第一章 りんかくの曖昧な優しさが、凛とした日常の端で鼓動する。
電車のドアが開く瞬間、朝の空気はいつも少しだけ冷たくなる。
駅のアナウンス、足音、傘の水滴、湿ったコートの匂い。
人が増えるだけで、車内の顔つきが勤務前へ揃っていく。
その変化を、毎朝ぼんやり眺めている。
八時三分発。工業街口駅で停車する通学電車。
いつも、工業街口駅より少し遠くの杜ノ宮駅から乗り、大学のある臨海ターミナル駅で降りる。
家から大学まで約一時間。後ろから二両目の、この時間が好きだ。
途中、工業街口駅でドッと人が乗って来る。
ドアが開いた瞬間、ホームの音が一気に雪崩込む。
アナウンス、足音、傘の水滴が床に落ちる音。
電車の中では背中と背中がぶつかって「すみません」が重なって、外では雨と地面がぶつかって『おはよう』が重なる。
その波の中に、いつもの彼が居る。
今日はチャコールグレーのスーツ。高そうなスーツではないけれど、どこか品がある。
品格とは『見られてる』という意識だと思う。
そして、どこかふざける余白がある人。
押さない、駆けない、喋らない、戻らない──彼だけいつも防災訓練中なのだろうか?
最初は、ただの乗客だった。
それでも気付けば、彼が乗ってくる瞬間を毎朝ちゃんと待っている。
名前も知らない男の人──朝だけの知り合い。
ある朝、彼の直ぐ近くに小さな子どもを抱いたお母さんが居た。
子どもは今にも泣きそうな顔で、お母さんの肩に顔を押しつけている。泣く直前の、息を溜めている顔。
混んでいる車内で誰もが気付いているのに、誰も『正解の動き』が分からない。視線だけが泳いで、音だけが増える。
お母さんは困った様に「もう少しだからね」と囁いたけれど、子どもの唇はどんどん尖っていった。
その時、彼が子どもの視界に入る位置へ、ほんの少しだけ身体を傾けた。
ほんの少し。わざとらしくない角度。
でも、ちゃんと見える角度。
そして──変な顔をした。
頬を膨らませて、目をぎゅっと細めて、口だけで『ぶー』と言うみたいに。
声は出していない。朝の車内で、余計な音を立てないまま、顔だけで巫山戯る。
くだらない。
なのに、子どもの瞳が止まった。
……一秒……二秒。
子どもはぽかんとして、それから急に笑いを堪えるみたいに肩を震わせた。
お母さんが、驚いて振り向くと──変わらず変な顔。
お母さんも思わず笑った。
その笑いに釣られて、車内の緊張がほんの少しだけ解ける。
咳払いが一つ、スマホの画面をスクロールする爪音が戻り、誰かが肩の力を抜く気配がした。
彼は勝ち誇るでも無く、ただいつもの顔に戻って、吊り革に手を伸ばした。
顔を崩した後の戻し方まで、慣れているみたいだった。
私は妙にその一連が頭に残ってしまって、スマホのメモに打った。
『変な顔で泣き止む。全力で巫山戯る。恥ずかしがらない。音を立てない。』
私にはメモを取る癖がある。気付いたことをそのままにすると、直ぐ感情は海に流されてしまうから。
それにしても、と思う。
誰かを笑わせるために自分の顔を崩せる人って、朝の電車に存外居ない。
数日後、車内の空気が揺れた。
「あの……すみません……」
か細い声。吊り革を掴む手が震えている。
女性が顔色を悪くしていた。
唇が白い。目が焦点を結べていない。吐き気を堪えている人の、呼吸の浅さ。
混んでいる車内で誰もが気付いているのに、誰も『正解の動き』が分からない。
声をかけても、余計に焦らせるかも知れない。
駅員さんを呼ぶのも、本人が嫌がるかも知れない。
迷いが伝染するみたいに広がった。
その迷いが形になるより早く、彼が動いた。
「すみません、少し空けてもらっていいですか」
声は大きくない。でも、言い切る速さがある。
押しつけじゃないのに、拒否されにくい言い方。
彼は周りに頼みながら、女性の前だけ薄く空間を作った。
誰かを退かすんじゃなく、皆が自然に半歩ずつズレるように言葉を置く。
それから女性に、目線を合わせるように少し屈む。
「次の駅で降りられそう? 駅員さん呼ぶ?」
『助けます』じゃなくて、選べる形で差し出す。
私はそこで、彼の助け方に癖があるんだと気付いた。
大きくしない。目立たせない。本人の嫌を先回りして避ける。
だけど、置いていかない。
女性は小さく頷いて「次で……」と答えた。
彼はそれだけで理解したみたいに「うん」と言い、次の駅で一緒に降りた。
降りる直前、彼は周りに軽く頭を下げただけで、余計な言い訳もしない。
車内が勝手に『良かったね』と思えば良い、みたいに。
ドアが閉まる直前、駅員さんへ向かって手を上げる背中が見えた。
やり終えた顔ではなく、ただ『日常』の顔。
私はまたメモに打った。
