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第十三話 食獣植物・カルニフィラ

「それじゃあ行くよ、ロイ。充分に気をつけてね!」


「おい待て待て待て待て」


 湿った空気の中を踏みしめながら、私は杖を掲げて霧に包まれた森の奥へと足を進めようとしていた。どこからともなく漂ってくるのは、甘ったるくて、鉄のようなものが混ざった香り。

 足もとを照らすために、杖の先に淡い光を灯す。霧の粒が光を受けて白く瞬き、幻想の中を歩いているようだった。ふと視線を下げると、骨のかけらがいくつも散らばっている。小さな顎骨、砕けた肋骨。間違いない——この奥に、“カルニフィラ”がいる。


 研究室で何度も図鑑を見た、あの食獣植物。獲物を誘い、溶かして栄養にする恐ろしい性質を持っている。小さなものは掌ほどの大きさで、虫や小動物を捕らえて栄養にする。けれど大きく育つと、もう獣も人も区別がない。

 何より、私が目をつけたのはその生命力だった。切断しても花が数分は独立して動き、噛みついてくるほどの力を持ち、切り口から芽を生やして再生する植物。怖いと思うより、興味の方がずっと勝ってしまう。


 数歩進むごとに、香りは濃くなっていった。やがて霧の切れ間に現れたのは、鮮烈な赤——まるで血の池をひっくり返したような花弁を咲かせるカルニフィラの群生地。

 小さな個体は草に紛れて地面に咲き、けれど奥には一本、また一本と人の背丈ほどもある茎が立ち並んでいた。その頂に巨大な花が開いて、中心には透明な粘液が滴っている。

 誘引香の甘い香りが鼻の奥を焼くようで、ほんの少し頭がくらくらした。危険の匂いだと分かっていても、どうしても足が止まらない。

 ——きれい。こんなに大きな群生、文献でしか見たことがない。


「やめろウィニフレッド、近づきすぎだ!」


 後ろからロイの声が飛んできて我に返る。振り返ると彼は険しい表情で、片手で制止するように私へ手を伸ばしていた。


「どうやって採るつもりなんだ」


「え?」


「まさか策もないのに突っ込んでいってるわけじゃないよな」


 彼の声にはわずかに苛立ちが混じっていた。無理もない。だけど、私だってただ好奇心だけで突き動かされているわけじゃない。


「もちろん考えてるよ」


 私は笑って続けた。


「凍らせるの。氷魔法で動きを止めれば安全に採れるはず」


「……凍らせる?」


「うん。小さい個体なら食べられる心配もないと思うし。氷魔法、秋に入ってからずっと練習してきたんだ」


 そう言いながら、私はシャツの袖を肘までまくり上げた。ひやりとした森の空気が肌に触れて少しだけ鳥肌が立つ。

 近くの地面を這うようにして、小さな個体がひとつ。花弁はまだ開ききっておらず、両手ほどの大きさ。葉の表面に無数の細毛が揺れ、獲物を感知しようとするようにかすかに震えている。


「任せて」


 そう言ったとき、ロイのため息が背後から聞こえた。呆れているようで、どこか諦めに似た響き。

 杖を持ち直すと、先端がわずかに光を帯びた。淡い青の光が霧を裂いて伸び、カルニフィラの花弁を照らす。

 呪文を唱えた瞬間、白い霜がぱっと広がった。花弁がきゅっと縮こまり、動きが鈍る。通常の攻撃魔法なら反射的に暴れ出すところだけれど、神経反応を遅らせればこんなふうに音もなく封じることができる。


 呼吸を整えて、腰のポーチから防護グローブを取り出す。革の感触が指先に馴染むのを確かめてから、私はしゃがみこんだ。慎重に茎の根元を掘り起こし、瓶の蓋を開ける。

 内側には封印の呪文が螺旋状に走っている。魔力を吸い込むように淡く光るその線を見つめながら、私はゆっくりと株を中へ滑り込ませる。瓶の口を閉めると呪文が反応して光が強まり、内部の空気が静まり返った。


「ね、言った通りでしょ。小さいのなら大丈夫」


 瓶を掲げてそう言うと、ロイは深々とため息をついた。霧の中で彼の肩がわずかに上下する。その手が額にあがり、指の隙間から私を見やる。


「君の度胸には毎回驚かされる」


「褒めてる?」


「悪い意味だ」


 私は笑って、凍りついたカルニフィラをもう一度見つめた。やっと手に入れた。講義で耳にした魔法植物の中でも特異な生命力——それを確かめるためには、こうして生きた株が必要だった。何度も計画を立て、図鑑をめくり、模型で練習して、ようやく今日、こうして採取できたのだ。

 瓶の中では赤い花弁が薄い氷膜に包まれている。閉じ込められた冷気がわずかに瓶の表面を曇らせ、指先を滑らせるとひやりとした感触が伝わる。それは危険で、美しくて、なにより誇らしい光景だった。



