第二章 急がないで、急ぐ心だけを抱えて。急に静かになる瞬間が、一番本当。
次の休日、私は工業街口駅で降りた。
わざわざ、ここで。理由は曖昧だ。
多分……ただ、同じ空気を休日にも持ち込みたかっただけ。
平日の朝だけに閉じ込めておくには、私の中であの電車が少しだけ大きくなり過ぎていた。
駅前のスターバックスは、平日の朝より光が強く見えた。
ガラス越しの緑が、生活の外側みたいに揺れている。
オーダーの列に並ぶだけで緊張する。
私は、スターバックスに憧れみたいなものを持っている。
普段の生活の店というより、ちょっと背伸びの場所。
慣れている人が自然に立っている場所に、私は借りた服のまま潜り込む猫みたいな気持ちになる。店内に爪研ぎをする柱があれば最高だと思う。
レジに居たのは、お団子頭の女の子だった。
名札にはShiori。
しおりさん。柔らかい空気。
笑うと目が糸の様に細くなる。
「こんにちは……あれ?こちらのお店、初めてですか?」
その一言に、私は胸を突かれた。
初めてですか、なんてただの雑談なのに『慣れてないの、分かるんだ』と思ってしまう。
「……はい、初めてです」
「ありがとうございます。ドリンク、迷いますよね」
私はメニューを見ている振りをしながら、覚えてきたドリンクを言った。
「キャラメルフラペチーノって……美味しいですか」
言い終えてから、自分の質問が子どもっぽくて恥ずかしくなる。
味の説明を求めるというより、『背中を押してほしい』みたいな聞き方だった。
すると、ドリンクを作っているカウンタの方から声が飛んで来た。
「キャラメルフラペチーノ、美味しいですよ。私も好きです」
横を向くと、ポニーテールを几帳面に結んだ女の子が、目でにこっと笑った。
私は少し驚き、素っ気無い返事を返す。
「……じゃあ、それにします」
「店内で飲まれますか?それとも、お持ち帰りですか?」
「……じゃあ、お店で飲みます」
私はまともにしおりさんの目が見れない。
注文して、会計して、レシートの番号を握って受け取りを待つ。
店内の椅子はどれも綺麗で、座る場所一つ決めるのにも迷う。
迷っている自分が恥ずかしくて、私はドリンクを受け取るカウンタの近くの席を選んだ──直ぐに逃げられる場所。
私の番号が呼ばれた。
さっきのポニーテールの女の子だ。
「ゆっくりしていってください」
近くで見ると、凛とした瞳。真っ直ぐで強い。年上だろうか。
でも笑うと、その強さがこちらの味方をしてくれてる気持ちになる。
名札にはSAE。
さえさん。綺麗な目。
私はグラスを受け取って、席に座った。
さえさんが手際良くドリンクを作っているのが席から見えた。
その所作が綺麗だった。
コップを持つ指の角度、氷を掬う手の迷いの無さ。
手元だけ見ていても、仕事が出来る人だと分かる。
そんなことを考えた瞬間──自動ドアが開いた。
反射で見てしまう。
黒いキャスケット。白いTシャツに黒いボトムス。白と黒。
──電車の彼が、店に入って来た。
胸が、変な音を立てた。
休日に、工業街口で、スターバックスで。
彼は店内を奥に向かって歩いて行く。
彼の歩幅に合わせて、チリン、チリンと鈴の音がする。
私の近くまで来ると、誰かを探すというよりこの店の空気を一秒で掴むみたいに店内を奥まで見渡し、それからレジへ向かった。
しおりさんが糸の笑顔で対応している。
私は自分のドリンクを見つめて、見ていない振りをした。
彼は直ぐに注文を終え、会計を終えた。
そしてドリンクを受け取る場所の近く──私の直ぐ目の前に立った。
近い。
でも、背中を向けているから私には気付かない。
私から声を掛けるには、近過ぎる。
でも、声を掛けなかったら、永遠に声を掛けられない気もした。
すると、彼は不意にこちらを振り返り、目を少しだけ丸くした。
「あ」
それから、小さく笑った。
「電車の子」
私は慌てて、言葉が詰まる。
「え、あ……」
彼は困ったみたいに笑って、肩を竦めた。
「変だね。休日にここで会うの。君、今日は休み?」
『君』って言い方が、平日の車内より自然に聞こえた。
距離が縮んだ訳じゃ無いのに、ただ場所が違うだけで言葉の温度が変わる。
私は上手く答えられなくて、変なことを言った。
「スタバ……私、憧れで……」
彼はまた一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「可愛い理由だね」
その一言に、私は返事が出来無かった。
可愛いと言われたことに反応したんじゃなくて、その言い方が私を困らせるためじゃなくて……ただ口から出たみたいだったから。
彼の番号が呼ばれたらしい。
カウンタの向こうで、さえさんがコップを差し出す。
彼はそれを受け取って、出口の方へ向かう。
──私は、見てしまった。
彼が出口で振り返り、さえさんに手を振った。
声は出さない。
さえさんも「ありがとうございました」を言わない。
代わりに、同じ仕草で応える。
朝の車内で変な顔をした時と同じ種類の、余計な音を立てない動き。
声を出さずに手だけを振り返した──たったそれだけ。
なのに、その一往復が、私の中で思っていたより長く残った。
長い、というより──整っている。
息を吸って吐くみたいに、自然に。
それはただの仲の良さだけではなく、この店でよく繰り返されてきた合図みたいだった。
彼は、ここでは『初めての人』じゃない。
……あぁ。
胸が痛い。頬の奥がじわっと熱くなる。
私は自分が何に反応したのかを、直ぐに言葉に出来無かった。
彼が誰かに親しい、という話じゃない。
私が『親しくなった気がする』側に居たことが、急に恥ずかしくなった。
平日の朝だけで、あれだけ上手に人を助ける人だ。
休日に店に入って来ても、自然に居場所がある。
そういう人なんだ、と分かってしまう。
分かってしまった瞬間、私の中で膨らみかけていたものが勝手に萎んだ。
──偶然を、特別みたいに扱いかけていた。
特別なのは、私の方の勝手都合だった。
私はストロに口をつけたまま、視線を落とす。
グラスの冷たさが手の平に滲んで、指先が少しだけ濡れた。
その冷たさが、落ち着けとアラートを出してくれたみたいだった。
店内の音は、もう元の速度に戻った。
私は、グラスの表面についた水滴を親指で拭った。
拭っても、また直ぐに滲む。
ちゃんと拭けないところが、今の気持ちみたいだと思った。
私は、何を期待してたんだろう?
期待、というより──勘違いだ。
勘違いの芽が、勝手に伸びかけていただけ。
私は、彼のことを分かった気になっていた。
朝の数分で拾った輪郭を、私だけのものみたいに抱えかけていた。
でも、彼はただ誰にでも同じ速度で優しい人で。
私はその優しさの近くにたまたま居ただけなのに、座席を自分の指定席みたいに思い込んでいた。
ストロの先に残る甘さが喉の奥に落ちる。
甘いのに、少しだけ苦い。
私は視線を上げないまま、もう一口飲んだ。
ストロは私の唇から離れず、傍に居てくれた。




