第25話 誓い
妻のしのぶは実家に引きこもったまま、社会的な死と同義の静寂の中に沈んだ。それ以降、神谷家における高時の生活は、すっかり平穏な日常を取り戻していた。
山裾の吉川神社は新築され、地鎮祭以来の泥の怪異は去った。高時は父親としての倫理的責任を果たすべく、幼少期の虐待によって深く傷ついるはずの次女・美代を定期的に心療内科へ連れてゆき、カウンセリングを受けさせていた。
晩秋のある晴れた日のことだった。診察を終え、美代と高時は並んでクリニックから出た。陽光がまぶしかった。美代の顔つきから、能面のような冷たさが消え去り、かつて彼女が持っていた、どこかおっとりとした可憐で少女らしい表情が戻った。
病院からの帰り道、静かな喫茶店に入った。高時は、アイスティーのグラスを弄ぶ美代に向き合い、喉の奥に引っかかっていた重い悔恨を振り絞るようにして吐き出した。
「美代……山村の卑劣な行為に長年気づいてやれず、お前を辛い目に遭わせてしまって申し訳なかった。父親として、本当に情けない……」
深々と頭を下げる高時に対し、美代はカップを置き、どこか透き通った瞳で父親を見つめた。
「お父さんが謝ることじゃないわ」
「そうか……」
高時は娘の寛大な言葉に救われた心地がして、短く安堵の溜息をついた。だが次の瞬間、美代が浮かべたかすかな微笑みの奥に、かつて朝の食卓で「条件付きの愛」を説いた、あの純粋な狂気が鮮やかによみがえった。
「だけど、ひとつだけ約束してほしいの」
「何だね?」
「いつまでも私を愛すると誓って」
美代はまっすぐに高時を見つめた。高時は父親としての温かい口調を意識しながら、素直に応じた。
「ああ、もちろんだ。美代のことを愛しているよ」
「だめよ」
美代は首を横に振った。その瞳は笑っておらず、真剣で涼しげな眼差しが高時の表情の細部を容赦なく射抜いていた。
「美和姉さんより愛していると言って」
二人の間に、重く息の詰まるような沈黙が流れた。
「美和姉さんよりもよ」
精神医学の解釈やカウンセリングによる治療を超えたところで、娘たちの心の歪みは何ひとつ変わっていなかった。
高時が言い淀み、視線を泳がせていると、美代は静かに唇を開いた。
「私が何も知らないと思っているの?」
高時はひりひりする喉の乾きに耐えながら、ついに低くかすれた声で言った。
「……美和よりも、美代のことを愛している」
「ならいいわ」
美代は満足そうに頷くと、可憐な女子高校生らしい朗らかな笑顔を弾けさせた。
―― 第1部・終 ――




