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月白  作者: あかるい
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今日という日は

今日という日はもうこない

 ソンがどんどんリリックを生み出していく一方で、わたしのキーボードを打つ手は止まる。ソンは銀色のロルバーンに、鬼気迫る勢いでリリックを描いている。わたしも打つ。「わたしの恋人はラッパーだ」そしてデリートキーを押す。こんな文章、なにも面白くない。

 ソンと出会ったのは渋谷のクラブ。DJ柏崎の紹介で知り合った。こいつ、おまえの書く本が大好きなんだってさ。柏崎はいった。紹介された「こいつ」の首元には青い登り龍のタトゥーが入っていて、脂肪のない顎の下でピタリと止んでいた。舐めてみたいと思った。この人の首筋の皮膚の匂いを、刺青の匂いを、嗅いでみたいと思った。

「おれ、るるさんの小説、好きなんです。るるさんも西脇順三郎が好きだと知って、これはアツい。俺とおんなじだと思いました。新人賞おめでとうございます。文芸誌買いました。早く文庫になるといいすね」

 だらりとした笑顔でソンは言った。うん。そう言って手を伸ばして、ほおを触ってみる。だらりと開けられた口に、そっと指を入れると、ソンは柔らかくそれを転がした。犬みたいだった、背丈の高いソンは。焼けた肌に綺麗な歯並びだった。

「ねえ、わたしのひもに、なるのはどうですか」

 わたしが言うと、ソンはまた笑った。笑って「ワン」と言った。「そう言うことになったな」と柏崎が言った。それだけのことである。


 ソンは少し病気だと思う。ちかごろみたいにテンションが高すぎて、一晩中寝ないでリリックを書き留めている時もあれば、もうラップなんかやっていたってしかたがない、消えたい、死にたいと落ち込むときもある。通院していて、服薬もしているみたいだった。わたしはそういうメンタル系のことはよくわからないので、「ふうん、たいへんだね」としか言わない。ねえ、これっぽっちの小さな錠剤で、ほんとうに気持ちが安定するの? 聞くと、わからない、とソンはいう。でも飲まなきゃおれの「かみさま」に怒られるから、飲まなきゃいけない。ルーティンとして。ソンはそう言ってわたしに口付ける。ソンとキスをする時、ソンの首元の龍が口の中に入ってきて、わたしの喉元をかっと鋭く通っていくような、そんな感じがする。


 少し前に、わたしは、小説の新人賞をとった。念願の賞だった。ひとつのリンチ事件から始まる、大人と子供の境界線の話。わたしの小説は、SNSで賛否両論だったけれど、ソンが良いと言ってくれるのだから、それでよかった。わたしはこれでも幼稚園教諭だから、リンチだのなんだの、強い言葉を使うとすぐに批難がくる。けれどもどうだってよかった。ソンが好きだといってくれるならば、どうだってよかった。ソンのために書いていた。ソンが喜んでくれるのを楽しみに書いていた。

「わたしの文庫本、いる?」

「ほしい、おれ、また読むよ」

「うん」

 ソンがものすごく、好きだったから。



 DJ柏崎は、わたしの元セフレである。むかし、好きで好きでしかたがなかった。そんな柏崎から、連絡がきた。ソンが浮気しているとのこと。そんなわけはない、と思いつつ、そんなこともある、とも思った。いそいで仕事を切り上げて、柏崎の家に向かった。柏崎は、当たり前のようにわたしを抱いたあと、「ソンがMVを撮りにいくときに、必ずついてくる女がいる」と教えてくれた。わたしは、そうなんだ、と言った。



「ソンは、浮気をしているの」

 帰ってから聞くと、していない、と答える。ららちゃんのことがおれは、好きだ。ららちゃん以外は目に入らない、という。だって、好きな人が、そう言っている。信じるしかない。



