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一二話 願い2

「不安定だとどうなるの?」

 私の声には動揺が滲んでいた。博文さんが訝しげに眉をあげる。

『あのままの状態を維持するか、成仏するか、悪霊と化すか。どう事態が転じるか分からないと言っているんです』

 博文さんもそうなのだろうか。このままの状態を維持するか、成仏してしまうか、それとも……。頭に浮かんだ嫌な想像を私は必死で打ち消した。この自我の塊のような博文さんが簡単に成仏したり、ましてや悪霊化するなんてあり得ない。

『それに、その手に握り締めているお守りはなんです?』

 言われて、私は掌の力を抜いた。知らず知らずにポケットの中で握り締めていたらしい。

「何って、博文さんも昨日見てたでしょ? お守りってすごいよね」

 公園で女性の霊に追いかけられて転んでしまったとき、もう駄目だと思った。けど買い物袋についていたこのお守りが助けてくれたのだ。

 参拝といえば初詣だけ。それもお賽銭は入れるものの自分勝手にしょうもない願い事をしておみくじをひいて帰る。そんな私を助けてくれるとは神様はなんて懐が深いのだろう。こんなことなら、もっと早く神様に頼れば良かった。

 そうだ。お守りを学校鞄につけよう。そうすればきっと神社の幽霊も怖くない。

『お守りが霊を弾いたと思っているようですが、違いますよ』

 新しいお守りを買いに行こうか、それとも母に頼んでこれをこのまま譲ってもらおうか。そんなことを考えていた私に、さらりと投げかけられたのは思いもかけない言葉だった。

「違う? なにがどう違うの? 昨日このお守りを突きつけたら、なんというか何かが当たるような手ごたえがあって、目を開けたら幽霊が後退してたんだよ?」

 あれがお守りの力じゃない?

『やはり無意識のなせる業でしたか』

 博文さんの声はどこかがっかりしているようだった。

「どういうこと?」

 公園に向かって歩きながら説明を求める。博文さんは止めても無駄だと悟ったのか、軽く肩を竦めると後を付いてきた。

『貴女に告げるべきかどうか迷いますが……』

 そう前置きして博文さんが話し始めたことには、お守りには霊を祓う効果は全くないらしい。私がお守りの効き目を微塵も疑わず、頭からまるっと信じたおかげで、美術室で博文さんを弾いたときと同じ、無意識の力が働いたらしい。それは本来生者が持つ死者を凌駕する力の一端である。だからあの時、霊を弾けたのだとか。

「信じられない……」

 説明を聞き終わって私がもらした呻きに、博文さんが嘆かわしいと言わんばかりに首を振る。

『家内安全や交通安全のお守りにどうして霊を祓う力があると思ったのか、僕にはそちらのほうが信じられません』 

「そうじゃなくて!」

 思わず大声を上げてしまい、私は慌てて辺りを見回した。幸い近くに人影はない。

「なんでそれ言っちゃうの」

 声を落として博文さんに抗議する。

「お守りの効き目を信じてたから霊を弾けたんだよね? だったらそのまま信じさせてくれたら良かったじゃない」

『ですから告げるべきか迷うと言ったでしょう』

「明らかに判断ミスでしょ」

 私は博文さんを睨みつけ、スカートの中から二つのお守りを取り出した。

 掌の上の、ピンクと水色の可愛らしい色合いのお守り。今の今まで霊験あらたかな、有難いアイテムだと思っていたのに、どこか色あせて見える。

「これ持ってても、もう意味ないんだね」

 お守りをポケットにしまう私を見ながら博文さんは首を捻った。

『そうとは言い切れませんよ』

「どうしてよ」

 効き目がないって言ったのは博文さんなのに。

『貴女はそのお守りに何の効力もないと知って、それをどうしますか? 屑篭に捨てますか?』

「そんな罰当たりな……。また買い物袋につけとくよ」

 新しいお守りを買う時に母が返納するだろう。

『なぜです? 効果がないのですよ? そんなものを後生大事にしても意味がないでしょう。だったら捨ててしまえばいいではありませんか。言っておきますが交通安全や家内安全の効果もありませんよ。貴女だって交通安全のお守りを持っていれば事故が防げるとは思っていないでしょう?』

 博文さんに問われて私は黙り込んだ。確かに交通安全のお守り一つで事故に遭わなくなるだなんて思っていない。お守りに効果がないのだとしたら、これは神社で売られているただのカラフルな飾りだ。父が出張先で買ってくるお土産のキーホルダーと大差ない。大量にたまったキーホルダーは、先日、父の目を忍んで処分したばかりだ。

 けれどポケットの中のお守りを、同じように捨てられるかと言われると、違う。いくら効果がないと言われてもお守りをごみ扱いするのは抵抗があった。

 返事が出来ない私を見て、博文さんは満足げに頷く。

『効果がないと言われても処分できないのは、貴女の心の深いところに神を信じ畏れる気持ちが根付いている証です。日々の生活の端々から、あるいは近親者の教えや行いから、産まれてからこれまでに育まれてきたものはそうそう捨てられるものではありませんから』

