの通知が、まだ未読のまま残っている。
開こうと思えば、今すぐ開ける。信号が変わるまでの十数秒、それだけあれば十分だ。
小春は通知を指先で押しのけて、画面を暗くした。
返そうと思えば、昼休みにだって返せる。夜でも、明日でも。帰ろうと思えば帰れる場所ほど、そうやって後回しになることを、小春はもう何年もかけて覚えてしまっていた。
遠いから帰れないのではなく、近いからいつでも帰れると思ってしまう。
信号が青になる。人の流れに乗って、小春は歩き出す。
明石に来て、もうすぐ七年が経つ。大学は京都で、就職と同時にこの街へ引っ越してきた。広報の仕事で地域の文化や観光を扱うことが多く、明石という街はそういう意味でも働きやすかった。城跡があり、魚の棚があり、天文科学館があり、そして何より、日本標準時子午線が通っている。取り上げる角度に困らない街だ。
潮の匂いが、また来た。
小春は軽く息を吐いて、それを肺から押し出す。
海の匂いには、もう慣れた。少なくとも、そのつもりでいた。でも慣れたのは明石の海の匂いであって、どこか別の海の匂いと重なったとき、小春はまだうまく処理できないことがある。今朝がそうだった。潮風に、かすかな柑橘のような甘さが混じっていた気がした。気がしただけかもしれない。それでも、一瞬だけ、愛媛を思った。
思ってしまったことに気がついて、小春は歩く速度を少し上げた。
職場は、明石駅から徒歩で八分ほどのビルの四階にある。
『シーブリーム・コミュニケーションズ』という社名は、社長が明石の鯛にちなんで付けたと聞いているが、仕事の内容は鯛とはあまり関係がない。地域のPRや観光プロモーション、自治体の広報物制作、地元ブランドの発信支援。要するに、どこかの町や商品を、言葉や映像で外の世界へ届ける仕事だ。
エレベーターを降りると、すでにオフィスには声があった。
「小春さん、ちょうどよかった。これ見てください」
振り返る前に誰かは分かった。三宅美緒の声は、朝から音量が一定だ。
「おはよう」
「おはようございます、小春さん。昨日の夜、候補地の資料まとめ直したんですよ」
美緒はデスクの前に立ったまま、A4の紙を扇状に持って小春に向けた。二十七歳で小春より二つ下、入社三年目にして社内でいちばん手が速い。企画書のフォーマットセンスがよく、SNSの数字の読み方も身についていて、上司受けも悪くない。悪い人ではない、と小春はいつも思う。本当に、悪い人ではないのだ。
「瀬戸内の特集、もう絞れてきましたよ」
鞄をデスクに置きながら、小春は資料を受け取った。今月から動いている新しい企画のことだ。正式なタイトルはまだ仮のままで、「瀬戸内の土地と時間をめぐる特集記事」という、少し長すぎる説明が仮称になっている。雑誌社とウェブメディアとの共同企画で、単なる観光案内ではなく、土地の暮らしや記憶にもう少し踏み込んだ読み物にしたいという方向性で話が進んでいた。
「ここと、ここがいいと思うんですよね」
美緒が人差し指で資料を叩く。明石の天文科学館周辺と、愛媛の海辺の町。写真が数枚添付されていて、夕日に染まる駅のホームが映っている。
小春は写真から目を離した。
「この駅って……」
「下灘駅です。JRの無人駅で、ホームから直接海が見えるんですよ。映えスポットとして有名で、インスタとかに写真めちゃくちゃ上がってて。でも地元の人がちゃんと使ってる駅でもあって、そのギャップが面白いなって」
「知ってる」
「え?」
「その駅、知ってるってこと」
美緒が少し意外そうな顔をした。小春は資料を机に置いた。
「伊予市のあたりでしょう」
「そうです。小春さん、詳しいんですね」
「そりゃぁもろに生まれ故郷だし」
「そうなんや。小春さん、出身愛媛って言ってましたけど、町はそこだったんですね」
詳しいというのとは、少し違う。ただ、知っている。地図で確認しなくても、どのあたりにどんな道があるかが自然と浮かぶくらいには。
