プロローグ 取るに足らない朝の取るに足る鼓動。取っ手の熱さだけが理由を知っている。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・出来事は架空であり、実在のものとは関係ありません。
※作中に登場する商品名・サービス名は、各社の商標または登録商標です。
工業街口駅のスターバックスは閉店が近付くと店の呼吸がゆっくりになる。
いつも誰かの一日の終わりに立ち会っているみたいに。
ブレンダの氷を砕く音が昼間より少しだけ澄んで聴こえる。
レジの声は角を落として、マストレーナのスチーム音は短く静かに終わる。
カップにスプーンがぶつかる音も、カップルに言葉がぶつかる音も急かすためじゃなく、店がちゃんと片付いていくための必要な音になる。
店内の照明がほんの少しだけ色を変える。
白っぽい明るさが引いて柔らかい影が増える。
その変化に一々気付くのは、多分、昔から待つのが得意だったからだと思う。
この店には、変な優しさがある。
誰も、誰かを見ていない振りが出来るのに、誰かのことはちゃんと見えている。
泣いている人が居れば分かる。
疲れている人が居れば分かる。
無理して笑っている人が居れば、もっと分かる。
今日がどんな日でも。
今日が少しだけ良い日でも。
今日がただの一日でも。
この店はいつも同じ顔でそこにある。
そういう場所は時々人を救う。
映画も、物語も座るところから始まる。
私は、ただ座って窓の外を見る。
ガラスの向こうの駅前は未だ人並みに人の波が流れている。
駅へ向かう人、タクシを待つ人、スマホを見ながら歩く人。
誰かの生活がここでは映像みたいに通り過ぎて行く。
人の流れの中に、もしも。
もしも、ほんの少しだけ見覚えのある気配が混ざっていたら。
それだけで、ちゃんと笑える気がした。
窓ガラスに映った自分の顔は思っていたより大人だ。
でも目だけは時々、昔のままになる。
何かが来るのを待っている目。
来ないかも知れないのに、それでも待ってしまう目。
閉店前のこの薄い時間に過去が勝手に滲んで来る。
言葉になる前の感情が音の隙間から顔を出す。
それから、漸く思う。
あの日の朝のことをちゃんと思い出そう、と。
工業街口駅のホームで。
電車のドアが開く瞬間の、あの八時三分から。
カップを置く。
カップの取っ手の熱さだけが、未だ理由を知っている。
ドアが開く。
風が入る。
顔を上げる。
──物語はいつも、モバイルオーダーみたいに突然始まる。