 ◆



 それからの私は、ほとんど大学に籠もりきりになった。授業が終わるとすぐに研究棟へ行き、夜になるまで実験台の前を離れない。

 カルニフィラの株は瓶の中で今も息づいている。凍結から解いたばかりの茎をほんの少し切り、培養皿に並べ、顕微鏡のレンズを覗くたびに心臓がどくどくと高鳴った。

 切断された茎の端から白い根の糸が伸びて、瞬く間に新しい組織を作り出す。その速度は驚くほどで、朝に観察を始めた箇所が夕方にはもう芽を生やしていることもあった。——どうして、こんなにも強く再生できるのだろう。


 私はひたすら観察を繰り返した。茎の組成を調べ、粘液を薄め、魔力計を使って反応を測定する。すると、その粘液の中には異様に活発な魔力の流れがあることが分かった。無数の細胞の隙間を縫うように、光の筋が脈打ち、循環している。

 もしかして、これが生命力の源? 魔力が強いから、この植物は切っても再生する。茎を断たれても、切り口から芽を出し、葉を伸ばす。


 けれど観察を重ねるうちに、違う可能性が見えてきた。この魔力はただ強いのではない。細胞そのものに干渉し、破損した部分を修復するように流れている。——まるで、治癒術のような。


 私は慌ててノートを開き、仮説を書き連ねた。


 ——魔法植物カルニフィラの粘液には、治癒術に類似する循環魔力構造が存在する。


 胸が熱くなって、ペンを握る手が震えていた。思わず笑いそうになる。こんな発見、誰もまだしていないかもしれない。


 私は椅子から立ち上がり、顕微鏡を覗いて光をもう一度確かめた。粘液の中でゆっくりと回る光の粒が呼吸をしているようにも見える。

 ——もし、人間にもこの仕組みを一時的にでも持たせることができたなら?


 治癒術は即効性があるけれど、扱うには高度な魔力制御が必要で、習得できるのはほんの一握りの人だけだ。一方で、魔法薬は体の自然治癒を助ける程度にしか効かない。

 でも、もしこのカルニフィラの特性をうまく人体に組み込めたら。


 薬のように体内に取り込んで、体そのものに治癒の循環を起こさせることができたら——? 誰でもどこでも、命を癒すことができる。


 そんな未来が、ほんの少しだけ現実味を帯びて頭の中に描かれた。胸の奥が熱くなり、思わずごくりと喉を鳴らす。うまく働くかどうかは分からない。でももし成功すれば、それはきっと治癒という概念を変える。

 


 ◆



 翌朝、私は一晩中考えてまとめたノートを抱えてローレルトン教授の研究室を訪ねた。扉を軽く叩いて名乗ると、すぐに「入りなさい」と落ち着いた声が返ってくる。

 

「ミス・エヴァリー、朝から珍しいな。カルニフィラの調査に何か進展でも?」


「はい。少し……というか、すごく気になることがあって」


 私はびっしりと観察の記録が書き込まれたノートを差し出して、できるだけ順序立てて説明を始めた。カルニフィラの粘液が見せた異常な魔力反応、細胞の循環に干渉するような挙動、そしてそれが治癒術に似た働きを持つのではないかという仮説。

 教授は穏やかに聞いていた。頷き、短く相槌を打ちながら。けれど、私が「その力を人の体に応用できるかもしれない」と口にした瞬間、羽ペンを持っていた手がぴたりと止まった。


「……それは、君の考えかね?」


「はい。でも、まだ理論だけです。だけどもし成功したら、これまでより効率的な回復魔法が——」


「ミス・エヴァリー」


 名前を呼ばれた。声は低く、妙に静かだった。教授はゆっくりと椅子にもたれ、眼鏡を外して私を見る。


「……それ以上はやめておきなさい」


「え?」


「その研究は君の手には負えない。危険だよ」


 淡々とした声だったけれど、その奥に確かな緊張があった。私は思わず身を乗り出した。


「でも、まだ実験もしていません。ただの仮説です。危険って、どうして……?」


「魔法植物の人体への応用は昔、王立研究院でも扱われたことがある。だが、報告は残っていない。……いや、残せなかったと言うべきかな」


「残せなかった?」


 繰り返すと、教授はかすかに眉を寄せた。もたれた椅子の年季の入った革の背もたれが軋む音がする。


「ミス・エヴァリー、好奇心は君の長所だ。だが、それがいつも正しい方向へ導くとは限らない」


 私は何かを問い返そうとしたけれど、教授はもう私から視線をそらしていた。机の書類を整えながら、淡々と口を閉ざしてしまう。

 それ以上何を言っても答えてはくれないのだと気づいて、私は黙ったまま頷くしかなかった。


 研究室を出ると、廊下の空気がひんやりして、胸の奥に溜まっていた熱が一気に冷めていくようだった。けれど頭の片隅では、あの粘液の光がまだ消えずにいる。

 ……一体、教授は何を恐れているんだろう。その正体も知らないまま、終われる気はしない。

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