「夕日がきれいで有名ですよね、下灘って。写真見た瞬間に、これだと思って。夕日と海と古い駅舎って、もう勝ち確じゃないですか。特集の表紙にしたいくらいですよ」
小春は何も言わなかった。資料の写真をもう一度見て、それから自分のパソコンを開いた。
夕日は確かにきれいだ。あの駅のホームに立つと、視界の端から端まで海になる瞬間がある。夕方の光が水面に散るのを、子どもの頃に何度も見た。それが「映え」かどうか考えたことはなかったし、考える必要もなかった。ただそこにある風景だったから。
でも今の自分は、それを仕事として切り取る側にいる。
きれいな場所として語ることと、そこで育ったことは、たぶん同じではない。
そのことに引っかかっているのか、それとも別の何かに引っかかっているのか、小春にはまだうまく言葉にできなかった。
「ふたみシーサイド公園の夕日もめっちゃいいですね。恋人岬で彼氏と夕日眺めるデートとか、してみたいです。いないけど」
美緒は写真を見たまま、楽しそうに言った。
「“しずむ夕日が立ちどまる町”って呼ばれてるだけありますね。小春さん、そこが生まれ故郷なんて、ちょっと羨ましいです」
「羨ましい。かな?」
午前中は会議が二本あった。
一本目は別のクライアントの案件で、パンフレットの校正確認。二本目が瀬戸内特集の初回打ち合わせで、営業の宮田さんと美緒と小春の三人で、取材先候補と全体スケジュールを確認した。
宮田さんは四十代の男性で、口数が少なく、決断が速い。
「双海と明石の二軸でいくなら、明石側は天文科学館を起点にするのが自然だな。標準時の話は説明しやすいし、読者に馴染みやすい」
「ですよね。時間って誰でも持ってるテーマじゃないですか」
美緒が返す。
「明石が日本の時間の基準を作ってるって、知らない人けっこういると思うんですよ。そこ切り口にして、愛媛の夕日に飛ぶっていう流れ、ドラマありませんか」
「表紙の写真は下灘駅が強い。記事は明石で深みを出す」
「そうです、そうです」
宮田さんが小春を見た。
「渡部はどう思う」
「いいと思います」
「それだけか」
「構成は合ってると思うんですけど」
小春は少し考えてから続ける。
「取材の切り口だけ、もう少し考えたいんです。双海を夕日の町として紹介するのは間違いじゃないんですが、その駅をちゃんと生活として使ってきた人の視点が入らないと、どこかで読んだことがある記事になりそうで」
美緒が首を傾けた。
「でもそれ、ちゃんと地元民インタビューを取れば解決できますよね」
「そうなんですけど」
「インタビューのセオリーは守りつつ、読みやすさも両立したい。そのバランスは小春さんが一番うまいじゃないですか」
悪意のない言葉だった。小春は「ありがとう」と言って、ペンをノートの上に置いた。
バランス、という言い方が少し引っかかった。バランスを取ることが、自分の仕事なのかどうか。
どこかに片寄っているものを、片寄ったままで書く方が正確なことだって、あるんじゃないか。
そこまで考えて、小春は自分が少し余計なことを考えすぎていると思った。まだ具体的な取材も始まっていないのに。
昼休み、小春は一人でオフィスを出た。
近くのベーカリーでサンドイッチを買って、海の近くのベンチに座って食べることにしている。天気のいい日は特に、外に出たくなる。特別な理由があるわけではない。ただ、少しだけ会社の空気から離れたいというだけだ。
二月の初めにしては、今日は少し暖かかった。一足早く春の気配がまぎれこんだような心地よさがある。
空は白っぽい青で、風がある。明石海峡大橋の白いケーブルが、霞んだ空に溶けかけて見えた。
小春はサンドイッチを一口食べて、スマートフォンを取り出した。
母からのメッセージを開いた。
短かった。
『小春。元気にしてる? 時間があるとき電話してな。お父さんのこと、少し話したいことがあって』
以上だった。
お父さんのこと。
病気、というニュアンスではない気がした。文体がいつもと変わっていない。でも、そこに含まれているものの重さが、どこかいつもと違う。
