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第十二話 好奇心の芽吹き

 秋の風が吹きはじめる頃、中庭の木々はわずかに色づきはじめ、太陽は夏の名残を手放すように光をやわらげていた。鐘の音が遠くで響き、石畳の道を行き交う学生たちの笑い声が涼やかな風と一緒に流れていく。


 私は肩に鞄をかけ、胸の前で一冊のノートを大事に抱えていた。低地地方で過ごした夏の記録が詰まったノート——アロレアの涙の観察日誌。白銀の花弁や露の成分、現地の人々の言葉まで、すべて書き留めてある。抱えていると、あの湿った山の空気や夕暮れの光景までも思い出されるような気がした。


 今日から二年次の講義が始まる。履修要項を見直して選択した新しい授業のひとつに、治癒術の応用研究があった。魔法植物の治癒特性について理解を深めるのに役立つかもしれない——そう思って、少し難しそうなその科目を選んだ。

 教室に入ると既に何人かの学生が席に着き、夏の思い出を話して笑い合っていた。私は空いている席を見つけて腰を下ろし、ノートを机の上に置く。

 そのときふと顔を上げて前の方に視線を向けると、扉のところにロイが立っていた。懐かしい横顔に思わず声を弾ませる。


「——あ、ロイ! 久しぶり!」


 視線が合うと彼は小さく片手を上げて歩み寄ってくる。以前と変わらない無表情だけど、まとっている雰囲気はあの頃とは違う。


「久しぶり。……ずいぶん元気そうだな」


「夏の太陽をたっぷり浴びてきたからね」


「それは見ればわかる」


 そう言われて笑いながら頬に触れると、まだ少しひりついた。低地地方の山での調査中、日差しを甘く見ていたせいでうっすら赤く焼けてしまったのだ。


「ロイは全然変わってないね。日焼けどころか涼しい顔してる」


「外に出なかったからな」


「えっ? 夏の間ずっと?」


「ああ。家族に連れられて避暑地に行ったけど、山も湖も興味がないからずっと家の中にいたんだ」


 そう言ってロイは机の上に教材を並べて淡々と視線を落とす。

 避暑地という響きに私は豊かな緑と花々の香りを思い浮かべてうっとりしてしまうれど、彼にとっては静かな部屋で過ごす時間のほうがよほど性に合っているらしい。


「それじゃあ、まるで避暑地に行った意味がないね」


「そうかもな。でも毎年のことだから」


「せっかく自然がいっぱいなのにもったいないな。湖のほとりとか、絶対きれいだったでしょ?」


「虫が多い」


「じゃあ、私の虫除け香液を分けてあげればよかったね」


 笑って言ったのに、ロイはいつものように表情をほとんど変えない。けれどほんの一瞬、口元がかすかに緩んだ気がして、私はそれで十分満たされた気分になった。


 ほどなくして、学内に低く澄んだ鐘の音が響く。ざわめいていた教室がゆっくり静まり、前方の講壇に立った教授が軽く咳払いをして話し始める。

 今日は初回だから、内容は治癒術のおおまかな概説にとどまった。治癒術は回復魔法の中でも古典的な系統で、魔力を体内の循環に干渉させて細胞の修復を促す。その基本理論の説明が続くけれど、私はノートに書き込みながらも、頭の中では別のことを考えていた。


 ——魔力で体内の循環に干渉するなら、それを補助する媒介を加えることで、効果を高めることはできないだろうか。たとえば、魔力を安定させる性質のある月影のシダとか、魔力を増幅させるセレスの草を使えば——。


 そんな仮説が浮かんでは消え、頭の中で勝手に実験の手順を組み立ててしまっていた。ペンの音も椅子のきしみも遠のいて、気づけば教授の声が霧のようにかすんでいく。


「——では、本日はここまで」


 その声に、ふっと我に返る。顔を上げると講義はいつの間にか終わっていて、周りの学生たちは荷物をまとめて教室を出ていこうとしていた。

 隣を見るとロイが筆記具を筆箱に戻し、ノートをぱたんと閉じている。それから眉を寄せて、呆れたように言う。


「途中から全然聞いてなかっただろ」


「えっ、聞いてたよ……たぶん」


「顔に書いてある」


 言い返せなくて、私は曖昧に笑ってみせた。けれどロイはそういう小手先の笑顔に誤魔化されてくれる人ではない。

 視線を向けると彼はもう鞄を肩にかけて立ち上がっていた。椅子の脚が床を擦る音が、静まり返った教室に短く響く。


「じゃあな、ウィニフレッド」


 そう言ってロイは軽く片手を上げた。私もそれに倣って小さく手を振る。


「うん、またね」


 彼の背中が人の流れに紛れて見えなくなるまで、私はしばらく扉のあたりを見つめていた。毎週この時間に、同じ講義でロイと会える。そう思うとなんだか小さな楽しみができたような気がする。


