第六章 『モシカシタラ』って思う度毎に、もう一度だけ朝が来る。
翌朝、工業街口駅のホームは息が白くなる前の硬さを持っていた。
滑り込む車内からホームの人波の中に彼を探す。
──居た。
いつもの速度で乗って来る。
いつもの防災訓練みたいな静けさ。
車内で偶然、隣が空いた。
彼がそこへ座る。
近い。
近いだけで頭が忙しくなる。
動き出す車内に沈黙が五月蝿い。
彼は窓の外を見ていて、ふとこちらへ視線を動かした。
いつもの、困り方を見付ける目。
「……君」
呼び掛けだけで私の胸が一回跳ねる。
そして彼が言った。
「君、僕と同じ匂いがする」
私は息が詰まった。
洗濯機の蓋を開けた瞬間の、あの匂いが胸に戻る。
咄嗟に私は──
「……そうですか?分かりません」
言い終わった瞬間、後悔が来た。
素直に「たまたま同じですね」と言えば良かったのに。
なぜ私は、冷たく拒絶みたいな言い方をしてしまったんだろう。
彼は一瞬だけ目を丸くして、でも責める顔はしなかった。
「そっか」
それだけ。
それから彼は黙った。
黙ったというより、距離を戻した。
沈黙は責めるためじゃなくて、元の場所へ戻るための静けさだった。
私は窓の外を見ながら、何度も心の中でやり直す。
──違う。そうじゃない。
──嬉しい。気付いてくれて嬉しい。
──でも、怖い。匂いを合わせたと思われたら、気持ち悪い女だと思われる。
──ゆうきさんの名前を呼べないのが怖い。
電車が揺れる。
吊り革の金具が鳴る。
その音だけが、私の失敗に蓋をしてくれる。
大学に着いても身体だけが朝の電車に置き去りになっていた。
講義室の椅子に座る。ノートを開く。ペンを持つ。
黒板に文字が増えていく。教授の声が一定の速度で流れていく。
なのに、全部が意味にならない。
文字はただの線として見えた。
「教育心理学」「発達段階」「評価」
知っているはずの単語なのに、今日はどれも輪郭だけで中身が入ってこない。
私はそれを目で追っている振りをして、頭の中で別の言葉を追っている。
──そっか。
さっき彼が言った、それだけの言葉。
短くて、柔らかくて、だからこそ怖い。
あの『そっか』は、責めていない。
責めていないのに、私の胸の奥を一番深く刺した。
ノートを取る。
取っている振りをする。
紙の上に書かれていくのは、黒板の板書じゃない。
そっか。
そっか。
そっか。
私は自分の字を見て、急に恥ずかしくなる。
誰かに見られたら終わる。
慌ててページを捲って、適当な図を描いて誤魔化す。
誤魔化しても、誤魔化したことだけが残る。
教室の後ろの方で誰かが笑っている。
昼休みの予定の話。昨日のドラマ。ゼミの飲み。
声が明るい。明る過ぎる。
明るさが悪いんじゃない。ただ、私の耳にだけ刺さる。
私はその輪の中に居るのに、輪郭が薄い。
頷けば、普通のままに見える。
笑えば、普通のままに混ざれる。
でも今日は頷くのが怖い。笑うのが怖い。
朝の電車で、たった一言を間違えた自分が未だ身体の奥に居る。
──匂いを合わせたと思われたら、気持ち悪い女だと思われる。
今朝、浮かんだその一文が勝手に何度も再生される。
誰もそんなこと言っていないのに。
彼は何も責めていないのに。
私が私を先回りで裁いて、逃げ道を塞いで、勝手に苦しくなる。
講義が終わっても終わった感じがしない。
時間だけが進んで私は置いて行かれる。
キャンパスの風が冷たくて頬が痛い。
痛いのに朝の痛みとは違う。
朝の痛みは、もっと静かでもっと粘る。
帰りの電車の中で私は思い出す。
昔。
未だ『拒絶』という言葉を、拒絶と認識できなかった頃。
同じ様に相手が一歩だけ私に近付いた瞬間があった。
放課後の廊下。
夕方の光が窓から斜めに入って、床に長い影を作っていた。
「好きだ」
その言葉は乱暴じゃなかった。
強くもなかった。
ただ私の目の前に置かれた。
私は反射で引いた。
引いたというより、固くなった。
「……無理です」
言い方が冷たかった。
冷たくしようと思った訳じゃないのに、声が勝手にそういう形を選んだ。
怖かった。
好きと言われることが怖かった。
返事をした瞬間に、何かが決まってしまうのが怖かった。
だから、その人が一体どんな顔で言葉を受け取ったのかも、知らない。
「分かった」
それだけが私の耳に入った。
私は下を向いたまま、見れなかった。
それから、その人は二度と戻って来なかった。
嫌いになった訳じゃなかった。
寧ろ、好きになりかけていた。
でも私は、好きになる前に『怖い』で蓋をした。
蓋をしたまま、蓋の内側でずっと熱を持ち続けた。
そのときも残ったのは結論だけだった。
──嫌いになったんじゃない。怖かっただけ。
私は家に帰る。
鍵を開けて、ドアを開く。
ドアを閉めて、鍵を掛けて、チェーンを掛ける。
チェルシーブーツを脱いで、部屋の灯りを点ける。
コートをハンガに掛け、マフラを外す。
いつもと同じ動作。
いつもと同じはずなのに、今日は全部が少し遅い。
タイツを脱いだら──洗濯物のカゴが目に入る。
昨夜の洗濯物。
レイラの匂い。
私はそこで決める。
謝る。
許してほしいからじゃない。
誤解の芽を摘むために。
