対岸
文吾さんのゼミナールの学生たちは、わたしが農作業着を来ているのにちょっと吃驚したみたいだった。華やかな奥さんだと聞いていたものですから、と、学生のひとりは言った。学生だから、思慮が足りなくて、思わず言ってしまったんだろう。ドレスを着るときもあるけれど、農作業着を着ることもあるよ、とわたしは言った。だってここに住んでいる以上、文吾さんの畑仕事、手伝わなきゃいけないもの。おいしいよ、このパプリカとか。栄養にもいいしね。学生たちは困ったような顔をした。うーん、噛み合わないなあ。
「妻のみなみだよ」暑い畑の中で、文吾さんはわたしを紹介した。こんにちは、とにっこりする。こんにちは、とにっこりすることが、妻っぽいと思ってにっこりしておく。こんにちは、と学生たちが返す。蝉の鳴き声が頭の上で響く。
「もう、お昼も近いし、そうめんでも食べる?」
わたしが言う。まあ、作るのは文吾さんだけど。学生たちはまじめな顔でうなずく。ここ、笑いどころなんだけどなー。そう思いながらわたしはビニールの手袋をはずして、玄関へ向かう。文吾さんがうれしそうなのがわかる。文吾さんは、わたしが好きなようにふるまうのを見るのが、うれしいのだった。
一回り年上の文吾さんと結婚して、二年が経つ。子供はいない。文吾さんがいらないと言ったから。わたしの世界を壊したくないんだって。なんだそりゃ。昔の文豪みたいなことをいうのね。でもわたしだって、子供なんかぜんぜん、これっぽっちもすきじゃないから、べつによかった。わたしは料理もつくらないし、家事もしない。たまに文吾さんの畑を手伝うくらい。わがままを言って家に迎えたラブラドール・レトリーバーの「ころ」とバーニーズ・マウンテンドッグの「まる」の散歩に行き、みんなでお昼寝する。それくらい。ときどき「妻の顔」をする。お客さんが来たときとか、今回みたいに学生さんが来たときとか。文吾さんはわたしを見せびらかすのがすきみたいだった。言い方は悪いけど、たぶんそうだ。だからといって、横柄な態度は取らない。それどころかへこへことわたしに気を使い、まめにわたしの世話を焼く。谷崎潤一郎と松子夫人みたいね。わたしがそういうと、僕はそういう劇場が好きな「ふし」があるのかもしれないな、と文吾さんは言った。
つめたいそうめんをすする。学生は六人。ゼミ長の青年の横田くんをいれて、男の子が三人、女の子が三人だ。文吾さんの研究テーマは「漢文学」。その中でも杜甫や李白など、詩歌を研究する。学生たちの研究対象は詩歌に限らないようす。テーマについて話し合い、ブラッシュアップするのが今回の合宿の目的だという。学生たちは向かい側に、文吾さんはわたしと肩を並べて座っている。みなみ、おいしい? 山葵と生姜は、辛くないかい? 文吾さんはたずねる。ん、とわたしはそっけなく言って、隣ではあはあと息をしているまるを撫でる。(ころはテレビの前で眠っている。)
「先生、きのうお話した僕のテーマについて、どう思われますか」横田くんが文吾さんに話しかける。あ、文吾さんって。とわたしは思う。文吾さんってほんとうに先生なんだなあ。なんだか不思議。毎日わたしの足の間で、眉をひそめてため息をついている文吾さんが、先生なんて呼ばれているんだもん、笑っちゃうよね。わたしはぷぷぷと笑った。横田くんがきっとわたしを見たので、あわててまるに視線を落とす。
「うん、よかったよ。別れの詩における舟のモチーフ。舟の暗喩を辿っていくと広がりそうだ」
「先生、私の中国古典文学の嫉妬する女性像は?」
「ぼくは漱石が読んだ中国古典で書きたいです」
学生たちは、かしこいなあ、とわたしは思う。かつて、わたしは、学があることにものすごく引け目を感じていたことがあった。文吾さんにすすめられて、大学にも行こうとしたけれど、考えて、やめた。大学に行っても行かなくても、わたしという人間は変わらないような気がしたから。文吾さんはわたしが家にいるのを好んだし、わたしもときどき文吾さんの所有するビルの一階で、小さなスナックを開くだけでよくなっていった。わたしはもう学問については何も思っていなかった。どうでもよいことだった。学問とは、単なる学術的な内容だけではない、とぼんやりわかっていた。
「みなみさんは、漢文学は読まないんですか」
「みなみは、絵の方が好きだね。西洋の絵の方が」
わたしの代わりに文吾さんが答える。
置いてきたものがたくさんある、と思った。たとえば、かつて勤めていて、文吾さんと出会う場にもなったラウンジ。
