第十一章 花は散るから、手渡せる。始めから永遠なら、触れられない。
憂鬱な気持ちで、大学への電車に乗った。
いつもの車両。いつもの空気。
もう、期待しないつもりだったのに、身体は期待の形を覚えている。
工業街口駅で、ドアが開く。
──ゆうきさんが乗ってきた。
胸が一回だけ跳ねて、心臓が止まった。
跳ねたことを隠せない。
隠せないのに、顔は平気な振りをする。
止まったはずの心臓も、平気な振りで動き出す。
彼は私の隣に座った。
シートが、あの夢の中みたいに沈み込み、私の身体がほんの数ミリ彼に近付く。
彼は窓の外に視線を向けながら、ポツリと言う。
「社会人は大変なんだよ」
その言い方が急に現実で、私は笑いそうになる。
笑えない。笑ったら泣きそうになる。
笑顔より、涙が先に、ゆうきさんに会いたかったって言ってるみたいに──。
ずっと言いたかった『ごめんなさい』って言おうとするけれど、喉のミキサする四角い大きなピッチャに引っ掛かったフラペチーノみたいに言葉が上手く出て来ない。
だから──私は、絶対に名前を聞く。
方法は決めていた。
iPhoneのメモアプリを開く。
画面の白さが、朝の車内では少し眩しい。
白が眩しいのは、画面だけじゃない。
言えないことの輪郭まで浮かび上がるから、眩しい。
私は打った。
『あなたの名前を知りたいです』
そして、iPhoneを彼に渡した。
手が震えそうになるのを、肘で抑えた。
電車の揺れのせいに出来る程度の揺れに、震えを紛れ込ませた。
彼は画面を見て。
驚いて。
──それから笑った。
笑い方が、少しだけ照れている。
彼の指が動く。
打たれる文字を、私は見ない振りが出来ない。
『僕は優樹。君は?』
返される。
私の瞳の奥が熱くなった。
盗み聴きで知っていた名前が、やっと手渡された名前になる。
『知っていた』と『渡された』は、同じ言葉でも重さが違う。
重い方が、嬉しい。
私は打つ。
『私は、朱憂です』
送信じゃない。
手渡し。
それが、こんなにも重い。
優樹さんが画面を見て、また小さく笑った。
「朱憂ちゃん、か……」
その呼び方が、今度は痛くない。
痛くないから、泣きそうになる。
「優しくて、気高い名前だね」
──そう言って、優樹さんは笑った。
電車は進む。
駅名は呼ばれて、何度も消えて行く。
でも今だけは、消えないものが一つ増えた。
「朱憂ちゃんは、これから大学?」
私は頷いた。
頷けることが、少しだけ救いだった。
言葉じゃなくても、会話が成立する。
成立するだけで、檻が一つ減る。
「僕さ、今日も仕事なんだよ」
久し振りの『僕』が、音になって私の胸に沈む。
喉の奥が、ひゅっと解ける。
解けた分だけ、朝の空気が潜り込む。
「……大変、なんですか?」
「大変。だけど、慣れるよ。でも、それがちょっと怖いんだけどさ」
私は、上手く返せない。
返せないのに、胸の奥が『分かる』を先に作る。
痛みは慣れる。それが怖い。『分かる』。
『分かる』の輪郭が先に出来ると、受け止める時間だけ言葉が遅れる。
遅れる言葉は、いつも置いて行かれる。
優樹さんは窓の外に視線を置いたまま、言う。
「最後に会ったとき、変なこと言って……ごめん」
『君、僕と同じ匂いがする』──違う。
私が謝りたい。
けれど、喉の奥のフラペチーノが未だそこにある。
あるから、私は別のものを出す。
「……優樹さん」
呼ぶと、優樹さんの顔がこちらを向き、瞳の中に私が映る。
「うん」
それだけで、電車の揺れが、さっきより優しくなる気がした。
気がしただけで良い。
気がした、を頼りにするしか無い朝がある。
優樹さんの瞳が、電車の揺れとは違う揺らぎを持っている。
──不安?恐れ?
優樹さんの降りる駅に、電車が滑り込む。
席を立った優樹さんの背中に、私の声がそっと触れる。
「また、会える?」
優樹さんがこちらを振り返り、にこりと笑って頷いた。
私もそれを受けて、頷く。
頷くことが怖い日もあるのに、今日は頷けた。
頷けたことが、少しだけ嬉しい。
それから、私達は名前で呼ぶようになった。
「優樹さん」
「朱憂ちゃん」
名前は、距離を決めるモノじゃなくて、距離を守れるモノだった。
『電車の子』のままだった私が、やっと自分の席に座れる。
朝はいつも薄い。
薄い光の中で、優樹さんの横顔だけが濃い。
濃いものは怖い。
でも怖いから、目を逸らさない練習をする。
ある日、風が強い日があった。
ドアが開くたび、外の冷たさが車内へ細く差し込んで、首元だけが刺されたみたいに寒かった。
優樹さんが「寒いでしょ」と言って、Vivienne Westwoodの白いマフラを私に貸した。
私と同じ──優樹さんの匂い。柔軟剤のレイラ。
「受け取れない」と言うと、優樹さんは少し困ったみたいに笑って、
「明日、返してくれれば良いから」
と、小さな約束をする。
当たり前の様に、繰り返される約束と約束と……約束。
それが、会えなかった日々が夢だった様で──
世界が嘘を吐いていたみたいで──
もし、次の日に会えなくても、約束が私達を繋いでいる様で──
もう、離れることに恐怖は感じなくなっていた。
「朱憂ちゃん、今日、講義?」
「……うん。午後だけ」
「そっか。僕は会議。会議ってなんか──空気が重い」
重い、という言い方が可笑しくて、私は少し笑った。
笑える。
笑えることが嬉しい。
笑えると、喉の奥のフラペチーノの氷が少しだけ溶けて落ちそうになる。
年末年始、優樹さんは岐阜県の多治見市にある実家に帰省するらしい。
電車で並んで座って、別れ際に私が言う。
「……暫く会えないね」
優樹さんは軽く笑った。
「お土産買ってきてあげるよ」
その言い方が、私を忘れないで居てくれるって言っている様で──約束じゃないのに、残った。
残る言葉は、勝手に束になる。
束になると、解けなくなる。
年が明けて二〇二六年。仕事始めの日。
電車で会って、本当にお土産を渡された。
「はい」
白い袋に、養老軒の文字が小さく滲んでいた。
「え、本当に買って来たんですか?」
「買って来たよ。言ったじゃん」
言ったじゃん、の言い方が優しい。
優しいのに、逃げ道を塞がない優しさだ。
塞がない優しさは、私の呼吸を許す。
私はお返しに、準備していたチョコレートを渡す。
少し早いのは分かっていた。
でも『早い』って笑い飛ばされる程度の、勇気の形が欲しかった。
「バレンタインデー?気が早くないか?」
茶化されて、私は笑う。
優樹さんも、一緒になって笑う。
二人で笑えることが嬉しい。
優樹さんのお土産のふるーつ大福は、二つあったから、私達二人で半分こした。
※物語の都合上──最終章は、1月30日(金)21:00に公開。エピローグは、その1時間後(同日 22:00)に公開します。