 そのうち、ソンは帰ってこなくなった。わたしはというと、まったく書けなくなってしまった。ひとつもいい言葉が出てこない。書いても書いても、ばかばかしくなって消すばかりだ。ソンが、いろいろな女の子と遊んでいることを知った。ソンが、たくさんの歌詞を生み出していることも知った。ソンは絶好調だった。わたしは、絶不調なのに。

 ソンのことを、うらやましい、ねたましい、とは思わなかった。少しだけ、こわかった。どんどん高い階段を上っていってしまうソンがこわかった。人間じゃないみたいだった。とつぜん、ソンは、西脇順三郎についてのリリックを、わたしにLINEで送ってきた。帰ってもこないのに、送ってきた。

「脳の皺に注ぐ沸騰したエーテル、

アポロンの首をコンビニで売ってる、

黄金の精液を撒き散す太陽、

意味を殺した俺が世界の最期、

雨雨雨硫酸の接吻、

文明を殺す一秒の絶分、

大理石の経血、

エリオットの汚物、

俺の言葉は光をはらんだ怪物、

私なんてゴミ箱に捨てた胎児、

意味なんて宇宙に射精した催事」



 秋、ソンが死んだ。長く深いうつが明けて、またこの前みたいに気持ちが病的に明るくなって、リリックを刻んでいた時期だった。わたしのしらない女の子と死んだみたいだった。ホテルの窓から落ちたみたいだった。ソンは、ソンは、というと、柏崎が、ソンは死んだよというので、柏崎をめちゃくちゃに殴ったけれど、ソンは帰ってこない。柏崎にめちゃくちゃに殴り返される。わたしはぼうぜんとした。



 そしてわたしは、ソンについて書こうとした。



 夏、仕事を辞めた。というよりも、辞めざるを得なくなった。柏崎との性的な関係を、週刊誌に撮られたからだ。わたしは、柏崎の鎖のひもにつながれて、全裸になって、公園を四つ這いで歩いていた。笑い物になった。あはははは。人から指摘されるたびにわたしも笑った。ふざけんなよ、ソンがいない世界に価値なんか、ないのに。

 ソンについての文章を、文学誌に載せた。ソンが死んでからさらさらと書けるようになるなんて、なんて皮肉なんだろう。かなしかった。

 週刊誌に撮られても、柏崎とのサディスティックな関係が終わるわけではない。四つ這いになりながら、ワンワンと言いながら、ソンのことを考えた。ソン。わたしのソン。わたしだけの、わたしがいちばん執着していたひと。


 

 秋、ソンの実家を訪れた。ソンのことだ、さいていな家庭環境なんだと思っていたら、そんなことはなかった。ちゃんとお父さんとお母さんがいて、静かにわたしを家の中に招いてくれた。恋人の家を訪れるなんて、昔観た映画ーーブローバックマウンテンみたいだなと思った。なにか、持って帰ろう。あの登場人物みたいに、ソンのかたみを持って帰ろう。そう思って、部屋を見せてもらった。けれども、

「わたしって、ソンのなんだったんだろう」

 結局、わたしは選ばれなかった女だ。わたしはソンのことが好きだったけれど、ソンはわたしのことをそれほど好きではなかった。それを認めるのが辛かった。それがわかるのが辛くて、わたしは座り込んでしまった。

 ふと机の上を見る。ソンのシャツがたたまれて置いてある。よく着ていた柄のシャツ。わたしは思わず手を伸ばす。硬かった。開いてみる。わたしの小説があった。わたしの本があった。息を呑んで手に取った。書き込みがある。線がたくさん引いてある。紙がはさんである。リリックを書いた紙がはさんである。るるちゃんに、と書いてある。新しい歌詞だった。るるちゃんに、るるちゃんに、るるちゃんに、と、書いてある。

 本を抱きしめた。ぽろぽろ涙が出てきた。ソンはたしかに生きていた。生きていて、わたしのことを、わたしのことを…

 わたしのことを。


 わたしは本を鞄の中に入れた。カーテンを開ける。陽光が差し込んできて、わたしは思わず目を細めた。


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