第一話 名を消す手
その名を、彼女は覚えていない。
覚える必要がないからだ。
帳面には、確かに書かれていた。
整った字で、美しく。
だが——
今はもう、そこに線が引かれている。
それで終わり。
存在は、そこで消える。
彼女は、静かに筆を置いた。
迷いはない。
躊躇もない。
それが、役目だから。
部屋は、静まり返っている。
外の喧騒は、ここには届かない。
届く必要もない。
ここは——
決める場所。
誰を残し、誰を消すか。
それだけを決める場所。
「次は?」
声がする。
障子の向こう。
姿は見えない。
だが、誰かは分かっている。
「……候補は三人」
彼女は、淡々と答える。
「理由は」
「一人は——噂の中心」
短く。
「一人は——目立ちすぎた」
さらに。
「そして一人は——」
ほんの一瞬、間が空く。
「……まだ何もしていない」
沈黙。
障子の向こうの気配が、わずかに動く。
「それで?」
問われる。
判断を。
彼女は、迷わなかった。
「最後の一人を」
あっさりと。
当然のように。
「消します」
その言葉に、感情はない。
ただの選択。
「理由は」
重ねて問われる。
だが、答えは決まっている。
「危険になる前に」
それだけ。
十分だった。
障子の向こうで、気配が静まる。
やがて。
「任せる」
短く、それだけ。
決定。
それで終わり。
彼女は、再び帳面に目を落とした。
まだ線の引かれていない名。
その中の一つに、指を置く。
若い女の名。
何も知らない。
何もしていない。
だが——
だからこそ。
消す。
彼女は、ゆっくりと筆を取った。
そして。
ためらいなく——線を引いた。
それで終わり。
すべてが。
名前が消えれば、その人間も消える。
ここでは、それが現実。
外の世界がどうであろうと、関係ない。
ここは、閉じた世界。
ここが、すべて。
ふと、思い出す。
昔。
まだ、この役目を持つ前。
自分も、あちら側にいた。
選ばれる側。
怯える側。
消されるかもしれない側。
そのとき、自分は思った。
——なぜ、こんなことができるのか。
人を消すなど。
どうして、平然と。
だが、今なら分かる。
簡単なことだ。
考えなければいい。
感じなければいい。
ただ、役目として処理すればいい。
そうすれば——
何も壊れない。
彼女は、静かに目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
すぐに開く。
そこには、もう何もない。
迷いも、感情も。
すべて、置いてきた。
ここに来るときに。
だから——
できる。
人を消すことが。
当たり前のように。
彼女は、帳面を閉じた。
次の仕事が待っている。
終わることはない。
この場所が続く限り。
選び続ける。
消し続ける。
それが、自分の役目。
——大奥。
名を消す者だけが、生き残る世界。




