転7
転7
篠崎美月の自宅を出たあと、沢渡と黒川は今日の捜査はここまでと判断した。繁華街へと消えていった沢渡と別れた黒川は地下鉄の駅へ向かっていた。地下への階段を降り始めたそのとき、スマートフォンが震える。画面に表示された名前を見て、黒川の右眉がわずかに上がった。
「もしもし?」
「もしもし?私。お兄ちゃん?いま大丈夫?」
「大丈夫だけど……そっちは大丈夫なのか?今、明け方だろ」
「うん。朝の四時半。徹夜明け〜」
「仕事か?」
「そう。うちのボンクラ上司のせいでさ。聞いてよ、最初は私のデザインにいちゃもんつけて直させたくせに、クライアントの意見が私寄りだって分かった瞬間、手のひら返して元に戻せって言うの。結局、全部やり直しだよ」
一息に吐き出す。
「あいつ、私が日本人だからって見下してんだよ。ほんと器ちっちゃい。身長は二メートル近いのに、ほんとちっちゃい」
「……そうか。大変だな」
由依は病気を克服した。時間はかかったが、学校に通えるだけの体力も取り戻した。ただ、長い入院生活で勉強は大きく遅れ、途中からフリースクールに通うことになった。
そこは、由依のペースに合わせて学べる場所だった。決められた科目に縛られず、興味のあることに集中できる環境は、彼女の性格に合っていた。
フリースクールには外国人の生徒も多く、由依は日常的に英語に触れ、多様な文化の中で過ごすことになる。その流れで、中学卒業と同時に海外留学を選んだのも、自然な成り行きだった。
「生まれてからずっと、金のかかるやつだ」
父親は冗談めかしてそう言った。それが冗談として成立するほど、由依が元気になった証でもあったが、黒川だけは、その言葉の裏で自分は金のかからない道を選ぶしかないのだと、無言の圧を感じていた。
結果として、黒川は国立大学に進学し、警察官になった。
由依は、卒業と同時に帰国するものだと、家族は思っていた。だが、知らぬ間に現地で就職活動を進めており、そのまま海外で働き続けていた。
「由依、あのさ……小学校のときなんだけど」
「ん? なに?」
「捨て猫の世話、二人でしてたことあっただろ。空き家だったところで。覚えてるか?」
「あぁ……そんなこともあったね。あの猫死んじゃったんだよね?」
「え?……知ってたのか?」
「うん。クラスメイトから聞いたよ。私たち以外にもエサあげてた子がいたみたいでさ。隣のクラスの子だったかな。猫にチョコあげたって。それが致命傷じゃないかって噂してた。チョコは信じられないよね」
と軽く笑う由依に、――お前は果汁グミをあげようとしてただろ、と言いかけたが口には出さなかった。
それより拍子抜けするほど、由依はその出来事を過去のものとして受け止めており、黒川は胸のつかえが取れた。
「ところでさ……話は変わりまして、優しい兄上にちょっとお願いがありまして…」
声の調子が変わる。
黒川は、次に来る言葉を予想して顔をしかめた。
「なんだよ……またか?お前んとこ給料ちゃんと出てんのか?」
「先月分の入金が二週間先なんだよ〜。物価高くて、私生きてけない…お店のラーメンが、お店のラーメンが四千円するんです。ちなみに昨日のレート、1ドル154円で計算しております」
「……わかったよ。あとで送金しとく。ちゃんと食べろよ」
「ありがと〜。あと、いつものやつもなくなりそうだから送ってくれない?」
「あぁ。来週なら送れるかな。ぶどう味だけでいいんだよな」
「ぶどうでオッケー。あれが一番集中できるんだよね」
「年末年始は帰って来れそうか?」
「多分ね〜。帰国したら、かわいい妹の顔いっぱい見せてあげるから」
一方的に言い切り、由依は電話を切った。
黒川はその場で送金手続きを済ませ、由依にメッセージを送る。すぐに返ってきたのは、深々と頭を下げる猫のスタンプだった。
「……ったく」
スマホを内ポケットにしまい、黒川は地下鉄の階段を降りていった。
同じ頃、海を越えた遠い国では、朝日が昇り始めていた。ブラインドの隙間から射し込む光が、由依の机を少しずつ染めていく。
鉛筆で描いたラフを、パソコン上で仕上げる。右手でタッチペンを操り、拡大と縮小を繰り返しながら細部を詰めていく。
完成と判断したとき、由依は小さく息を吐いた。
画面には、華やかなジュエリーデザイン。由依はあくびをしながらそれを眺め、机の脇に置いた果汁グミの袋から、紫色の一粒を取り出して口に放り込む。
「……三時間くらい、寝れるかな」
そう呟き、データを保存してパソコンを閉じた。
机の上に置かれたペン立てには、ボールペンや鉛筆が無造作に収納されている。そのうちの一本に、黒いビーズを繋ぎ合わせたブレスレットがぶら下がっており、昇り始めた朝日に照らされ、ほんの少しだけ輝いていた。