夜は小さなお店を開いて、昼は若い画家たちに個展の場を提供している。その日の画家は水野だった。彼は細かな書き込みの静物を描いていた。ぼんやり見ていると、彼がスケッチブックから顔を上げてわたしに目で問いかける。いいな、と思ってさ。わたしはいう。神様があるよ、ここには。水野は笑う。水野はわたしのことが好きなんだと思う。でも、絶対にわたしをふっかけたりすることはない。そこまで向こうみずではない。わたしもそれに気がついている。わたしは画家たちの好意にうすぼんやりと気づいていて、それでいて、この場所を提供している。
生活からの逃げ場。
「先生に、この場所を紹介されたのは幸運でした。ここは一等地だし。ふらりとやってくる人もいるしね、何枚か置いて行くと、夜、ここに来店した人が興味を持ってくれることもあって」
「文吾さんは絵画にも造詣が深いからなあ」
「みなみさんは、先生とどんな話をするんですか」
「ええ…畑のこととか」
わたしは言葉に詰まって、リモコンを取ってテレビをつけた。なにか、おもしろいものやっていないかなあ。水野は顔を伏せて、コーヒーを飲む。文吾さんと話していること。畑のこととか、あとはなんだろう。本のこと、映画のこと。わたしの身体の特徴のこと(たとえば右肩に青いあざがあるとか)。そのとき、とあるニュースに目が止まった。繁華街の店から出火、放火か、とのことだった。銀座。なつかしい響き。そうして、少しずつ目を大きくした。なつかしいもなにも、なんとかつて働いていたラウンジだったから。
「みずの、わたしの働いていたところ、燃えている」
「ええ?」水野は怪訝そうに返す。
「ねえ、ここ、このお店の四階。わたしが働いていたところだよ!うそでしょ」
テレビの中で、ラウンジがごうごう燃えていた。消防車があちこちに停められている。消火活動が行われています、とニュースのアナウンサーがいう。浮かんできたのは、美里のことだった。美里。美里は無事?
「みり……」
「みなみ」
美里の声が聞こえた気がして、わたしはばっと振り返る。もちろんそこにはだれもいなくて、しんとした厨房があるだけだ。美里。慌ててスマートフォンを出して、美里に連絡する。電話には出ない。既読もつかない。
美里は、わたしの勤めていたラウンジの同僚だった。文吾さんに水揚げされる前、付き合っていた。正式に、告白をした、とかではなかった。話し合って、触れ合って、ベッドの中で笑いあって。そうしてできていた関係だった。美里は大学で宇宙について学んでいた。奨学金のもらえる、特待生だった。とてもかしこかったのだ。いつもわたしの顔を撫でて、わたしの額に口付けた。美しい、美しいといって口付けた。天使の生まれ変わりだよ、みなみは。……そんなことを思い出した。美里。わたしの美里。文吾さんのところへ、行かなきゃならないのよ、わたし。わたしはそう言って美里と別れたのだった。美里は、あの日ーーわたしが文吾さんに水揚げをされた日に、何を思っていたんだろう。文吾さんのあとについていくわたしを見て、なにを思っていたんだろう?
亡くなったのは、愛ちゃんだった。顔見知りのキャストである。ボーイの仕事をしていた男の子と、くっついたり離れたりしている女の子だった。だれかが放火をしたのか、はたまた愛ちゃんが放火をしたのか、ラウンジの不始末による事故なのか、それはわからなかった。美里からは連絡はなかった。美里はもう店に在籍していなかったのかもしれなかった。それから、美里はもうわたしと連絡をしないと決めているのかも知れなかった。
夜、学生たちが和室に寝静まると、わたしは足音を忍ばせて文吾さんの書斎をノックした。文吾さんは眼鏡をかけて本を読んでいた。外に出よう、とわたしは言った。文吾さんは立ち上がり、連れ立って外に出た。
「あの店は」文吾さんがいう。
「あの店は、昔にも燃えたことがあるの」
「……大学院生が放火したものだね」文吾さんがいう。
「そう、強姦されたラウンジ嬢のためにね」
わたしは文吾さんを見上げる。月の光が彼の髪を照らしている。
「置いてきたものが、たくさんある」
文吾さんは黙っていた。わたしは文吾さんの胸に額を当てる。
「帰りたい?」
「そんなこと」
「ごめん」
「決めたことだから」わたしは笑った。文吾さんが、暗闇の中でがっくりとしていた。大丈夫だから、とわたしは文吾さんの背を撫でる。夏の夜風が髪を揺らす。どこにいっても、逃れられないものがある。もう対岸にあることだ。置いてきたもの。もう、二度とわたしの手に入らないもの。触ることのできないもの。
文吾さんがしゃがんで嗚咽し始める。わたしは畑のトマトの葉を嗅いで、いちめんに広がる星を見上げた。