小春は返信を打ちかけて、止めた。
電話してな、と書いてある。電話したほうがいいのだろう。でも今は昼休みで、電話を切るタイミングを計るのが難しい。夜にしよう。今日の夜、必ず。
そう決めて、スマートフォンを鞄に戻した。
海からまた風が来た。今度は、柑橘の匂いはしなかった。ただの潮風だった。小春はそれを確認するように、ゆっくりと吸い込んだ。
午後の仕事は、別のクライアントの広報誌のライティングだった。地元の中小企業が毎季発行している冊子で、社員インタビューと社長メッセージと製品紹介をまとめて八ページにまとめる作業だ。難しくはない。ただ丁寧に、読みやすく、誠実に。それだけを気をつけて書く。
小春の仕事のやり方は、基本的にはそういうものだった。
「誠実に書く」という言葉を、小春はわりと本気で信じている。それが広報の仕事に向いているのかどうかは分からない。でも、何かを伝えるときに、伝え方の都合で内容を変えることには抵抗がある。その感覚は、この仕事を始めてからも消えていない。
夕方、美緒がモニターに向かいながら声をかけてきた。
「小春さん、明石の天文科学館の取材、アポ取る段取りしていいですか」
「うん、お願い」
「向こうの担当者が学芸員さんらしくて。田中さんって方が企画展を担当してるみたいで、話が聞けそうって」
「分かった」
「来週あたりに一回訪問できそうなら理想なんですけど」
「スケジュール確認してみる」
美緒は「よかった」とだけ言って、また自分のモニターに向き直った。
小春はカレンダーを開きながら、窓の外を見た。もう日が傾き始めている。明石の夕方は、少しだけ光が金色になる。それを見るたびに、東の空かどこかで誰かが時間を正確に刻んでいるような、妙な感覚になることがある。
時間は全国どこでも同じ速さで流れているはずなのに、この街ではそれが少しだけ可視化されている気がして、小春はそれを面白いと思っていた。その見える時間と、海の向こうで静かに終わっていく時間が、どこかでつながっている気がした。仕事で知ったというより、住んでいるうちに自然とそう感じるようになった。
退社したのは、午後七時を少し過ぎた頃だった。
帰り道を歩きながら、小春は電話しようと思った。今日の夜、必ず、と昼休みに決めたことを思い出した。帰ったらすぐにかければいい。ご飯を食べながらでも、食べたあとでも。
信号待ちをしていた時、スマートフォンが鳴った。
着信だった。母からだった。
タイミングが重なって、小春は少し笑いそうになった。いつもそうなのだ。かけようと思っていると、向こうからかかってくる。
「もしもし」
「あ、出た。今、大丈夫?」
「うん。ちょうど今日かけようと思ってた」
「そう」
母は短く言って、それから少し間を置いた。
「お父さんのこと、メッセージに書いたよね」
「うん。病気とかじゃないよね」
「病気とかじゃない。そうじゃなくて」
また間があった。
「店のことなんよ。閉めるかもしれんって話が出てきて」
小春は、歩きながら立ち止まった。後ろから来た人が、肩のあたりをかすめて通り過ぎた。
「閉める、って」
「まだ決まってないんよ。でも、お父さんがそういうこと言い始めてて。あんたにも一応知っといてほしくて」
「そっか」
「そっか、か」
母はかすかに笑った。
「もう少し何か言わんの」
「何を言えばいいか分からん」
正直に言った。
「帰ったほうがいい?」
「帰れるなら、帰っておいで。でも急がんでいい。お父さんも今すぐどうこうって話じゃないと思うから」
「分かった」
「仕事、忙しいの?」
「まあ、それなりに」
「そう」
また短く、母は言った。
「元気にしてたら、それでいいけど」
電話を切ったあと、小春はしばらくそのまま立っていた。
店を閉める。
その言葉の重さが、胸のどこかに静かに落ちていくのを感じた。大きな音はしない。でも、確かに何かが落ちた。
帰ろうと思えば、帰れる。今度こそ、ちゃんとそう思った。




