だれかおれをすきになれ
台風の影響
ピーマンを縦に切ろうとしたら、包丁を差し込んでしまってぱっくり割れてしまった左の人差し指の内側、が、ようやく治ってきたときに、あたしはせばた先輩に、振られた。
振られたとかいうものでもない。振られたことを知ったのだ。(知覚したともいえる)せばた先輩が、同じく職場の先輩のミカさんとみんなの前に出てきて、「この度、開発部のミカさんと入籍いたしました」と宣言したとき、あたしは「そうですか」と思った。最初は「そうですか」と思ったのだけれど、だんだん信じられないような気持ちになってきて、ずーんと鉄の塊を頭の上から落とされたように感じて、一人でいるときに発狂するようになってしまった。誰だって一人になると発狂するものである。なんだか部屋の光や外を通る車の音までもが、あたしをばかにしているんじゃないかと思った。いよいよおかしくなってきたあたしは、家の近くのヤバそうな心療内科に行って、軽い統合失調症のきざしがありますねと言われて、薬を渡されて、いまにいたる。
アホか、とも思う。
「付き合っていないって言っていたけれど、やっぱりお付き合いしていたんですね。あの二人」
と言うのは、後輩のりくちゃんである。りくちゃんは前々からあたしに、「せばたさんとミカさん、絶対付き合ってますよね」と内緒話をしていた。
あたしはもちろん、あたしがせばた先輩を好きだってことはだれにも言っていなかったけれど、りくちゃんは人の態度とか、好意とか、そういうのに気づきやすいタイプだから、あたしの好意もバレていたんじゃないかってハラハラした。あたしは、今思えば本当にばかなんだけど、ミカさんとご飯を食べに行ったときに彼女がいった、「せばたさんとは何もないよ。本当に何もなくて、ただ仲良いだけだよ」と言う言葉を完全に信用していて、せばたさんが入籍したことよりも、仲良しだったミカさんに嘘をつかれていたことの方が、あたしをはげしく動揺させた。
いまは三月の中旬で、部署ではもう異動の話が出てくるころだった。せばた先輩は、この大井町のオフィスから品川のオフィスへ移るらしい。残されたミカさんは大井町に残るのだけれど、と、わたしはミカさんのお腹を見る。ミカさんの腹には、「それ」がある。「それ」。せばた先輩が「それ」を「作って」しまったからだ。だから、ミカさんは夏前までしか働けないらしい。うらやましい、とあたしは思う。あたしだってあたしだってあたしだって優遇されたい。大切にされたい。休みたい。幸せになりたいのに。赤ちゃん、ほしいのに。ほしくない。ほしい。ほしくない。どっちかな。
ぎゃー!
その日もあたしはアパートの中で発狂して隣人から壁ドンを受けた。何度も思い出してしまう。先輩が入籍報告をしたときのこと。先輩がわたしと降り積もる雪を見て喋ったときのこと。先輩が仕事でヘマをしたわたしを助けてくれたときのこと。先輩と話す時のわたしのバカみたいな甘ったるい声。思い出して、ぎゃあ!と叫んでしまう。壁ドンの音が大きくなる。
「ごめんなさいごめんなさい」
わたしはカミソリを持ってきて、足首を切る。
足首の傷はこれで27個目。
SNSで繋がった男たちに一斉に連絡する。またリスカしちゃった。吐き気が止まらなくて辛いよー。もう死にたいよー。わたしなんか生きている価値ないよ。大丈夫? と連絡がくる。一度か二度か三度か四度か、「やった」男たち。それでも彼氏にはどうしてもなってくれない男たち。
死ねよ。と思った。どうしてあたしばっかりこんなに不幸な目に遭わなきゃいけないのか、ぜんぜんわからない。
せばた先輩が結婚したからせばた先輩はもう死んだということと同じだ。結構すきだったんだけどな。次のフェーズに入る。藤沢さん。同じチームではないけれどけっこうすれ違うことが多い。歳は上で、今年で三十八になるけれど三十八には見えないくらい若々しくてイケメン。それに紳士。いつもあたしにドアをゆずってくれるんだ。あたしのことをよく見ていた気がするから、あたしに気があるんだと思って、あたしは尻を突き出してぷりぷりと藤沢さんの前を歩いていた、ら、
「ねえ山崎さん、藤沢さんって絶対にりくちゃんのこと好きだよね」
同期の青木さんが言った。はあ、なんでですかというと、「ふたりでディズニー行ったんだって。藤沢さんが誘ったとか。絶対好きだよね。いつもりくちゃんのこと見ているし」。あたしの横顔越しにりくちゃんを見ていたってわけ。あたしの恋(恋でもないが)はとつぜん、台風のように、すばやく終わる。
マッチングアプリに登録する。「26歳、証券会社勤めのまさる」とマッチングする。まさるはせばた先輩に似ていた。まさるは背が高く笑うと目がなくなった。まさると結婚したあとのことを考えてみた。背の高いまさるがかわいい私たちの子どもを肩車してショッピングモールを歩いているところを想像した。しあわせすぎる。まさるをけしかけて、ラブホテルに連れていく。まさるに抱かれる。わたし、これまで恋愛で失敗ばかりしてきたの。彼氏ができるのなんてもう何年ぶりって感じなの。これからまさると付き合えると思うとうれしい、というと、あんなことしておいてこんなこと言うのは最低やけど(まさるは大阪出身だった)まだ付き合うとかいう気持ちにはなれんのや、と言われてあたしもう頭にきちゃって、造花の入ったガラスの花瓶でまさるのこと思い切り叩いた、ら、まさるは逆上してあたしに覆い被さってきた。まさるのことを見ていた。まさるの目を見ていると、ぜんぶぜんぶうまくいかない自分がみじめになって泣けてきた。みんな逃げていく。あたしから逃げていく。みんなあたしのことがすきじゃない。じっとまさるを見ていたら、まさるはため息をついて5,000円をテーブルの上に置き部屋を出て行った。だれかあたしをすきになれ、と思った。だれかあたしをすきになれ。だれかおれをすきになれ。すきになれ。すきになれ。すきになれ。
***
一ヶ月後、あたしは低容量ピルを飲み始めた。統合失調症の薬とはとくに合併させても問題ないみたいだったから。そうしたら急に台風の気持ちが治って、あたしのこころは海になって、あたしはかぐや姫が天の羽衣を着せられたときみたいに、好きになる気持ちもすっかりなにもかもなくなってしまった。