 二限目は空き時間で、次の講義までには少し間がある。私は鞄を抱え直し、研究棟へと足を向けた。白い壁と古びた木の階段が続く棟の奥、魔法植物学研究室の扉を叩くと、すぐに中から穏やかな声が返ってきた。


「どうぞ」


 扉を開けると、ローレルトン教授が窓辺の机に向かって書類を整理していた。陽の光がカーテン越しに柔らかく差し込み、教授の灰色の髪に淡い光が宿っている。


「失礼します。教授、これを見ていただきたくて」


 瓶詰めの標本を机の上にそっと置く。透明なガラス越しに、白銀色の花弁がゆっくりと光を受けて揺れた。


「アロレアの涙か」


 教授の瞳が一瞬、興味の色を帯びる。


「はい。向こうでは悲しみを癒す花として知られていると聞いて……その由来が気になって少し分析してみたんです。神経を鎮める成分が含まれているようで、もし応用できれば、精神に作用して苦痛を和らげる薬になるかもしれません」


 教授は興味深げに瓶を手に取り、光にかざして眺めた。


「なるほど。君らしい着眼点だ」


「それに、他の魔法植物と組み合わせたら、もっと幅広く治癒に使えるんじゃないかと仮説を立ててみました。たとえば青磁の草やルシェナの芽とか、試してみたい組み合わせがいくつかあるんです」


 教授は一瞬だけ考えるように顎に手を当てると、私のノートをちらりと覗き込む。感心したようにうなずき、それから穏やかに微笑んだ。


「ふむ、興味深い。好きにやってみなさい」


「……はい! ありがとうございます!」


 思わず声が弾んでしまった。教授はそんな私の様子に微笑を深め、瓶をそっと机に戻す。


「研究というのは好奇心から始まる。思いついたなら、まずは手を動かしてみることだ」


「はい……頑張ってみます」


 深く頭を下げると、瓶の中の花弁が窓から差し込む光を受けてほのかに揺らめいた。教授は軽くうなずいて、「報告は忘れないように」とだけ言ってまた書類へ視線を戻す。

 

 研究室を出ると、廊下に射す日差しがやわらかく頬を照らした。“好きにやってみなさい”という教授の言葉がまた脳裏に響く。

 許可を得たというより、背中を押された気がする。今まで学んできたことの延長線で、自分の手で何かを見つけ出すということ。未知の扉の前に立つような感覚にわずかに息が弾む。


 その日の講義を終えるころには、日が少し傾いていた。学生たちが談笑しながら門を出ていくのを横目に見ながら、私はそのまま図書館へ足を運ぶ。

 夕暮れ時の図書館は昼間よりも静かで、薬草室の次くらいには好きな場所だった。高い天井に音が吸い込まれ、誰かが遠くで椅子を引く音が小さく響いた。

 植物学の棚に並ぶ書物の背表紙を指でたどり、何冊かを引き抜く。革の装丁が手に心地よい重みを伝えた。閲覧席にそれらを運びページを開くと、古い紙の香りとインクの色がふっと広がる。


『魔法植物の属性分類』『薬効草の融合理論』——どの書にも先人たちの知識がびっしりと詰まっている。書き込まれた図表の精緻さに見とれながら、私はゆっくりと目を通していく。


 魔法植物は単独でも不思議な力を持つけれど、複数を組み合わせることでまるで性質の異なる作用を生み出すことがある。

 アロレアの涙の成分を、他の植物と組み合わせたらどうなるだろう。悲しみを和らげる力は痛みを鎮める効果と結びつくのだろうか。それともまったく異なる作用を生むのか。


 きっと植物には、まだ知られていない力がたくさんある。もしその一端でも掴めたなら——。


 窓の外では空が橙から藍へとゆっくり色を変えていた。光の移ろいに合わせて本の上の影も形を変える。ランプを灯すと、薄い紙に描かれた植物の線画が浮かび上がった。

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