そして、私が私を嫌いにならないために。
私は同じ朝を繰り返したくない。
『そっか』で終わらせたくない。
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなる。
熱いのに、強くはない。
決意というより震えに近い。
私は一度、浴室へ逃げる。
逃げるためじゃなく、整えるため。
湯を張って、服を脱ぐ。
メイクを落として、浴室に入る。
湯気が鏡を曇らせている。
SABONの金木犀が優しく泡立って、肌の表面を全部『無かったこと』にしてくれるのを願うみたいに。
身体を洗う。髪を洗う。
ちゃんと。丁寧に。
綺麗になれば綺麗になるほど、逆に怖い。
綺麗な皮膚の下で、朝の一言だけが汚れみたいに残っている。
湯船から出て、タオルで髪を拭く。
化粧水、乳液、ドライヤ。
その手順一つひとつが『いつもの私』に戻るためのリセットボタンみたいだ。
湯上がりの体が軽い。軽いのに、胸の奥だけ重い。
リセットボタンが壊れてしまった。
パジャマに着替える。
その生地が、直ぐ分かる匂いを纏っている。
──レイラ。
洗濯物の匂いと同じ。
さっき浴室で全部を洗い流したはずなのに、ここでまた戻って来る。
私は息を吸ってしまう。
吸った瞬間に、自分で自分が嫌になる。
匂いがスイッチになってしまう。
そんなこと、誰にも言えない。
ベッドに倒れ込む。
シーツがふわっと膨らんで、身体を受け止める。
枕に顔を埋めると、太陽の匂いと生地の匂いが一気に鼻の奥へ流れ込んで来た。
レイラ。
昨夜の洗濯物。
ちゃんと回したはずの柔軟剤。
ちゃんと乾いたはずのパジャマ。
──なのに。
次の瞬間、匂いが擦り替わる。
匂いの奥から別の輪郭が立ち上がって来る。
言葉じゃない、温度だけの匂い。
今朝の隣の席の距離。
ゆうきさん。
私は息が詰まった。
詰まった息が解ける代わりに、胸の奥が変なところで熱くなる。
泣くつもりなんて無かったのに、目の奥が勝手に痛くなる。
違う。
違うはず。
私は枕を抱き締める。
抱き締めて顔を押し付ける。
匂いを消したいのに嗅いでしまう。
嗅いでしまったことに気付いて、直ぐに自分が気持ち悪い。
私はシーツを握る。
握って指に力を入れる。
ギュッと鳴る。
その音が私の中の何かを押し潰してくれる気がした。
声が漏れるのが嫌で歯を食い縛る。
でも涙だけが勝手に落ちて枕を濡らす。
──ここで終わるはずだった。
なのに、身体が静かにならない。
静かにならないのが一番怖い。
熱さでも寒さでもない。居場所の無いざわつきが皮膚の内側を走る。
分かった瞬間、背中に冷たいものが走る。
──やめて。
心の中ではそう言っているのに、手だけが落ち着かない。
落ち着かないまま下着の上で指先が迷う。
迷っていること自体が答えみたいで私は自分が嫌いになる。
……最低。
その言葉が浮かんだ瞬間、私は一度止まる。
止まれたことに安心して、安心した自分が更に最低で、それでも胸の奥の熱は消えなくて、息が浅くなる。
私は枕に顔を押し付ける。
見たくない。
私の中で起きていることを見たくない。
でも、匂いだけが逃げない。
ゆうきさんの匂いが、逃げない。
逃げない匂いに包まれていると、泣くだけじゃ届かない場所がある、と気付いてしまう。
届かないのに届かせたくて、身体だけが先に動こうとする。
奥の方に。
私は仰向けになって布団を掛ける。
天井の白がぼやけて、瞬きが遅れる。
喉が乾いて、唾を飲む音がやけに大きい。
呼吸が上手く出来ない。
胸のどこかが支えて、空気が浅いところで跳ね返る。
指先が冷たくなる。
身体の輪郭が薄くなっていくみたいで、怖くて布団を引き寄せる。
声を殺すため。
誰も居ないのに、誰かに見付かりそうで。
──私、何してるの?
遅れて追い付くその問いが一番鋭い。
鋭いのに、もう遅い。
足の指が、痺れるくらい脈打った──
身体の奥がきゅっと縮んで、堰が切れたみたいに解ける。
頭の中が一瞬だけ真っ白になって、次の瞬間、息が大きく戻って来る。
戻って来た息が酷く情けない音を立てる。
私は動けなくなる。
動けなくなったまま、息を整える振りをする。
不意に現実だけが戻って来る。
──匂いが、変わっている。
さっきまで、ゆうきさんだった輪郭が、急に薄くなる。
薄くなって、代わりに立ち上がるものがある。
体温の匂い。
汗と石鹸と──私の匂い。
私は息が止まる。
止まったまま、吐き気みたいな恥ずかしさが込み上げる。
ゆうきさんに触れたみたいに錯覚して、最後に残ったのが自分だけだと知って、私は自分で自分を許せなくなる。
後始末の手順は分かっている。
その時と同じ動作で、いつもと同じ朝へ戻る。
──でも、今日は戻らない。
パジャマが太腿に貼りついて剥がれる気配が無い。
シーツの表面が、さっきまでと違う温度を保っている。
触れた指先が、微妙に迷う。
迷っていること自体がもう言い訳にならない。
私は布団から顔だけを出す。
ここに居続けるため。
シーツの感触が私の後悔みたいに纏わり付いて剥がれない。
気持ち悪い。
私は、ただ泣いた。
その温度が薄れる前に、そっとゆうきさんの匂いが頭を撫でて、眠りが落ちて来た。