『助け方が五月蝿くない。選ばせる。置いていかない』
別の日。
彼は珍しく座っていた。
座席の端。膝をきちんと揃え、スマホも見ずに窓の外をぼんやり眺めている。
その姿だけで、朝が少し静かになる。
次の駅で、おばあさんが乗ってきた。
混んだ車内で、遠慮がちな目をして、立つ場所を探している。
手すりに触れようとして、でも遠くて、指先が空を掴むみたいに揺れた。
彼は視線だけで状況を見て、直ぐ立った。
立ち上がるスピードに迷いがない。
座っていた時間が短いからじゃなくて、決めるのが早い人なんだと思った。
「どうぞ。座ってください」
声は柔らかいのに、断らせない強さがある。
おばあさんが『いいの?』という顔をして、彼が小さく頷く。
その頷きは『遠慮しないで』じゃなくて、『あなたが座るのが自然』っていう、当たり前の顔だった。
おばあさんは「ありがとうねぇ」と笑い、席に座った。
彼は立って、吊り革に手を伸ばした。
それだけのことなのに、私は胸が少しだけ痛くなった。
痛い、というより、眩しい。
こういう人は、多分普段からこうなんだ。
特別な日だけじゃなくて、いつも。
私はメモを開きかけて、やめた。
言葉にすると、眩しさが薄まってしまいそうだったから。
雨の日の朝。
洗濯機の蓋を開けた瞬間に立ち昇る匂いが、未だ鼻の奥に残っていた。
柔軟剤はソフランのアロマリッチ──キャサリン。
甘過ぎないのに冷たくもない。
華やかで可憐な香りで、一人暮らしを始めた三年前から使っている。
着替えるより先に香りが胸に入り込んで来るから、この匂いが『自分の匂い』だと思っている。
私は座っていた。
窓際の端っこ。
肩に窓の冷たさが伝わる席。
雨の日の車内は、湿気で音が丸くなる。
コートの水分が乾かないまま集まって、空気が重い。
隣の男性は、座った瞬間から眠そうだった。
首が少しずつ揺れて、瞼が落ちて、顎が胸に触れそうになる。
倒れて来るかも──
そう思った瞬間、男性の頭が私の肩に落ちて来た。
──重い。
座っているから逃げ場が無い。
肩を引けば、その人は前へ倒れるかも知れない。
押し返せば、変な揉め事になるかも知れない。
声を出したくない。朝の車内で注目を浴びたくない。
私は固まって、ただ視線だけを動かした。
彼が、直ぐ近くに居た。
今日は二人分程、離れた位置に居たと思う。
だけど、いつの間にか私の目の前に居た。
動きが速いのに、音がしない。人の間を抜けるのが上手い。
「すみません」
彼は眠っている男性に向けてではなく、私に向けて言った。
同じ「すみません」でも、意味が違う。
謝ってるんじゃなくて、こちらの緊張をほどく合図みたいだった。
彼は眠っている男性の肩を軽く叩き、起きないと見るやそっと自分の手の甲で男性の頭を支えるようにして、私の肩から重さを外した。
乱暴じゃない。でも、こちらの負担をちゃんと抜く。
私は息を吐いた。
自分が息を止めていたことに、そのとき気付いた。
「……ありがとうございます」
声が小さくなった。
彼は私を見て、少しだけ笑った。
「大丈夫?」
心配の押し付けじゃない。
確認。
私の状況を私のものとして扱ってくれる言い方。
私は頷いた。
「はい。大丈夫です」
そう答えたのに、胸の奥がしばらく熱かった。
雨の日の湿気のせいじゃなく、私が変に意識してしまったせいだと思った。
それから、彼と朝の会話が少しずつ増えた。
とは言っても、朝の電車の会話は長くは続かない。
駅、ドア、降車、流れ。日常は分断される。
会話は途切れることが前提のものになる。
それでもある日、彼がポツリと言った。
「この前、雨酷かったね。君、濡れてたじゃん」
──君。
私はその二人称に一瞬だけ、心臓が跳ねた。
現実で『君』って呼ぶ人は、あまり居ない。
ちょっと作ってる感じが出るから。
そう思う人も多い。
私も、多分そう思う側だ。
でも彼の『君』は、距離を詰めるための言葉じゃなくて、距離を測らないための言葉みたいだった。
誰かを特別扱いするんじゃなく、目の前の人をちゃんと一人として呼ぶための言葉。
彼は続けて、さらっと言う。
「僕は、雨の日ちょっと好きなんだ。僕、晴れ男だから」
──僕。
彼は一人称も二人称も、普通の人より頻繁に使う。
それはきっと、自分の感情や考えが人とは違うことが当たり前の様に受け入れているからかも知れない。
私は何か返そうとして、うまく言葉が出なくて、メモに打った。
『君、を多用。僕、も多用。気持ちを言語化する癖』
彼は私のスマホを覗いた訳じゃない。
けれど私は、こうして自分の中で整理しないと落ち着けない。
気持ちが勝手に動くのが怖いから、言葉で囲っておきたい。
囲っておけば、安全だと思っている。




