第四章 コップの底に残る甘さみたいに、救われなかった気持ちは、後から香る。
私は、臨海国立大学の教育学部二年生だ。
講義は真面目に出席している。
単位を落とすのが怖い、というより、落とした瞬間に自分の生活が崩れてしまう気がするからだ。
フル単位を確実に獲る。そういう『自分の守り方』だけは昔から得意だった。
バイトはしていない。
時間が無い訳じゃない。お金が要らない訳でもない。
ただ、知らない場所に自分を置いて、知らない人に慣れて行く。その慣れ方が、私は上手じゃない。
だから、家と大学と駅と駅。
私の生活は大体、その往復で出来ている。
大学一年のときに仲良くなった四人組がある。
女の子が一人、男の子が二人。私を含めて四人。
仲が良いというより、孤立しないための形だ。
誰かが誘って、誰かが決めて、私は頷く。
頷けば、関係は続く。続くから、安心できる。
私は元々、付き合いが良い方じゃないのに、頷くことで『普通』を借りてきた。
今日も講義が終わって、誰かが言った。
「夜、行く?飲み」
軽い声。軽い誘い。軽い予定。
軽い言葉で始まって、軽い予定として私のカレンダに載るはずだった。
でも、私は頷かなかった。
頷くのが急に怖くなった。
断るという行為は、私にとって少しだけ重い。
断ると私の意志が露骨になる。
露骨になると、私の生活が変わってしまう気がする。
それでも言った。
「ごめん。今日は行かない」
理由は一つ。たった一つ。
スタバに行きたいから。工業街口駅のスターバックスに。
工業街口駅のスターバックスは、夕方になると光が少しだけ薄くなる。
窓に映る人の輪郭が、昼より優しく滲む。
ガラス越しの駅前には未だ人の波が流れているのに、店内だけが先に終わりの準備を始める。
一人ひとりの物語が幕を閉じる──そんな時間。
注文の列に並ぶだけで、いつも少し緊張する。
それでも私は、今日も来た。
キャラメルフラペチーノを頼み、受け取りカウンタの近く──逃げられる席に座る。
逃げられる席、という言い方をしてしまう時点で、私はもう自分の目的を知っている。
フラペチーノじゃない。
店内の空気でもない。
ただ、会えるかも知れないという、あの曖昧な期待を今日も胸の奥に隠している。
ホイップの頭にストロを刺す。
喉を通る甘さが胸に伝わって、やっと現実に戻れる。
そのとき、自動ドアが鳴った。
風が入る。
外の匂いが一瞬混ざって、店の空気がほんの少しだけ整う。
──私は、顔を上げる前に分かってしまった。
そう言う風に身体が覚えてしまっているのが、少し悔しい。
彼は、いつも通りの速度で店に入ってくる。
押さない。駆けない。喋らない。戻らない。
歩幅に合わせて、鈴が彼の訪れを告げる。
朝の車内で見ていた防災訓練みたいな人が、そのまま休日や夕方へ移動して来たみたいだ。
私は見ていない振りをする。
見ていない振りをしながら、耳だけが勝手に働く。
レジでのやり取りは短く終わり、彼は受け取りカウンタの前へ立った。
丁度、バーの向こうにさえさんが居る。
あの人の手つきは、いつ見ても綺麗だ。
迷いが無くて、音が少ないのに速い。
私は自分のグラスを見つめて、視界の端にだけ彼を置く。
置けていない。置けていないのに、置いた振りをする。
さえさんの声がする。
「このカスタムが好きなんですか?」
軽いのに、ちゃんと整った声。
「そうだよ。ダークモカチップフラペチーノのロースト抜きで、ホイップ多め、チョコソース普通で、キャラメルソース多め」
彼が直ぐ返す。
「覚えました」
その言い方が、仕事の言い方なのに、仕事だけじゃない場所に触れてしまう。
私はストロに口をつけたまま、息を止めた。
そして、唐突に彼が言った。
「僕は、ゆうきって言うよ」
──名前。
世界が一瞬だけ静かになる。
ミキサの音も、スチームの音も、遠くへ引いて行く。
残ったのは、その一言だけだった。
私は、知らなかった。
知らないまま、勝手に彼を分かった気になっていた。
助け方の癖、声の温度、言葉の置き方。
朝の数分で拾った輪郭を、私だけのモノみたいに抱えかけていた。
でも、名前は──私には、未だ無かった。
さえさんが、彼の名前を口の中で確かめるみたいに言う。
「ゆうきさん……ゆうきさん……」
何度も、心に刻むみたいに。
それを聞いた瞬間、私の胸の奥が熱くなった。
熱いのに、嬉しさじゃない。
嬉しさに似た形をしているのに、違う。
さえさんがもう一度、言う。
「覚えました」
その『覚えました』は、さっきより少しだけ重く聴こえた。
私の方が勝手に重くしたのだと分かっているのに、止められない。
彼が笑う気配がして、続けて言った。
「君は、さえちゃん」
──君。
私は、その二人称が痛かった。
朝の電車で、私に向けられていた『君』。
距離を詰めるためじゃなく、距離を測らないための『君』。
それが今、私じゃない誰かの胸元のネームプレートに結び付いてしまう。
もうさえさんは『君』じゃない。
私は、グラスを持つ手に力が入っているのに気付いた。
グラスの表面に水滴が滲む。
親指で拭っても、また直ぐに滲む。
嫉妬じゃない……と思う。
誰かを奪われた訳じゃないから。
──痛い。
先に取られたというより、もっと嫌な痛み。
先に渡したという事実を、見てしまった痛み。
私は未だ『電車の子』のままだ。
彼に呼ばれる名前の席に、私は未だ座れていない。
私は、彼の輪郭をメモに閉じ込めただけで、彼から何一つ受け取っていない。
名前だけは、受け取らなきゃいけない。
盗み聴きで知った名前は、私のモノじゃない。
私のモノじゃないから、呼べない。
呼べないまま……失うのが一番怖い。
私は視線を上げられない。
上げたら、目が合ってしまいそうで……。
今、目が合ったら、私の顔はきっと彼に全部を伝えてしまう。
ストロの先に残った甘さが薄まって喉の奥へ落ちる。
甘いのに、後から苦い。
苦いのに、嫌じゃない。
嫌じゃないから、余計に困る。
彼がカップを受け取る。
紙が擦れる音。ストロを刺す音。鈴の音。
それだけで、彼がこの店に慣れていることが分かる。
慣れているから、去り際も静かだ。
自動ドアが叫び声を挙げる。
風が入る。
そして閉じる。
店内の音が、元の速度に戻る。
私はそこでやっと息を吐いた。
息を止めていたことに遅れて気付く。
グラスの底に残る甘さみたいに、救われなかった気持ちは後から香る。
今の私は、正に『それ』だった。
──ゆうきさん。
心の中で、一度だけ呼ぶ。
口には出さない。出せない。
だって、私はその名前を本人から受け取っていないから。
受け取っていないのに、もう胸の奥に居る。
それが、嬉しいでもなく、悲しいでもなく──ただ、痛い。
私はグラスを置いた。
底がテーブルに触れて、重く音が鳴る。
その音だけが、今の私の決意みたいだった。
次は、ちゃんと聞かなきゃいけない。
手渡された名前として。
電車の子のままじゃなくて。