 博文さんの言いたいことが、なんとなく分かった。

「つまり私がお守りをぞんざいに扱おうって気持ちにならない限りは、心のどこかで信じているから昨日みたいな力が発揮できるかもしれないってこと?」

『その通りです』

 博文さんは、良くできましたと言わんばかりにゆっくりと首を縦にふる。

『お守りを持つことによって心に僅かばかりの余裕が生まれ、それが良い効果をもたらすことがあります。それと同じですね』

 プラシーボ効果というものでしょうか。と言ってから博文さんはひたりと私を見据えた。

『ただし、霊に対して効果を発揮したところで、それはあくまで貴女の力であることを忘れないで下さい。お守りは貴女の力を引き出すための補助にすぎません。物に頼るのはナンセンスであるとよく覚えておいてください』

 そう言う博文さんの様子があまりに真摯だったものだから、気圧されて「わかった」と頷いてみせたものの、自信はなかった。

 生者に備わるという死者を凌駕する力だなんて目に見えないものよりも、ポケットの中の形あるお守りのほうが余程分かりやすく、信じやすい気がするのだ。

 じっとこちらを見詰めていた博文さんは、そんな私の胸中を読み取ったかのように小さくため息を吐いた。

『一番は霊に近づかないこと、見えていると気取られぬことですがね。さあ、公園につきましたよ。お手並み拝見といきましょうか』

 博文さんが右の掌を広げて示した先には、日傘を差した女性の霊がいた。


 隅には水溜りが残っている箇所があるものの、日当たりの良い公園の土はそのほとんどが渇き始めていた。

 彼女は、最後に見たときと寸分違わぬ位置にひっそりと立っていた。ぼうっと宙に向けられた視線からは今何を思っているのか推し量ることはできない。

 昨日の出来事を覚えているだろうか? まだ意識はあるのだろうか。

 ほっそりとした肢体や儚げな雰囲気からは、およそ恐ろしげなものは感じ取れない。だが昨日もまりちゃんがボールを落とすまではあんな感じだったのだ。それが一瞬で豹変した。その時の彼女の様子を思い出すと、ぐっと臓腑を掴まれるように体が強張る。

 本音を言えば、怖くてたまらない。彼女のことは忘れて今すぐ家に帰ってしまいたい。けど、どうしても伝えたかった。昨日義直さんから聞いた言葉を。まりちゃんはお母さんのもとへ帰ったと。

 もちろん伝えたところで彼女が成仏できるとは思っていない。彼女が死んでもなお気にかけ守りたかった相手は彰くんだ。

 私はポケットの中のお守りを確かめながら、公園に向かって足を踏み出した。緊張でお守りを握り締める手が汗ばんでいた。

「あった。ここだよ。ああ、懐かしいな。何も変わってない」

 公園に足を踏み入れた正にその時、明るい男の人の声がした。

「待って、彰。この辺の土ぬかるんでて……」

 次いで聞こえたのは若い女性の声。

 彼女が呼びかけた名前に驚いて、私は声がしたほうに顔を向けた。

 そこにいたのは一組の若い男女だった。

 ぬかるみを避ける女性に肘を貸す男性の手にはピンクのカーネーションの花束。綺麗にラッピングされ、赤いリボンが結ばれている。

 男性は懐かしそうに目を細め公園の様子を見まわすと、ある一点で視線を止め、朗らかに笑みを浮かべていた顔を引き締めた。

「あそこだ」

 無理やり絞り出したような掠れた声だった。

 男性の視線の先にあったのは、いくつかある出入り口の一つだった。車両の進入を防ぐポールが3本立っており、その先は坂道に繋がっている。

 硬い表情で微動だにしなくなった男性の手に、女性がそっと自身の手を重ねた。何も言わずぽんぽんと重ねた手を叩く。男性が小さく頷くと二人は揃って歩き出した。

 ポールの前に立つと男性は唇を噛みしめた。それから大きく息を吸い込み、話し始めた。

「母さん。彰です。来るのが遅くなってごめん。事故のあと、俺が退院してすぐに引っ越して、来られなくて……。何度も父さんにこの公園に連れて行ってと頼んだけれど、父さんは母さんの死にショックを受けてて、駄目だったんだ。俺も小さかったから、住所も分からなくてまいったよ」

 男性はそう言うと今にも泣き出しそうな顔で笑みを浮かべた。

「今日はどうしても報告したいことがあるからって、やっと父さんからここの場所を聞き出して来たんだ」

 男性は隣の女性に視線を移してから、すっと胸を張った。

「俺、結婚します。母さんが守ってくれたから俺はこうして幸せになれました。ほんとうにありがとう。それからごめんなさい」

 一気にそう言い切ると頭を下げる。

 再び顔を上げたとき、彼の眼は真っ赤に染まっていた。

 振るえる唇を噛みしめ、花束を地面に置く。

 堪えていた滴が頬を伝うと、隣の女性が鞄からハンカチを取り出して差し出した。彼はそれを受け取ると目に押し当て、肩を震わせ始めた。

『届いたようですね』

 二人の様子に見入っていた私は博文さんの声で我に返った。

「何が」なんて問うまでもない。日傘をさした霊がいた場所に視線を向ける。

 彼女は笑っていた。

 何も言わず、彼に近付くこともなく、彼女は静かに姿を消した。この上なく幸せそうに笑いながら。

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